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【報告】<現代作家アーカイブ>文学インタビュー第2回 古井由吉

2015.06.12 中島隆博, 武田将明, 佐藤空, 栗脇永翔

無言のうちは、等と書き始めてみたくなる――。文学インタビュー、第二回のゲストは小説家の古井由吉氏である。今回選択されたのは『辻』(2006年)、『白暗淵』(2007年)、『やすらい花』(2010年)の3作品であったが、聞き手を務めた阿部公彦氏(東京大学人文社会系研究科・准教授)によれば、比較的近年の、すなわち60代後半から70代にかけてのいわば作家の円熟期に書かれた作品が集中的に選択されたことに関係者の内でまず、一種の動揺があったと言う。第一回同様、当日は用意されたレジュメを元にインタビューが行われた。(文学インタビューの主旨や進行方法に関しては第一回の報告で詳述したため、関心のある方はそちらを参照されたい。)

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話題は極めて多岐に渡るため、報告者が書きとめることが出来たものをいくつか以下に列挙しておくことにしたい。選択された3作品が書かれた時期の作家自身にとっての意義、ドイツ文学の研究者から小説家への転身、創作活動と外国語文学の翻訳を両立することの困難、言葉の持つ音律と意味(論理)の不可分な結びつき、場の文学としての連歌の小説への導入、作家にとっての病、現代社会における成熟(歳をとること)の困難、等々。その他、報告者自身が興味深かったのはインターネットは語彙が少ないのではないか、という古井氏の指摘である。氏によれば、年寄向けの文章であれ、ネット上ではどうしても若い感じになってしまうという。文学者として達観した印象を与える古井氏が時折我々にも身近な問題に言及されていたのが印象的であった。

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休憩をはさんで行われた朗読の時間には『やすらい花』所収の「瓦礫の陰に」から一節が選ばれ、朗読された。この短編は空襲後の東京を描くものであるが、男女の交わりを主題とすることで、非日常の中の日常を描きだすことを試みたと言う。インタビュー中、小説における音律の重要性を語っていた古井氏自身の声で作品を聞くことが出来たことは極めて貴重な体験であった。

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続いて行われた質疑応答の時間には、(古井氏が語る)「中年男の悪相」(『人生の色気』、113ページ)の意味、作家の病と言語の関係性、古井氏の作品と漱石の作品の比較可能性、あるテクストで現れる「左翼的レトリック」(同書、35ページ)という表現、古井氏の作品の外国語への翻訳(ドイツ語等)、極限状態としての空襲と日常性の関係、等について会場から多くの質問が投げかけられた。若い学生の質問が中心であった第一回のインタビューと比べ、今回は幾人か教員が質問に加わっていたのが印象的であった。

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数年前、ある授業で『山躁賦』(1982年)を読まされたことがある。作家自身、「見事に空を切った」(『色と空のあわいで』、83ページ)という独特な作品であり、学部生には到底理解できるはずもないものであったが、当時の読書体験は、喉にささった魚の小骨のように、報告者自身の記憶に残っている。とりわけ忘れがたいのは「無言のうちは」という最初の短編の題に用いられる表現である。なるほど、この表現は『白暗淵』の冒頭で書かれるように「無言の内はしづかなり」(『白暗淵』、9ページ)等と言った文言に由来するものであろうが、「無言のうちは」と不完全な仕方で止められることでどうも落ちつかず、読者の記憶に残るものになっているように思われる。あるいは、『山躁賦』であれ『白暗淵』であれ、問題となるのは無言のうちに――本当は「に」と安易に置き換えてはいけないのかもしれないが――静かであることではなく、むしろ躁(さわ)がしいことであることも重要な点であろう。対談中、しばしば言葉の持つ音律を問題にしていた古井氏にとって「無言」とはどのようなことを意味するのであろうか? あるいは、そこで躁ぐのは一体何者なのであろうか? これらの問いに即座に答えること等到底出来ないが、報告者には、ここにこそ「内向」が「他者」に開かれるひとつの鍵が隠されているように思われる。

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文責:栗脇永翔(東京大学大学院博士課程/UTCP・RA研究員)

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