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【報告】ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』を読む

2008.01.28 小林康夫, 國分功一郎, 宮崎裕助, 時代と無意識

去る22日、昨秋に出た待望の書、ジャック・デリダ『マルクスの亡霊たち』(増田一夫訳、藤原書店)をめぐって、訳者の増田一夫さんをUTCPにお招きし、二人の若手研究者(國分功一郎、宮崎裕助)による発表を出発として本書を再検討するという場が設けられた。

この集まりは、UTCPフランス現代思想ワークショップのメンバーの発案のもとに、UTCPリーダーの小林康夫が主宰しているセミナー「時代と無意識」の場を借りて行われたものであり、司会進行は小林リーダーがつとめた。
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当日の会は驚くべき活況を呈することになった。その日一番のサプライズは、鵜飼哲さんが一橋大のゼミの学生たちを引き連れて飛び入り参加されたことだ。けっして易しくはないデリダの著書を再検討するにあたって、訳者の増田さんのみならず、鵜飼さんに討議に加わっていただいたことは、日本での最良のデリダの読み手の二人をお迎えすることができたという点でも、発表者にとって、願ってもない素晴らしい機会になった。会場では、スタッフが用意された席では足りずに新たに椅子を補充するなどの対応に追われながら、満員の熱気のなかで会は開かれた。

宮崎発表レジュメ(PDF)
國分発表レジュメ(PDF)

当日ははじめに、宮崎が発表し、本書の基本的な特徴や背景、そして亡霊論の企図と問題点を指摘することにより、本書に私たちがいまどのようにアプローチすればよいのかを考えるための諸条件を概略的に提示することが試みられた。まず本書は、たんなるマルクス論の書というより、デリダの政治的身ぶりが異例なまでに前景化しているため(F・フクヤマ批判や「新世界秩序」批判)、原著刊行から15年経ったいま、政治的な状況の変化には注意する必要がある。それではいま、本書が亡霊論として提示しているマルクス像の重要性はどのようなものか。

そこで注目されるのは、本書の亡霊論が実のところ、マルクスの思想を、宗教批判とテクノロジーの問いとが交叉する地点に浮かび上らせる意義をもつという点である。デリダがマルクスに見いだした亡霊的な作用は、自由民主主義のグローバル化と相即的に現代世界を覆う「宗教的なものの回帰」の現象を分析するのに不可欠である。他方、現代のコミュニケーション状況を媒介するメディア=テクノロジーの展開は、まさにデリダが「バイザー効果」と呼んだ、眼差しを構造化する不可視なものの亡霊的作用に即して分析されなければならない。

ただ、本書が抱えている最大の問題点は、「メシアニズムなきメシア的なもの」のモティーフである。正義の約束としての革命的な出来事を指し示すのに「メシア的なもの」に訴えている本書には、さまざまな疑念や批判が寄せられており、このモティーフは、後期デリダにとってのスキャンダル(躓きの石)になっていることが指摘され、発表が閉じられた。

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続いて、國分の発表は、「デリダ的「資本論」はありうるか?」と題され、デリダとマルクスの関係をめぐってより踏み込んだしかたで大胆に問題提起を行う、というものだった。発表は大きく二つに分かれ、前半では、デリダがマルクスの存在論と区別してマルクスのテクストから摘出しようとしている「憑在論」の定式化に、後半では、この憑在論が『資本論』における「本源的蓄積の問題」として再考されるときどのような帰結を持つのかを考える、ということに費やされた。

憑在論と存在論とを分かつ区別は要するに次の点である。すなわち、憑在論は、存在論が前提としているリニアな時間性とその始点であるところの起源という考え方を批判するものである、ということだ。これは、憑在論が対象とする亡霊の回帰的な時間性によるが、これは憑在論において亡霊が代わりに起源として機能するということではなく、亡霊が起源ならぬ「起源」として社会的諸関係を織りなすメカニズムを分析するところに憑在論の核心がある、ということにほかならない。

では、この憑在論が、『資本論』において資本主義におけるリニアな時間性の起源として想定されている「本源的蓄積の問題」においてはどのようなものとして現われるのだろうか。憑在論は、起源を亡霊化させる点で、そうした本源的な資本蓄積の起源という物語を失効させる。となると、デリダのいう憑在論にとって資本主義はどうなるのだろうか。憑在論は、資本主義の起源を抹消することによって、つねにすでに資本蓄積があり、つねにすでに資本主義のなかにするほかはない、と想定し、したがって、資本主義を遍在化し超歴史化することにより、資本主義の外部への視点を失うことになるのではないか。

本発表は、こうしたことが本書のいう「新たなインターナショナル」の曖昧さと関連しており、本書から抵抗運動を組織していくような展望を妨げているのではないかと論じ、そのかぎりではむしろデリダに抗してあえて起源を語る勇気を持たなくてはならないのではないか、と締め括った。

