Blog / ブログ

 

【報告】コロンビア大学ワークショップ「伝統学術の再編と国家意識」

2011.10.11 齋藤希史, 小松原孝文, 近代東アジアのエクリチュールと思考

2011年9月23日、ニューヨークのコロンビア大学で、ワークショップ「伝統学術の再編と国家意識――近代日本の国学と漢学――」が開催され、UTCP中期教育プロジェクト「近代東アジアのエクリチュールと思考」プログラムより齋藤希史、小松原孝文が参加した。

22日には、ワークショップに先立ち、品田悦一氏(東京大学)が、東京大学文学部の古典講習科についてレクチャーを行い、近代国学が成立する以前の動きについて報告した。古典講習科は、一八八二年(明治十五年)に新設されたものである。それは正史、雑史、法制、故実、辞章などのカリキュラムをもつが、明律などの法律も学習科目に含まれている。これらの語彙は、近代的な法制度をドイツ語等から翻訳する際に、訳語の選定のために参照されたと思われる。ここには官僚的に国学を利用しようとする意図がうかがえるが、その背景には明治十四年の政変により、憲法や議会を準備する必要に迫られたことが関係しているのではないかと品田氏は説明する。
columbia0.JPG
23日のワークショップでは、同じく品田氏が近代における国文学および国文学史の確立について、芳賀矢一を中心に報告を行った。芳賀は、古典講習科が廃止された後にできた国文学科で学んだ世代であるが、その「文学」概念とは、従来の学芸全般を指すものではなく、西欧のLiteratureの概念に基づくものであった。つまり、そこでは「文学」は、文明の精華としての〈書かれた芸術〉であり、文学史もまた文明史の精粋となる。ただし、文学史の記述についても紆余曲折が見られる。例えば、三上参次・高津鍬三郎『日本文学史』(1890)では、中華文明の受容が日本文学の成立要件とされ、芳賀矢一・立花銑三郎『国文学読本』(1890)でも漢文や仏教の影響を認めている。ところが、芳賀の『国文学史十講』(1899)では、固有の国民性や民族性を強調するものに変わっているのである。また、それにともない時代区分の方法も見直されていることを品田氏は指摘した。
Columbia1.jpg
齋藤は、「漢学」から「支那学」への移行を問題にする。近代以前における普遍の学としての「漢学」が、中国という地域の文明や文化を考究する「支那学」へと移行するのは、西欧のSinologyのまなざしが流入してきたためだと考えられる。だが、西洋のphilosophyやliteratureの概念が移植される以前から、すでに「経義」と「詩文」の区分はあった。しかし、「経義」は治世の学であり、政治学も含むため「哲学」とはずれがあるし、漢詩文を巧みに綴る「詩文」がそのまま「文学」であるともいえない。また、「文学」は学問一般を指す普遍の学であったが、それが詩文すなわち文芸を軸に置く、国民の文化の学として改変されていく。このような視点のなかから、学としての近代の文学は成立していったと考えられる。文学を国民精神の発露と見なす精神は、文学史の編纂へ至るが、ここでは文学は、詩文のみならず、小説や戯曲なども包摂するようになる。このような「漢学」から「支那学」への転換において、齋藤は狩野直喜から青木正児の流れが重要になると説明する。
Columbia2.JPG
小松原は、国学が昭和においてどのように再構築されたか、保田與重郎のケースを取り上げて報告を行った。保田は、「ランガアジユの世界」というテクストで、富士谷御杖という国学者に注目する。「ランガアジユの世界」(1934)とは、作家と批評家の間にある「作品」のあり方を問うもので、そこでは両者の間の断絶を問題にしつつ、今日の批評家に「作品」がそのつど解釈され直すということを問題にする。それを考えるにあたって、保田は富士谷御杖の「言霊」の議論を参照にする。御杖も詩的言語としての「倒語」を問題にするが、そこでは発信者の詩的な言語表現が、相手の思い込みによって解釈され直すという断絶を問題にしていた。保田の時代は、「日本回帰」の動きがあり、復古的な議論も見られるが、保田はそのような起源の言説とは一線を画すものであると小松原は報告した。
Columbia3.jpg
このワークショップには、コロンビア大学のハルオ・シラネ先生、鈴木登美先生、デヴィッド・ルーリー先生をはじめ、向こうの学生たちにも多数参加していただいた。発表後の質疑応答では、次々と質問が飛び交い、あっという間に時間が経過した。

(小松原孝文)

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】コロンビア大学ワークショップ「伝統学術の再編と国家意識」
↑ページの先頭へ