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【UTCP on the Road】早尾貴紀

2011.04.16 早尾貴紀, UTCP on the Road

 私にとってのUTCP最後の年は、〈3・11〉の東日本大震災の影響のなかで唐突に終わりました。私は、福島県生まれ、宮城県育ち、そして地震当日も仙台にいました。地震の直後に原発が爆発、放射能汚染の拡散を恐れてすぐに子どもを連れて関西に避難しました。それから3月末日まで関西を放浪し、そのまま4月1日に東京経済大学に着任しました。

 UTCP締めくくりの報告会では、当初はパレスチナ/イスラエルのことを話す予定でしたが、この震災を受けて、私自身の体験を話すことになってしまいました。そのこともあり、ここでもこの二つのことを書いておきます。

 UTCPでの私の仕事は、「共生」の(不)可能性に直面するパレスチナ/イスラエルに関わる研究者との交流をコーディネートすることで、勤務していたあいだは、毎年のように重要な人物を招くことができました。イラン・パペ氏、カイス・フィロ氏、サラ・ロイ氏、メロン・ベンヴェニスティ氏。そのうちパペ氏とロイ氏の講演や討議の記録は、単行本として刊行することもできました。世界的にも重要な研究者・発言者であるにもかかわらず、日本語としては初めての刊行物となり、いずれも貴重な書籍になりました。

 日本の研究機関のなかで、これほど重要なパレスチナ/イスラエル研究者を毎年のように招聘でき、かつその成果を形にしたところはないと思います。これは、なによりも小林康夫先生の懐深さと蛮勇のおかげであり、またUTCPという活動体の寛容さのおかげです。私自身が貴重な体験をすることができましたし、それを多くの研究者ならびに参加者らと共有することができました。深く感謝します。

 また、昨年のパレスチナ/イスラエル出張は、こうした一連の活動の集大成として、ひじょうに印象的な旅となりました。小林先生や中島隆博先生ら6人が参加し、現地では、かつて日本に招いたフィロ氏、ベンヴェニスティ氏に受け入れやコーディネートをしていただきました。エルサレムとハイファで二度のワークショップ、そしてヨルダン川西岸地区やガリラヤ地方の視察があり、またさまざまな聖地や係争地を訪れ、人と出会いました。

 実のところ、私がUTCPに最初に雇用されたときから、その究極的な目的は、このツアーを実施することでした。採用の面接で小林先生から、「きみは私たちをパレスチナ/イスラエルに連れていって、現地でワークショップを企画できるかね? 『はい』って返事しないと採用しないからね(笑)」と言われたことを昨日のことのように覚えています。

 言うまでもなく、パレスチナ/イスラエルでは、民族の共生という問題が厳しく賭けられています。政治・経済・宗教・文化・歴史・言語、ありとあらゆる次元においてそうなのです。とても言葉では言い尽くせない錯綜した現実の一端を、UTCPの方々に直接見てもらう機会をつくることができたことに、採用時からの約束を果たすことができたという達成感を覚えます。

 にもかかわらず、その成果の報告は、〈3・11〉大震災のために、最後のシンポジウムにおいてはできませんでした。しかし原発震災から脱出するときに感じたことは、どこかでパレスチナ/イスラエルのこととつながっています。

 それはたとえば、ホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大虐殺)とのようなカタストロフィのとき、あるいはナクバ(イスラエル建国によるパレスチナ人の虐殺・追放)のようなカタストロフィのとき、生き残った人びとはどう動いたのか。

 すべての交通手段が破壊され孤立した都市空間の近くで連続する原発の爆発。そこから脱出するときに逃れた隣の県の小さな空港で、いつ呼ばれるともわからないキャンセル待ちの整理券番号を見ながら、小さな子どもの相手をして丸一日を過ごしていたとき、ユダヤ人迫害からヨーロッパを脱出したりようと試みたり捕まったりしたユダヤ人は港でどういう気持ちだったのだろうか、とか、あるいは、私の子どもに「一週間の避難になるか、一年になるか、あるいは一生戻れない可能性もあるけど、最低限の荷物を準備しろ」と言ったときに、イスラエル建国とともに故郷を追われて難民となったパレスチナ人たちはどうだったのだろうか。そんなことが頭をよぎりました。

 もちろんそれは同じではないでしょう。ただ、とっさの判断ができ、行動ができたことの自分の背景には、こうしたユダヤ人やパレスチナ人の歴史をよく知っていたということがあると思ったのです。ある決定的な転換点において、故郷を捨てることになるかもしれないような移動の決断を迫られることがあり、そのときに躊躇していたら取り返しがつかなくなる、そういうことがあります。

 最後に。この恐るべき〈3・11〉以降、原発・放射能は根底的に「共生」の問題をつきつけています。放射能からは誰も逃れることができず、風と海流に乗って世界中へ運ばれ、日本は汚染犯罪国としてその責任を問われ、世界との関係性も変化せざるをえないでしょう。またすでに福島県民差別が始まり、東日本と西日本とのあからさまな温度差も出てきています。あるいは東北地方と関東、東北地方のなかでも太平洋側と日本海側、被災三県のなかでも沿岸地域と内陸地域。生み出されつつある〈分断〉に対して、〈共生〉は何を対置できるでしょうか。UTCPで学んだ者にはとくに深く問いかけられていると思います。

 長らくお世話になりました。小林先生・中島先生、そして事務局の方々、とりわけ立石はなさんに、深く感謝申し上げます。

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