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【報告】劉紀蕙講演会"The Political Economy or the Politics of the Void? The Question of Liang Qichao and Zhang Taiyan via Giorgio Agamben"

2013.11.25 石井剛, 川村覚文, 東西哲学の対話的実践

2013年11月19日、台湾・国立交通大学社会文化研究所教授で、台湾大学連合文化研究国際センター所長の劉紀蕙氏を迎えて、ワークショップ"The Political Economy or the Politics of the Void? The Question of Liang Qichao and Zhang Taiyan via Giorgio Agamben"が開催された。本講演はAsian Philosophy Forum Workshopシリーズの第10回目として開催され、UTCP卓越プログラムの一環をなすものである。学内外からの参加者を迎えた中、発表と議論がなされた。

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本報告は、近代中国を代表する二人の思想家、梁啓超(Liang Qichao)と章太炎(Zhang Taiyan)の政治哲学に焦点を当てつつ、その意義を考察するというものであった。特に、この二人がthe Void(空・空虚、あるいは無)といった概念を中心にその議論を立てていることに注目し、その意義を、同じくthe Voidという概念に注目しつつ現代社会の統治性の系譜学を行っている、ジョルジオ・アガンベンの議論を援用しつつ分析するという、大変スリリングな試みがなされた。本発表では、この両者のみならず西田幾多郎や西谷啓治、そして三木清などの京都学派による無の思想などにも触れられ、劉氏の議論の射程の広さと深さに参加者は終始圧倒されることとなった。

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アガンベンがその著書『王国と栄光』で行っている分析によれば、the Void(空・空虚)あるいは「無為の中心」(inoperativity of center)という概念が、統治術としての政治経済学(オイコノミア)を支える隠された中心的原理として、常に機能してきたという。このような「空虚」あるいは「無為」としての中心は、統治の背後に存在する統治不可能なものの存在を示唆しており、それは統治を機能させる原理である一方で、機能不全にもさせてしまうような原理でもあるのだという。劉氏によれば、アガンベンの仕事は、統治性の系譜学的分析を通して、このような「統治不可能なるもの」がどのような原理的役割を果たしてきたかを明らかにするものとして、理解できるとのことであった。

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そして梁啓超は、このような「統治不可能」なものとしての「無」を、統治性を基礎づける原理として議論していたと、理解することができると劉氏は述べられた。梁啓超は、物事を正しく配分し秩序付けるという政治経済学(オイコノミア)の必要性を、新しく国民を作るために必須のものとして主張した。つまり、いまだ国民の存在しない「無」の状態から、国民が存在する「有」の状態へと移行するために、統治性が必要であることを主張したのである。ここには、「無」であるがゆえに「有」(=秩序)を作り出すことが出来るという、統治を基礎づける原理としての「無」という発想が見て取れるのである。

それに対して章太炎は、劉氏によれば、「無」をむしろ統治性を機能不全にさせる原理として、議論していたという。章太炎は儒教における荘子の思想と、仏教、とりわけ瑜伽行唯識学派において論じられている「空」の議論に影響を受けつつ、国家を「空虚なる場所」として理解していたのである。すなわち国家とは、様々なものが常に移り変わり変化していくようなダイナミズムの基底にあるような、場所そのものなのであり、そこでは統治性による一切の政治経済学的な秩序付けが無化されることになるのである。このような国家概念に訴えることで、梁啓超が主張したような統治的国家観への抵抗を構想することが、可能になるはずであろうというのが、劉氏の結論であった。

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本発表の終了後、コメンテーターとして川村の方からいくつかの質問をさせて頂いた。その内容は、かいつまんで言えば、「空」あるいは「空虚」という原理が本当に統治への抵抗原理になりうるのか、というものであった。それに対する劉氏の回答は、まず本発表の目的は「空」あるいは「空虚」を巡る理解の仕方の、それぞれの論者における差異を明らかにすることであると述べられた。そしてそれらの内でも、とりわけ統治性による秩序付けに対抗するような機制を、「空」と言う概念に関して見出している議論が存在するということに、焦点を当てられたとのことであった。またそれ以外にも、参加者からは、京都学派的な近代日本の文脈において論じられている「無」と、章太炎らによる近代中国の文脈において論じられている「無」は、その理解が異なるのではないか、といった問題提起や、近代日本の文脈、特に1940年代の政治的社会的状況との関わりにおける「無」の思想の危険性などが指摘された。以上のような活発な議論が行われ、本講演は予定時間を大幅に超過しつつ、盛況の中終了した。

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報告:川村覚文(UTCP)

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