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【報告】Delicious Movement in Tokyo (2)

2017.07.13

本ブログは、6月10日、17日、24日に東京大学駒場キャンパスで「Delicious Movement in Tokyo 2017」が開催された短期集中講座の報告を第2弾です。

永子さんがワークショップで求めるものは「身体のデモクラシー」だと言う。生まれて死ぬ間を命は物理的な存在、体として生きる。それだけが多様な命の共通項であり、ゆえ身体と思想の多様性を現実のこととして見据えながら、課題に取り組み、体を基盤としてコミュニケーションをする。このために「Delicious Movement」では身体と言葉の距離を埋め、参加者は身体感覚にできるだけ近い言葉を使う。言語コミュニケーションは、特定の身体感覚とそれから派生するイメージを言語で指示し、互いが指示された対象を理解することで成り立つ。基礎には身体感覚があり、共有された感覚を言語で指示し合う。身体に近い言葉と相互理解には、コミュニケーションする人びとの身体感覚が共有され、言語化される「場」が必要となる。

Otake_3.jpgPhoto: William Johnston

この「場」を表す顕著な例として、ゆっくり身体を動かすエクササイズで、予期せず「カクン」と身体が動く現象があった。寝転がって身体をできるだけ遅く動かしていると、関節の位置変更や方向転換のときに滑らかさが失われ、動きに落差が生まれることがある。この「カクン」という動きに関してある参加者が発言したとき、他の参加者も「カクン」という言葉で指示された感覚がわかると迷わず答えた。曖昧な現象に関する意志疎通を可能にするのも、発せられる言葉と身体感覚の距離が近く、かつ特定の動きを共有する「場」が存在するからである。「カクン」という比較的シンプルな例にとどまらず、文学作品とエクササイズのつながりを話すときも、対話の基礎には上記の「身体感覚の共有と言語による指示作用・相互理解」の「場」があった。

「身体のデモクラシー」では、動きから連想した記憶や感情は個人特有のもので、それ故に絶対の否定を受けることはない。参加者の専門性やバックグランドが大きく異るなか、動きという共通の土台を基に、グループの渦に貢献する形で言葉を発する。どの参加者の意見も誠意をもって聞かれるのは、身体感覚に近い具体的な言葉で語られることと、個人の数だけ多様かつ否定できない経験があるからだ。どちらが欠けていても多様なグループ内での誠実なコミュニケーションは難しくなる。「デモクラシー」という単語について言及すると、間接民主制が成り立つためには、人々の意見は話し合い、聞き合いをすることで変わり得るという経験、信頼が欠かせない。それなしでは頭数が多い立場、または数を動かせる力が有利となり、反省と学びなしの単なる多数決に陥る。永子さんの「身体のデモクラシー」という理念、その実践としてのエクササイズと対話は、学び合いの一つのモデルとして機能する。

Otake_4.jpgPhoto: Eiko Otake

デモクラシーに通じて、今回の講座ではゲスト講演者を招いた。「教室を一人の講師が生徒たちに向かうだけの閉じた関係の場にしたくない、生徒が私のみを見るヒエラルキーを崩したい」という永子さんの意向である。慰安婦と呼ばれる人たちを長く支援し、第二次世界大戦における性暴力を追ってきた「歴史と女たちの戦争と平和資料館」の館長、池田恵理子さん。永子さんの福島写真プロジェクトのコラボレーター、かつ日本の歴史を専門とする 、ウィリアム・ジョンストン教授。それぞれ自身の職業を超え、時間も場所も遠い対象と長く向き合ってきた人びとだ。ゲスト講演を受けて「帰宅してから家族と慰安婦問題について話し合った」、「資料館を訪れた」という参加者もおり、今回の講義で提示された内容は授業内にとどまらず、参加者の心に根付いていく様子が見られた。

最終日には永子さんの公演「A Body in Places」が駒場キャンパス内で行われた。永子さんは林京子さんの本を数冊抱えて、キャンパスを踊り、動いた。永子さんの親しい友人であった林さんは今年の2月18日に他界された。彼女への弔いを込め、読書課題にも林さんの作品が含まれた。「A Body in Places」は2014年から続く、永子さんのソロプロジェクトである。アメリカ各地、チリ、香港、福島などを訪れ踊ってきた永子さんの身体が「時間は均一でなく、空間は無でない (Time is not even, Space is not empty)」「距離は変えられる(Distance is malleable)」と訴える。それは微かな囁きで、耳をすませなければ聞こえない。

Otake_5.jpgPhoto: William Johnston

永子さんの踊りは抵抗の形である。歪められた時間と跡のついた空間を忘れまいとする、忘却への抵抗だ。私たちが生きる時代と都市は、限られた時間と場所を競い合うように、建物が並び、人が移動する。しかしその移動は新しい経験ではない。あたかも時間は均一であり、空間は無なのだと思わせる暴力的なものがそこにある。その制約を壊そうと、前のめりに動けば他の人にぶつかり、壊してしまう。既にそこにある現実をただ否定するのは無謀、または逃避だ。永子さんは否定するのでなく、彼女の身体に蓄積されてきた場所と時間の記憶を、踊りを通して運ぶ。そして、差し出された身体から何を聞き出すのかは観客に委ねられる。ガラス張りのコンクリート作りが並ぶ駒場キャンパス中心部。ヒップホップダンスの練習をしている集団、ベンチに座ってラップトップをいじる学生が永子さんを眺め、また無視する。それを我々は見る。

実を言うと、筆者は公演の一部を担っていたため柱に固定されており、踊りの大部分は見逃した。終わりの局面になり、首を長くして待つ筆者の前に永子さんが現れた。筆者の腕に抱えられていた哲学の本の束の上に、よりかかりながら永子さんは頭を休ませた。走るところまで走り着き、しかし、いまだ走ろうとする身体が「バトンタッチ」をしようとしている。または志を共にする、生きる身体として連帯の印がしっかりと押された。筆者も走る人間だ。思い切り、全力で走りきるしかない。去る永子さんの後ろ姿を直視しながら、思った。

文責:青木光太郎(メディアデザイン研究所)

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