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この二つの発表を受けて、増田さん、鵜飼さんのコメントが続き、会場との質疑応答へと開かれてゆくなかで、きわめて多様な問い、重要な論点が提出されたのだが、ここでは私自身が非常に興味深く思えたポイントをざっと紹介しておくことで、報告に代えさせていただきたい。

増田さんの応答で感心させられたのは次のコメントだった。増田さんの整理によれば、一方(宮崎の発表)は、デリダの政治的な身ぶりにおいて本書の時代的な射程が短いのではないか、と異議を呈し、他方(國分の発表)は、本書が資本主義を超歴史化して時代的な射程を長すぎるものにしている、と異議を呈する、というしかたで両者が対称的な反論を提示したということは興味深い。実のところ、この時間のズレそのものが本書の論じているアナクロニー(錯時性)を示しているのであり、本書の射程が逆にパフォーマティヴなかたちでそこから明らかになっているのではないか。

鵜飼さんのコメントもまた非常に刺激的で、かつ多様な論点にわたるものだったが、國分の発表に対する応答としては、むしろデリダの立場は、資本主義という時代区分を明確に立てるスタンス自体に批判的であり、逆に、本源的蓄積となるような始まりは一回的なものではなく決定不可能なものとなることで、現代の諸問題(たとえばイラクで起きている問題)をあらたな別の資本主義のための「原始的蓄積」の契機として再考できるようなパースペクティヴを開くのではないか、というものだった。

他に、鵜飼さんの発言で興味を惹かれたのは、そもそもマルクス主義者たちの正統性争いに批判的であり、その議論の俎上に引っ張り込まれることに警戒していたデリダからすれば、本書は、もともと正面からマルクスを論じようとした書ではないにしても、一種の裏口からのマルクス入門として読めるという話だった。事実、亡霊の形象がマルクスの著作に頻出することは確かであり、たんなるレトリックと思われてきた(それ自体亡霊のような)言葉の系列から本書のような帰結を引き出したマルクス論はやはり類例をみないものなのであり、これは、けっして古びることのないマルクスの可能性を引き出すデリダ一流のやり方だったことになるだろう。

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また宮崎が疑義を呈していたデリダの「メシア的なもの」のモチーフについても、次のような応答があった。本書の「メシア的なもの」は、マルクス(主義)の教条的な宗教批判に一定の留保を加える一方で、信仰をもつ者たちがマルクス主義者と対話を開始するためのチャンスをつくり出すように働くのではないか。またマルクス主義によって目的論化された唯物論の企ては、結局のところ、従来マルクスという「avenir」を奪うためにしか働いてこなかったとすれば、デリダの貢献は、この来たるべき未来を再び開始するために「メシア」という挑発的な符牒をあえて用いたことにあるのではないか。

その他にも、デリダの亡霊論は、マルクス自身の欲望を駆動する幻想の次元において精神分析的な観点での射程を持つのではないかといった論点、あるいはまた、本書の横糸をなすシェイクスピアの亡霊は、spirit なき ghost の時代おける、歴史的に決定不可能な形象となることで、ユダヤ=キリスト教の一神教的文化に閉じないような重層性をもたらしているといった論点、そして本書のさらなる問題として、マルクスの『ユダヤ人問題によせて』への言及が不在であることが、本書(ないし後期デリダ)とユダヤ性の問題との関係を複雑にしている、といった、いくつもの重要な論点が提出されたのだが、ここでは残念ながら、逐一たどり直す余裕はない。

本書は、ある意味で、デリダが「マルクスの厳命」をそれ自体ひとつの厳命として呼びかけた本であると言うことができる。この点をめぐって、討議の締め括りに小林リーダーが、会場から一冊の書物が厳命であることはどのようなことか、という会場の質問に答え、次のような趣旨の応答をしていたのは印象的だった。つまり、この厳命が亡霊のように読者に取り憑くのだとすれば、この亡霊は、あれかこれかと選ぶようなものではありえない。ましてや、デリダの亡霊に同一化することでもありえない。おそらくひとは、それでもいやおうなく取り憑かれざるをえない受動的な苦しみの経験のなかで、そのつど各々のしかたで亡霊とともに生きるのであり、そのようなものとして、デリダ=マルクスの亡霊は複数的になるのである。

討議のなかで増田さんも喚起していたことだが、しばしば、ひとはそれとは知らずしてマルクス主義者になるということ、そのような意味での「クリプト(隠れ)マルクス主義」にデリダはつねに注意を促していた。本書は、狭義のマルクス主義の書ではないにせよ、まさに亡霊というモティーフを介してマルクスの精神=霊をそれとは知らせることなく亡霊的にわれわれに取り憑かせるのであり、そうしたしかたでマルクスの遺産をその未来にむけて相続する経路を切り開いたのである。本書以後、私たちはもはや素朴にマルクス主義者であることもそれをたんに拒否することもできない。そうではなく、クリプト・マルキシストであること──あえて言うならば、これが先日の討議に私たちを集わせ、マルクスの亡霊たちにアクセス可能にしていた合言葉(パスワード)であったように思われる。(記=宮崎裕助)

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