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【報告】トニーノ・グリッフェロ教授講演会「Atmospheres and Felt-Bodily Resonances」

2024.04.08 桑山裕喜子

 2024年1月11日東京大学駒場第一キャンパス101号館24号室(研修室)17時から19時にて、トニーノ・グリッフェロ教授(ローマ大学トール・ヴェルガータ校・神戸雰囲気学研究所)による講演会が開かれた。講演タイトルは“Atmospheres and Felt-Bodily Resonances”(雰囲気と感じられる身体共鳴)。コメンテーターとしては、ロレンツォ・マリヌッチ先生(東北大学大学院人文科学部)がご登壇くださった。

 2024年1月11日東京大学駒場第一キャンパス101号館24号室(研修室)にて、トニーノ・グリッフェロ教授(ローマ大学トール・ヴェルガータ校・神戸雰囲気学研究所)による講演会が開かれた。講演タイトルは“Atmospheres and Felt-Bodily Resonances”(雰囲気と感じられる身体共鳴)。コメンテーターとしては、ロレンツォ・マリヌッチ先生(東北大学大学院人文科学部)がご登壇くださった。
 講演会は、講演者の紹介ののち、グリッフェロ先生による講演、マリヌッチ先生によるコメントと質問、そして参加者を交えた全体ディスカッションでもって終了した。オンライン参加者は、ギリシャ、ドイツ、イタリア、京都、神戸から8人の研究者が同席された。UTCPからは、梶谷真司先生と上廣共生哲学講座特任研究員の宮田晃碩さんが参加された。当センターの梶谷先生は「雰囲気」を現象学内で初めて扱ったドイツ人哲学者のヘルマン・シュミッツについて、20年以上も前に『シュミッツ現象学の根本問題』(2002)という単著を出されている。本講演で扱われる新現象学の日本におけるスペシャリストである梶谷先生とグリッフェロ先生が東京で出会うことができた、というのはイベント運営者としても嬉しい限りである。
 「雰囲気」を西洋哲学内で扱うことの歴史は、長くない。グリッフェロ先生の講演でも一番焦点が置かれていたのはヘルマン・シュミッツ(1928-2021)の雰囲気の現象学だ。最後には「自分でも自分とシュミッツの間に区別がつかなくなってきた」といった冗談を交えるほど、グリッフェロ先生はシュミッツの開拓した新現象学(Neue Phänomenologie)に密着して思考を進められている。本講演では特に、その根本概念であるLeib(感じられた、生きた身体)やleibliche Kommunikation(身体的コミュニケーション)について、そしてグリッフェロ先生ご自身の雰囲気論のキーワード“affordances”を詳細にご紹介くださった。
 総じて新現象学の新しさは以下の点に要約されうるだろう。1. 志向性(Intentionalität)というブレンターノを介してフッサールによって現象学の術語として確立されていた語を決して使わない点。2.現象の現れを人間の外部知覚のみを通して基礎付けることを却く点。3. あらゆる経験・現象を三人称の視点(その場合は「Körper」で言い表される体を扱う視点)ではなく、むしろ一人称の、それも、五感に限られない身体的感覚から捉えなおそうとする姿勢(しかしシュミッツ自身、一人称と三人称の両方の視点を交錯して使用するときがある)。4. この身体的感覚がいつも常に、意識的にも無意識的にも周囲の状況(を形作るさまざまな要素)と常にコミュニケーション状態(「身体的コミュニケーション」)にあることを指摘し、それが私たちの生きる個々の原初的現在(primitive Gegenwart)をなし、各々の「状況」そのものが展開されている、と捉える姿勢。ラディカルにも一人称的身体感覚を現象学的記述の根本に置くことで、シュミッツはそれらの経験が所謂「主体・客体」の二元的視点にとらわれずに記述されうることに挑戦してきた、あるいはそれを例示してきたとも言える。
 グリッフェロ先生は、雰囲気が、「人間が空気の中に感知している以上のもの」であり、「主体に感じられる身体を前幾何学的・前次元的空間として充満する全体的な質感」と捉え、これを「あらゆる認知的な修正に先行する」と強調する。具体的にグリッフェロ先生は、雰囲気の経験を意識的なもののみならず、意識されていない段階も含めて分析する。

