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【報告】若手研究者連続講演会「ミシェル・フーコーと映画」

2010.11.09 小林康夫, 前田晃一, 大橋完太郎

2010年10月15日(金)、若手研究者連続レクチャーとして、共同研究員の前田晃一さんによる講演「ミシェル・フーコーと映画」がおこなわれた。

マネ論やベラスケス《ラス・メニーナス》への有名すぎる参照からも明らかなように、絵画とフーコーの思考とは常に綿密な関係を取り結んでいた。とはいえ、近代的なものの飽和点としてフーコーの思考を考えたときに、「映画」との関係が希薄であるのはなぜなのだろうか、これが前田さんの掲げた大きな問いかけであった。ドゥルーズの言明「フーコーは、奇妙にも、現代の映画に非常に近い」(『フーコー』p.104)が正しいとするならば、むしろ、映画との親和性のなかにフーコーの現代性が見出されるのではないか、というわけだ。

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前田さんの話の核心は近々提出される博士論文の内容と密接にかかわるので、当方が感じた印象を最低限述べるにとどめよう。『汚辱にまみれた人々の生』で述べられている「光」、〈ディスクール〉の切れ端から浮かび上がってくる生の様態を、前田さんは映画になぞらえた。けれどもそれは、(これはわたしと、小林先生とが重ねて指摘したことだが)、権力と生とが衝突したときに瞬くフラッシュ・ライト、すなわち「写真」のようなものではなかったか。そうして、(次は小林先生の指摘だ)まさに、この「写真」と「映画」とのメディア存在論的な差異のなかに、フーコーの倫理=エートスを見出す必要があるのではないか? 前田さんの発表は、時間の制約もあり、ご本人が考えていることをすべてを表す暇がなかったと見受けられる。とはいえ、前田さんがはからずもあらわにした「フーコーと映画とのある意味の相性の悪さ」こそが、劇場型アンガジュマンの知識人を知らず演じたサルトルとの差異や、苦難の末断筆にいたったマネ論の射程を明らかにするものだろう、と考えるにいたった。前田さんの大きな挑戦が立派な論考として結実する日を祈念する次第である。

* ちなみに、講演がおこなわれた10月15日はミシェル・フーコーが誕生した日であった。ますますアクチュアリティをます彼の思考を見直す格好の機会を与えてくださった前田さんに改めて感謝申し上げる。ついでに言うならば、10月15日はフリードリヒ・ニーチェが生まれた日でもある。(その前日の10月14日は、わたくし大橋の誕生日、あやかりたいものです。)

(大橋完太郎)

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