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哲学としての「東アジア」 第1回

2009.06.17 北川東子

機会をみては、哲学において「東アジア」がますます注目されてきている事実について報告してきた。それについて、私のささやかな経験をまとめるかたちで、何回か書いてみたい。

地域概念や政治概念としての「東アジア」が見直され、「文化概念」として理解されるようになったのはもうかなり前のことだ。中心自分物の一人が、UTCPの中島隆博さんがいちはやく邦訳・紹介をしたフランソワ・ジュリアンではないだろうか。ドイツでも「中国という迂回路による哲学の再生」ということで、ジュリアンの書いたものが翻訳されて話題になった。

しかし、こうした「東アジア」にたいする熱いまなざしも、いわば西洋とりわけ「ヨーロッパからのまなざし」ということで、「文化的他者」としての東アジアへの関心であったように思われる。「東アジア」にたいする関心は、「文化的他者」という大きなカテゴリーで括られる関心であって、「西洋近代」という中心が周辺的なものを取り込み、自己の哲学的概念性を拡張するための「迂回路」にすぎなかった。

日本でも、「漢字文化圏」ということで東アジアの文化的共通性を軸とした「東アジア」理解があったし、「慰安婦問題」や「歴史認識の問題」をきかっけとして、問題の共有や共同研究の動きはここ10年くらいの間に急速に強まった。UTCPでも、最初の5年間では、第四部門ということで、「東アジアにおける新しい対話の哲学構築」をめざして、活動が行われた。

今から6年ほど前、ちょうどあの「サーズ」が蔓延していた頃に、UTCPの高橋哲哉さんと私は国立台湾大学の法学部を訪れて、「台湾日本統治時代における近代法制の導入」というテーマで園部逸夫元最高裁判所判事の講演を聞いた。印象に残ったのは、当時日本の植民地支配をうけていた韓半島や台湾において、西洋型・近代法制を導入するために、園部先生のご尊父をはじめとした、日本の学者たちが行った仕事の詳細であった。とりわけ印象に残ったのは、朝鮮においてはきわめて抵抗が強かったこと、商法をはじめとした民法をまず導入することで、日本型西洋化を実践しようとしたことであった。大東亜圏という支配領域を確立するために、まず経済から入り、政治へと向かい、そこから日本統治の構造をつくり上げようとしたのであろう。

ところで、こうした植民地勢力の実働部隊としての公的動きと同時にまた、「日本統治」という政治体制によって規定されながらも、「それぞれの市民としての生活」も現に存在したのである。園部先生ご自身が台北で少年時代を過ごしており、「植民地の日本人」の生活の一端を紹介してくださった。この講演会には旧台北帝大で熱病研究に従事しておられた病理学者のご親戚も参加されており、「内地」における容赦なき勢力争いによってはじきとばされ、「外地」へと逃れざるをえなかった学者たちの研究・教育活動や、「外地」のもつ解放性と多文化性のなかで生きてきた人々の姿が紹介された。たしかに、そうした生活は、大いに批判されるべき「特権階級」の生活だったのだろう。しかし、軍事政権下の帝国日本が徹底的に文化・思想弾圧を行ない、国民生活が急速に戦時体制へ向けて統制されていくなかで、この「外地」が「内地に」たいしてもっていた解放的意味は大きかったのではないだろうか。

かつて、アドルノの弟子であったドイツの社会学者から「戦時下日本では亡命が可能でなかった。そのことが、政治的・思想的抵抗を不可能にしたのではないか」という推測を聞いたことがある。思想文化にたいする地勢的制約が話題となったときである。たしかに、第二次大戦中や戦後のドイツを文化的・思想的に支えたのは、トーマス・マンやヤスパースそしてフランクフルト学派などの「亡命組」であった。この「外部」があったからこそ、戦後ドイツは社会的再生力をもちえたといえる。
このとき、台湾を訪れてわかったのは、軍事国家日本にも「外部」が存在していた事実である。したがって、問題とすべきは、それにもかかわらず、「外地」がなぜ真に「外部」としての政治的・文化的インパクトをもつことができなかったのか、なぜ「植民地的知性」という批判的思想力が生まれなかったのかということであろう。

こうした問いかけは決して、「大日本帝国が近代化推進力として東アジアの植民地で果たした積極的な役割」などを持ち出すことではない。韓国や台湾の学者たちが指摘するのは、日本に植民化されたために、自分たちが強制された「日本型近代化」の大きな弊害であり、自分たちの社会が蒙った重大な「歴史的切断」の事実である。私のこの問いかけは、日本現代史の歪曲と誤った政治的強弁の自己正当化のためではなく、現代日本という磁場において「現代思想史をどう書くべきか」という問題があるからである。

極端な表現をすれば、問題は次のようなことである。まるで1945年の敗戦をゼロ点としてすべてが始まったかのような、そのために、「戦前的な悪」はすべて「帝国的・軍事的・ナショナリズム」へと還元されてしまい、すべては一回きりの総ざんげと反省に固定されてしまうかのような思想史観、この狭く貧しい歴史・思想史観を基盤とすることで、現時点における思想の起爆力をみずから放棄してしまう姿勢-キャロル・グラックが保守も左翼も同じ構図でしか現代史を捉えていないと批判する、あの「思想における日本的な安易さ」である。

この問題は、台湾大学での講演会のあとに行われた元政治学部長の許介麟教授主催の日台交流会でますます大きくつきつけられたのであった。(続く)

(文責:北川東子)

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