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【報告】International conference “Mirzo Ulughbeg and his contribution to the development of the world science”

2009.06.18 諫早庸一

6月9日~11日、ウズベキスタンはサマルカンドにおいてティムール朝君主ウルグ・ベクの生誕615年と世界天文年(http://www.astronomy2009.jp/)を記念して国際会議が開かれ、そこで報告を行なった。

ウルグ・ベク(1394-1449年)は、14世紀後半から15世紀にかけて中央アジア・イランを支配したティムール朝の第4代君主であり、天文学・数学・歴史・文学に強い関心を示した学芸君主として、ウズベキスタンでは同王朝の名祖ティムールとならんで名声を博す人物である。特に天文学上の成果が有名で、サマルカンドに当時世界最大規模の天文台を建設した。そこでの観測結果を生かし編まれた『ウルグ・ベク天文表』の影響力は大きく、現在でも膨大な数の写本が残り、様々な言語に翻訳され、その注釈本もかなりの数に上る[cf. 久保 2002: 203, 206; King & Samsó 2002: 498; Kennedy 1956: 125-126]。ここにウルグ・ベクの生誕と世界天文年が結び付けられる理由がある。彼がイスラーム天文学のみならず“world science”に果たした役割を確認しようというのが今回のカンファレンスの趣旨である。

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(ウルグ・ベクの天文台跡地)

今回のカンファレンスはウズベキスタンの科学アカデミーと同国外務省ならびにユネスコとサマルカンド州庁の共催であり、「国家事業」的なものであった。タシュケントの空港に着くやVIPラウンジに通され、時間のかかる手続きはパス。サマルカンド市内での移動はパトカーによる先導の下、辻という辻に警官が立ち、全て青信号になった。昼も夜も食事の際にはウズベキスタンの民族音楽が奏でられ、舞踏と併せての祝宴となった。今回の自身の参加は先方からの直接の打診によるものではなく、あくまで代役としてのものだった。したがって、正直なところこのような破格の待遇を受けて生じたのは、自分のような若造がこの場所にいてよいのかとの思い(報告者の中では間違いなく最年少であったと思う)。大いに萎縮し、情けなくも足が震えた。

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(祝宴の1幕。檀上はウズベキスタンで最も有名な歌手とのこと)

7日の夜に首都タシュケントに到着した。8日は自由に使って良いとのことであったので、ホテルで一緒になったイランからの報告者Muhammad Bagheri氏とともに当地の歴史研究の拠点である東洋学研究所(ビールーニー研究所)へと向かった。そこで所長のBahrom Abduhalimov氏と副所長のSurayyo Karimova氏と面会し、お話を伺うことが出来た。バフラーム氏からは急遽、日本における『ウルグ・ベク天文表』写本の所在と研究状況について少々文章を書いてくれないかと依頼された。現地の新聞に載せるとのことで、期限はその日の夕刻までだと言う。残念ながら時間が無かったので丁重にお断りすることとなった。その後は自身の訪問に合わせて研究所に来てくださった留学生の中村朋美さんに案内していただき、歴史学研究所やタシュケントにあるマドラサ(イスラーム諸学のための高等教育施設)・モスク(礼拝所)を回った。夜には他の留学生の皆さんと合流し、食事・歓談に夜遅くまで付き合っていただいた。

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(東洋学研究所を正面から)

9日は早朝から鉄道でサマルカンドへと移動。サマルカンド駅では楽隊によるもてなしを受けた。この日は終日サマルカンド観光に充てられており、ティムール家や聖者の廟、宗教複合施設を見て回った。バス内では、最前列に坐っていたティムール朝文化史(特に陶磁器)の研究者Frédérique Beaupertuis-Bressand氏が突如マイクを取り、種々の解説を行なってガイド役を担うというぜいたくな観光であった。

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(サマルカンドのランドマークの1つであるビビハヌム・モスク。)

10日からいよいよカンファレンスが始まった。会議は3セッションが同時平行で進みながら2日にわたって行なわれる大規模なもので、参加者の出自もウズベキスタン、ロシアを始めとしてフランス・日本・トルコ・アゼルバイジャン・イラン・イタリア・バングラディッシュと多岐に亘っていた。日本からは自身の他に日本「近世」の天文学史を研究していらっしゃる中村士氏がいらっしゃっていた。セッション名はそれぞれ以下の通りである。
1. The Scientific School of Ulughbeg and Its Role in the Development of World Science
2. Ulughbeg and His Epoch
3. Education and Culture in the Epoch of Ulughbeg
それぞれのセッションが別々の場所で行なわれ、外国からの報告者は殆どファースト・セッションに固められていた。ファースト・セッションでは常に英語―ロシア語―ウズベク語の同時通訳がなされた。我々の旅程には常にメディアが帯同し、会議の会場にはテレビカメラも入った。自身もラジオの取材を受けたが、なんだか怖かったのでテレビの取材は遠慮した。

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(当カンファレンスの責任者Shuhrat Ehgamberdiev氏と)

自身が出席したファースト・セッションの全ての報告について述べるだけの紙幅の余裕はないので、会議全体の印象と、自身の発表についてのみ記すことにしたい。すでにその様子を述べてきたように、この会議は国を挙げてのものであった。各国から著名な研究者を集め(もちろん自身は代役に過ぎずこれには該当しないが)、盛大に会議を催す「場」こそが主催者側にとって最も重視されるべきものであった。ティムール朝期の研究者が必ずしも多かったわけではなく、対象とする時代や地域・学問領域も互いに大きく異なる研究者たちが今回のテーマに自身の研究をうまくすり合わせていた。ウルグ・ベクの作品のヨーロッパにおける受容の様相や、各地におけるサマルカンド学派(ウルグ・ベクを中心とした学術サークル)の作品の写本の残存状況、この時代以前に大きな影響力を持ったイランのマラーガ学派とサマルカンド学派との対比および両者の継続性の検討などがなされ、当時の天文学や文化交流を多角的に捉えることを可能にした。

