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【報告】「近代東アジアのエクリチュールと思考」2011年度第7回セミナー

2011.12.09 齋藤希史, 小松原孝文, 近代東アジアのエクリチュールと思考

中期教育プログラム「近代東アジアのエクリチュールと思考」のセミナー2011年度第7回目は「『支那游記』における中国像から見られる対峙的構図―同時代中国言説との関連の下で―」と題し、王煜丹氏(発表者:比較文学比較文化・修士課程)、宮田沙織氏(ディスカッサント:比較文学比較文化・博士課程)を中心に行われた。(発表の部:10月28日、討論の部:11月4日)

【テキスト】秦剛「芥川龍之介と谷崎潤一郎の中国表象――〈支那趣味〉言説を批判する『支那游記』――」『国語と国文学』(2006年11月)

◆発表の部(10月28日):芥川龍之介は、1921年の3月から7月にかけて、大阪毎日新聞の特派員として中国各地を旅行し、『支那游記』をまとめた。王氏は、当時の中国に関する言説空間のなかで、『支那游記』の中国像がいかに構成されているか検討する。谷崎潤一郎の「支那趣味」的な言説に対抗するものとして芥川の『支那游記』が読めるということは、先行研究でも指摘されているが、『支那游記』が問題にするのはそれだけではない。王氏は、谷崎だけでなく、徳富蘇峰や成瀬無極などの中国に関する語りとも比較を行う。実情を無視した耽美的で幻想的な谷崎の中国像に対して、蘇峰のものはジャーナリズムで語られる類型的な中国像である。一方、ドイツ文学者である成瀬は、上海の西洋的趣味と東洋的空気の混合に攪乱されるさまを描くが、これは『支那游記』にも見られる見解である。このように『支那游記』は、同時代の他の言説との対峙、漢学素養のなかの中国イメージとの対峙、西洋対土着文化という対峙など、様々な対峙的な構図から構成されており、必ずしも一元的に還元できない描き方をしているのである。

◆討論の部(11月4日):ディスカッサントの宮田氏により、いくつかの論点が提示された。まず、王氏が対峙的な構図という言葉で『支那游記』をまとめようとすることに対して疑義が示された。特に「西洋文明の侵入とそれによる中国土着文化の喪失についての反感」という点は、留保が必要ではないかと論じた。芥川は「攘夷的精神」の高揚を説きつつも、「ロマンティック」なままではいられないこと、一つの画境に浸りきれないことに語りの比重を置いているように見える。また、同じ『支那游記』でも、上海や江南での語られ方には差異があり、そのような内部の違いも問題にする必要があるだろう。他にも、統一的な中国像に回収するのではなく、むしろそれが不可能なところに『支那游記』が成立しているのではないかという意見が提出された。ジャーナリストの国情論、水滸伝などの伝統的な教養による中国のイメージと、実際の旅行で体験したものとの落差から、芥川は重層的に中国を記述しようとしているように見える。そのなかから単なるジャーナリスト的な紀行文でもなく、また単なる「支那趣味」でもない、小説としてのリアリティをもつような『支那游記』があるのではないかと意見が出た。

(文責:小松原孝文)

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