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シュミッツ同様、グリッフェロ先生は、雰囲気の体験はこの「身体的コミュニケーション」を通じて感知されると捉えている。強調すべきは、グリッフェロ雰囲気論においては、雰囲気とは、物や形や人それぞれに内在的なaffordancesそのものとして捉えられている点である。ここで言われるaffordancesとはそれぞれの物、形、人などが「内在的に展開する要求や誘い、感情価」といったものであるという。「雰囲気は、私たちが入っていく(いる)、感情的空間を響かせているaffordancesそのもの、あるいはその連なであり、その中で私たちは、その感情的空間を感情的に切り取ったり区切ったりしている。」「雰囲気は、私たちに何かしらを(強制のように「させる」のとは区別した意味で)感じさせる。世界とのすべての関係性は感情的であり」、そういった感情性を抜いた客観的科学によって「貧しくされた知覚」とは違ったものである、とグリッフェロ先生は強調する。従って、そこで言われるaffordancesとは、現象そのものが指し示してくるphysiognomy(容貌・形状・外観・景観といった形)による世界の表現性と捉えることができる、という。(雰囲気の感性学で知られるゲルノート・ベーメの場合、このaffordances概念に似たものは「(ものの)脱自」(Extase)という概念で捉えられている。)
 グリッフェロ雰囲気論におけるaffordance概念は、例えば心理学において言われるような、「行為や行動の機会」としてのそれとは区別され、「感情や情感、および、それに耽ってしまうことそのもの」を機に認知可能になるものと解説される。と同時に、上記の「感情や情感」から意識的に距離をとることも可能なものとして説明されている点も強調すべきだろう。私たちをいつも常に取り巻く雰囲気から何らかの形で、意識的に距離をとる、あるいは取り続けることができる、というのは個人の技量が試される分野の話でもある。そのため、グリッフェロ雰囲気論のaffordance概念は、一つ一つのの雰囲気の経験が「情動的経験の社会的足場 (scaffolding)」となることをも積極的に示唆しているという。