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(会議のようす)

自身の発表は、ひとことで言えば『ウルグ・ベク天文表』に記される中国暦法についてである。これを通じて『ウルグ・ベク天文表』における中国文化流入の様相を明らかにしようというものであった。そもそも天文表(Zīj)とは何かというと、天文学・占星術を体系立てて記した書物のことで、イスラーム天文学を研究するうえで最も重要な史料だといえる。基本的には最初に各地の暦法や相互の暦法の換算術が述べられ、その後に天体の位置や諸現象を計算するための理論や数表が連ねられる。その後に占星術について記されるのが一般的である[cf. 鈴木 2002: 662]。『ウルグ・ベク天文表』の暦法のパートには中国暦法が記されている。従来の研究ですでにこの中国暦法は、中国歴代王朝で用いられてきたいかなる官暦とも異なることが明らかにされていた。この中国暦法の「特殊性」は、この暦法が中国本土のものではなく、いわゆる「西域」で育まれたものであり、それがさらに西方のイスラーム世界に伝わったことによって生じたとされてきた。中華世界→「西域」→イスラーム世界という文化流入・文化変容の道筋が想定されていたのである。しかし、自身はこの暦法の名称の変化やこれを伝えた人物の称号に注目し、この暦法が純粋に中国本土から直接移入されたものであるという見解を出した。この暦法は中国で官暦以外に流布していた民間暦の影響を強く受けていたと思われるのである。

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(会場外の情景)

自身の研究は従来の研究を踏まえたうえで、一次史料に基づいて自身の説を新たに打ち出す、少なくとも「研究」と呼べるものであったと思う。しかしながら、発表としてどうだったのかといえば極めて不完全なものだったと言わざるを得ない。最初の問題点は、プレゼンテーションの仕方にあった。現地でパワーポイントが使用可能かどうか心許なかったということもあるが、自身の発表は枕の部分を除いてほぼペーパーをそのまま読むものであった。相手に聞かせる努力が欠けていたことは否めない。報告25分質疑5分という時間配分を司会の中村氏から告げられていたが、緊張のため読むスピードが早くなり、3分ほど時間が余ってしまった。終盤でそのことを指摘されたが、アドリブを交える余裕も無く、早々に発表を切り上げる形となってしまったのである。それにも増して拙かったのが、質疑の際の受け答えということになろう。翻訳機を檀上に持ってくるのを忘れ、突然ウズベク語で質問されて気が動転してしまったのもあるが、とにかく相手の質問をしっかり聞き取り、その意図を汲み取ることが出来なかった。例えば、13世紀以前のイスラーム史料において中国暦法は見られないという自身の受け答えに対しての追加質問で、11世紀のトルコ語―アラビア語辞書に見られる十二支(もちろん中国暦法の1要素)の記述についてはどのように思うのかとの質問が飛んだ。確かに十二支は見られるが、体系立った暦法としての記載は無い、という趣旨の答えが適切であったかと今になってみれば思う。しかし、その時はその十二支が中国暦法といかに密接な関係にあるかを解説してしまった。まったくとんちんかんな返答である。帰りのバスでようやく質問者の意図に気付き悶々としていると、インド天文学史の大家Razaullah Ansari氏が隣に座って「ヨウイチ、議論は楽しめたのか?」と一言。答えは言うまでも無い。

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(夕食時に歴史学研究所の皆さんと)

11日の会議の後はその日の深夜の飛行機で帰国せねばならなかったため、早々にタシュケントに戻り、空港に向かった。自身の発表には悔いが残るが、現地の研究者たちや天文学史の大家たち、およびティムール朝研究の重鎮たちと触れ合うことが出来、貴重な経験となった。今後の国際会議での発表の約束もしていただくことが出来た。UTCPのコンセプトの1つが世界規格の研究者養成であると認識している。今後更なる研鑽を積み、その理念に少しでも近づければと思っている。

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(いただいた土産物。土産袋はサマルカンド古紙で作られているとのこと。会議のProceedingsに加え、サマルカンドのカタログ、中央アジア前近代の天文学者たちの作品の露訳など。『ウルグ・ベク天文表』の露訳は以前から欲しかったので、とてもありがたかった。)

最後に、科学アカデミー天文学部門の長で当カンファレンスの責任者であったShuhrat Ehgamberdiev氏をはじめとする運営者の方々全てとタシュケントでお世話になった日本人留学生の方々、そしてなによりカンファレンス参加の打診をしてくださり、当地での過ごし方から原稿のチェック、飛行機の乗り方まで全てを指南してくれた先輩の木村暁さんに心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

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(VIPのタグと我が家の玄関)

文献表
Kennedy, E. S. 1956. “A Survey of Islamic Astronomical Tables,” Transactions of the American Philosophical Society, 46-2, pp. 121-177.
King, D. A. & J. Samsó 2002. “ZĪDJ,” The Encyclopaedia of Islam (New Edition), vol. 11, pp. 496-507.
久保一之2002. 「ウルグ・ベク」大塚和夫ほか編『岩波イスラーム辞典』岩波書店, pp. 203, 206.
鈴木孝典2002.「天文学」大塚和夫ら編『岩波イスラーム辞典』岩波書店, p. 662.

(文責:諫早庸一)

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