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【報告】水俣・福岡展訪問

2024.01.10 宮田晃碩, 桑山裕喜子

 
 2023年10月13日、Global Shapers Community Fukuoka運営の水俣スタディーツアー参加前日、事前学習調査として福岡市の福岡アジア美術館にて10月7日から11月4日まで開催の水俣・福岡展に行ってきた。主催は認定NPO法人 水俣フォーラム 、共催は西日本新聞社。UTCPからは上廣共生哲学講座特任研究員の宮田晃碩さんが同行した。

 この水俣・福岡展は水俣病発見(1956年)から40年を機に開催された「水俣・東京展」(1996年)という名で始まった展示会に端を発する。主催は97年に発足した認定NPO法人水俣フォーラムだ。展示会を通し、水俣病に関する史実と現在に光を当て、その問題の根深さを全国各地に語り続けてきた。水俣病問題の根深さに関してはもちろんだが、このような展示会が27年も前から定期的に行われてきていたことすら初めて知る報告者は、申し訳なさを感じながら、展示会に足を運んだ。展示会の中に入るとまず目に入るのが白黒の写真と延々とつづく年表だ。
 白黒で撮られた写真で見える人々の表情には目を奪われると同時に、何か見てはいけないものを見ているかのような感覚を憶える。水俣病を患ったことのない人、あるいは身近に患者の存在を経験したことのない人には決して汲み取ることのできない痛みや諦念のようなものが、それを撮る写真家のまなざしと入り混じるようで、思わず見入ってしまうのだが、見るということでしか彼らの置かれている事態に(半)参加することができない自分の立場の申し訳なさをひしひしと感じた。

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(写真上は水俣フォーラム・ホームページ上のもの)
https://npo.minamata-f.com/

 水俣病とは端的には有機水銀中毒のことである。医学的には「1932年から1968年にかけてチッソ株式会社水俣工場が水俣湾に流した工場排水により生じた」と説明される(水俣病研究会 2020, 12)。そこで流されたメチル水銀の総量は、「一億国民を二回殺してもなお余りあるほど」と形容されている(水俣フォーラム趣意書)。ぎっしりと文字で詰まった年表を一列ずつ読み解いていく。病気の発見、その原因と思しき物質の調査、関連性の解明、それに対する市や国、そしてチッソの反応や対応、患者の症状の多様化、深刻化、患者側による訴訟の歴史、そして医学的調査と低迷、発展の歴史が繰り広げられる。出発前に第一部のみであるが予習として観てきた原一男監督の「水俣曼荼羅」が頭に上がってくる。現在も闘病する患者の権利を巡る裁判も、初めは原因不明の「奇病」として扱われた病症も、その地域の繁栄を約束してきた工場技術の陰で起こってきたという逆説が目の前に広がっていた。

 チッソ(日本窒素肥料株式会社)が水俣に工場を作ったのは1917年のことだ。メチル水銀を含む工場排水の直接の原因となるアセトアルデヒド・合成酢酸設備が稼働する1932年までの間には、工場廃水による水質汚染のため漁業被害があったことが記録されている。漁業組合による補償要求に対し、チッソは「永久に苦情を申し出ないことを条件に」見舞金1500円を払ったという(水俣病センター相思社・水俣病関連詳細年表)。これはまだメチル水銀が一緒に流されてはいなかった段階の話だ。
 メチル水銀を含む無処理の工場排水が水俣湾へ放流されるようになってから、具体的に人体に水俣病の症状が現れるまで、20年以上もの月日が要された。初めは魚の死骸が海や海辺で発見され、次に飛べなくなって空から落ちてくるカモメが現れる。そして、落ち着きをなくし荒れ狂う猫が発見される(1953年)。間も無く漁師やその家族に、突然歩けなくなり、いつも通り話をすることができない、といった症状を訴える患者が現れ始める(1956年)。その発症の仕方は非常に突然であったようで、「昨日まであんなに元気だったのに」と家族は口を揃えて唖然としたという。皮肉にも、同じく1956年は『経済白書』が高度経済成長期日本を「もはや戦後ではない」と形容した年であると年表は語る。

 年表の一列一列を追っていくと、一定の症状が「水俣病」として一般に既認されている現代から見ると信じられないほど、ゆっくりと時が流れていっているように感じられた。もちろん、チッソ水俣工場が開設(1917年)されるのは明治維新に始まる産業化や「富国強兵」政策下で日本が参戦した日清・日露戦争を経た後のことである。戦争参加を積極視し、結果として戦争で負けないためならば「どんな犠牲をも厭わない」といった全体主義的姿勢につながる何かが、「水俣病」が「水俣病」として認識される半世紀以上も前から準備されていたように思えてならない。
 1953 年ごろには患者による症状の訴えに先立って、周囲の異変(魚や鳥の大量死、猫の異常反応)が既に発見されていた。それにも関わらず魚と米以外の食料が手に入らなかった漁師たちやその家族は、今まで通り、海で取れる魚を食べ続けるより他になかったという。無味の有機水銀を大量に接種した魚の味が今まで通り変わらず美味しかった、という言い伝えが思い出された。
 水俣の地に一つの近代的豊かさをもたらしていたチッソ水俣工場の関係者はもとより、その恩恵を受けていた人々の多くは、「奇病」の原因が工場排水に潜んでいることを認めようとはしなかった。患者を家族にもつ人々の間にもチッソを敵とすることで、所謂「村八分」を恐れる人もいたという。未知の症状を訴える患者を受け入れ必死に研究を進めた医者もいれば、国が「水俣病」を認定公害病と認めてからは、国からの圧力によるものか、医療費の負担を最低限に抑えるため、できる限り症状を軽いものとして記録しようとする医者もいたという。展示の中には白黒の写真のほか、当時ニュースで扱われた報道をビデオや新聞のコピーで示していた。展示室の最後のところには、今日までに亡くなられた水俣病患者の顔写真が並んでいた。