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 従来の西洋哲学史内で重視されてきた(アリストテレス哲学における)「実在」(Substanz)と「付帯性」(Akzidens)の枠組みのみから捉えてしまった場合、雰囲気はそこで非本質的と言われる「付帯性」に属すものとして見なされてしまうだろう。しかし、シュミッツによる新現象学やベーメにおける雰囲気の感性学に則り、グリッフェロ先生も雰囲気を「準物体」(quasi-thing, Halbding) として、つまり「言わば実在的」とみなして扱うことを提唱する。それは、シュミッツにおいては感情の非心理化を、ベーメにおいては人や物自身がそれぞれに存在することで雰囲気を形作っている(これが「ものの脱自」)と見なす方向に展開している。また、シュミッツ・グリッフェロ雰囲気論とベーメ雰囲気論が区別される大きな一点として、マリヌッチ先生からのコメント・質問に対して、グリッフェロ先生は以下の点を強調された。シュミッツ・グリッフェロ雰囲気論においては、主体にとって意識的に感じられていない段階にある雰囲気も考慮するのに対し、ベーメ雰囲気論は「主体が意識して感じられていない雰囲気は雰囲気とは言わない」とのことである。
 ディスカッションの際に一度話に上がったテーマとして、シュミッツとナチズムの関係性を問う、というテーマがあったため、軽く触れておきたい。ドイツ国内に、シュミッツ現象学におけるキーワードである生きた「身体」(Leib)にナチズム的嗜好を見受けることができる、といった論や、シュミッツにおける一人称的身体や雰囲気の経験を足場とする議論にファシズムの方向性を紐づける論者がいる、という話である。シュミッツはナチズムが台頭する直前に生まれ、育ち、政権の完全なる崩壊や転向を子供の時から経験してきた世代の人間である。20年以上前に『シュミッツ現象学の根本問題』を出版されたUTCPセンター長の梶谷真司先生は以下のように語る。シュミッツの著作のうちの一つ『歴史の中のアドルフ・ヒトラー』(Adolf Hitler in der Geschichte 1999)は、ナチズムやヒトラーをヨーロッパの中でどのようにして出てきたのかを現象学的な共同体論の観点から捉え、その歴史的な位置づけを理解しようとする著作であるが、ドイツではヒトラーを理解しようとすることじたい、ヒトラーに親和的であると見なされ批判されている、と語られた。
 政治権力と時代精神や時代の「雰囲気」のようなものの間に一定の関係が見出されるとするならば、その時代の「雰囲気」のようなものを作る側と政治権力を担う立ち位置とが完全に一致するのも、完全に分裂するのも、どちらも不健康に見えてならない。西洋哲学史において積極的に扱われてくることのなかった「雰囲気的なもの」の経験に直接に焦点を当てることそれ自体からして、シュミッツのアプローチは注目に値するアプローチではないだろうか。グリッフェロ先生は最後に、「気」という言葉の根付いた文化圏にある日本に生きる人々にとって、「雰囲気」に注目することそれ自体は特別なことではないのでは、という個人的な問いを残された。報告者自身には、「気」という語彙がある文化圏でも、同じくらい、雰囲気について議論し、緻密な反省を重ねていくことは大いに有意義に思えてならなかった。
 日本では「哲学」というと、「西洋哲学」と同意義に思われがちのようである。それはどこかで、「哲学」という日本ではまだ新しい語彙自身の持つ歴史的背景も関係しているのだろう。とはいえ、「西洋のデカルト以降の哲学は全て、デカルトの主客二元論への反発からスタートするんだ」とおっしゃられるグリッフェロ先生のような健康な意味での批判的精神は、「哲学=西洋哲学」と捉えてばかりいては育ちづらいのではないか、と懸念される。原義(philosophia)の「知への愛」を真摯に進めるならば、哲学することは地域や言語、文化の壁を自ずと越境せざるを得ない。もちろん、そこで求められている知が何であるのか、あるいはなぜ(その)知を自分が求めるのか、自己批判的視点を常に保つことも忘れてはいけない。日本やアジアに特徴的と形容されるような思想哲学の伝統のある一面への盲目的追従も、西洋哲学から学べるものを全て鵜呑みにしかねないほどの盲目的学習も、どちらも同じくらい問いに付され続けなくてはならないはずだ。シュミッツの「雰囲気」論は、個々人の身体的感覚を基盤に、自分たちがいつもいるさまざまな「雰囲気」体験について改めて反省するきっかけを与えてくれるように思われる。それ自体は、「気」という語彙のある文化圏に(生まれ、)生きようとも、あるいはそれのない文化圏に(生まれ、)生きようとも、あらゆる個人に関係する生の次元に属するものについて語られているように見受けられる。
 グリッフェロ教授の雰囲気論は、人間をpatheurs(感じる者)として捉えることとして始まる。と同時に、シュミッツ現象学における雰囲気の分析を真摯に受け止めることで、私たちが生きる現場(「状況」)を雰囲気の生成過程として捉える可能性を示し、よく分からないものや比喩として捉えられうる雰囲気現象を現実的なものとして捉える枠組みを提示していると言えるだろう。さらなる問いが頭をよぎるたった今も、何かしらの「雰囲気」に包まれていることを意識しながら、この報告書を締めくくりたい。
 最後に、本講演会運営にご協力くださった神戸大学大学院人文学研究科の神戸雰囲気学研究所(KOIAS)には多大なる感謝の意を申し上げたい。グリッフェロ先生は、神戸雰囲気学研究所(KOIAS)に2023年12月から2024年2月まで招聘教授として所属されており、そのお陰で、今回の講演会も実現した。

(報告: 桑山裕喜子)

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