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(写真上は水俣フォーラム・ホームページ上のもの)
https://npo.minamata-f.com/

 同日夜、同じ展示会主催の「私と水俣病」という登壇会が開催されていたため、同じく宮田さんと、翌日から一日半のスタディツアーに同行する20から30代のメンバーと一緒に向かった。登壇者は水俣病患者の夏田美智子さんと作家の田口ランディさんであった。
 報告者が水俣病患者の言葉を直接聞くのは初めての体験だった。夏田さんのお母様は彼女が小学生の時から水俣病を患っていた。お母さんの身に定期的に起こる痙攣や日常的に起こる家族間の衝突が当たり前となった環境を生き抜いてきた日常の光景が率直に語られていく。後に同じく水俣病とアルコール依存症にかかる夏田さんのお兄さん、そして比較的軽症状で済んできたと語る夏田さんご本人にも降りかかる、想像を超えるような困難を目の当たりにしながら、困難をものとせずに仕事と語り部の役割を引き受け続け、娘として、妹として、そして母として生き抜く、彼女の生命力と底力に圧倒された。
 後に話を始める田口ランディさんは、夏田さんの最後の一言からスタートする。「わかっていただけましたでしょうか」という一言だった。所謂「当事者」として自身の経験を他者に語るということは、自分と他者との間に何かしらの形のつながりを可能にすると同時に、場合によっては絶壁のようなものをも作りうるという。自身もアルコール中毒の父のもとで育ったという経験を持つランディさんは、語り部として仕事をした結果「絶壁」ができた、と感じる経験が多々あったという。しかし彼女の語りの中には、彼女自身の置かれた立場や役目がどんどんと変化していくその変遷が鮮やかに描写されていた。所謂「被害者」と呼ばれる立場から所謂「加害者」とも呼ばれうる立場の両方の人々と一緒に仕事をすることを通し、それぞれの立場にある人々の心情や、彼らの置かれている体制そのものの持つ限界をまざまざと観てこられたのがひしひしと伝わってきた。
 印象的であったのは以下の点だ。国や市で働く公務員は部署を数年ごとに変えられ、それでも自分の担当する部署のことについては、あたかもずっと昔から知っていることであるかのように語れるだけのスキルを持って仕事をするという。そしてそれができるからこそ、公害病で公立機関に賠償や責任が問われても、役員一人一人に求められる対応にも限界が出てくる、とランディさんは語る。とはいえたとえ数年のみある役所を代表するにとどまる役員たちだって、患者たちと面を向かって対峙する時、その状況の「今ここ」を共有する、あるいは共有したという事実は変えられない。
 登壇会が終わり、言葉にならないいくつもの感覚や印象に戸惑いながら、翌日からスタディツアーに一緒に出発するチームと一緒に一言二言を交わした。報告者自身の本音を言うと、肝臓や腎臓といった内臓がもぎ取られるような感覚を覚えた。現代社会のいわゆる「豊かさ」を支えてきた技術のおよそ全てがチッソの生産してきた物質や製品と繋がっている。チッソ水俣工場では、人体における水俣病発見の1956年から12年経った1968年にようやっと水銀触媒によるアセトアルデヒド製造が終止された。しかし傾向として、私たちの日常生活におけるライフスタイルは変わっていないどころか、さらに物質的な豊かさと効率の良さを求める「人間的怠惰」は悪化しているのではないか、という印象さえ覚える。

 水俣フォーラムの運営する水俣展の次回の展示は来年12月上旬、京都で行われる。その次の回は、展示会第一回の時に戻るかのように、東京で開催される予定だそうだ。どちらも足を運びたいと思っている。

 現在、水銀汚染が確認・懸念されている地域は世界中に未だ10ヶ所近く確認されている。また、報告者自身たちが水俣に足を運んだ数日前には、水俣病患者の原告128人の新たな認定措置と損害賠償に関する大阪地裁による勝訴判決に対し、国と熊本県が控訴を出している。新しい判決が出るのは、2024年3月以降だそうだ。私たちは一体どこに向かっているのだろうか。これら一つ一つの事象は、水俣から遠く離れ都会の生活を<謳歌>する一人ひとりにどれくらい伝わるのだろうか。

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写真提供 : レイク沙羅 (Global Shapers Community Fukuoka)


今回の報告書において参考した資料とウェブサイトについては、以下を参照されたい。

水俣病研究委員会(編)、2020『日本におけるメチル水銀中毒事件研究2020』、弦書房。

一般財団法人水俣病センター相思社 水俣病詳細年表:
https://www.soshisha.org/jp/about_md/chronological_table

環境省 水俣病問題関係略年表等:
https://www.env.go.jp/council/26minamata/y260-02/ref01.pdf

認定NPO法人 水俣フォーラム:
https://npo.minamata-f.com/

環境省水俣病情報センター:
http://nimd.env.go.jp/archives/minamata_disease_in_depth/mercury_pollution_in_the_world/

水俣病裁判控訴について(2023年10月12日朝日新聞記事):
https://www.asahi.com/articles/DA3S15764389.html

(報告: 桑山裕喜子)

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