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【報告】石川文康「カントの歴史哲学―理念の歴史性をめぐって」

2009.03.31 └歴史哲学の起源, 森田團, 時代と無意識

「時代と無意識」+UTCP短期教育プログラム「歴史哲学の起源」の合同演習として、2008年12月10日、東北学院大学から石川文康教授をお迎えして、講演会「カントの歴史哲学――理念の歴史性をめぐって」を開催した。

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まず石川先生は、カントの数々の著作に散見される歴史哲学的な洞察を一瞥しながら、カント哲学において時間と永遠の対立が、とりもなおさず感性と理性との対立にほかならないことを指摘した。もちろん、理性、ないし超時間的なものと、感性、ないし時間的なものは『純粋理性批判』においては、カテゴリーの時間化(図式化)において交わる。この意味で純粋知性概念(カテゴリー)は、客観的妥当性(実在性 realitas objectiva)を持つのである。

では、理性概念としての理念はどうなるのだろうか。石川先生は、理性は完全に時間を越えており、時間化されないと述べる。理念はカテゴリーのように客観的妥当性、実在性を主張できないのである。しかし、石川先生によれば、理念は理性のいわば「身分証明書」なのであり、何らかのかたちで理念の妥当性(実在性)は確保されねばならない。そのひとつの可能性が、理念の統制的原理である。カテゴリーの構成的原理とは異なり、理念の統制的原理とは、個々の認識をではなく、諸認識を体系化する。このようにして理念は時間の世界(現象界)に影響を与えることができるのである。

ここで実在性は理論認識だけに限らないということを思い起こす必要がある。つまり、実践的認識における実在性も存在するのである。この関連でカントは理念の客観的・実践的実在性を認めている。道徳法則、そして自由の実在性にほかならない。道徳法則は、カントにとっては、「純粋理性の事実」であったが、それは演繹ではなく解明されるべきものであった。

道徳法則の形式は「~べし Sollen」である。これは理性を起点とする命令という形式として解釈しうる。この命令文という観点から、石川先生は、理性から感性への越境という論点を提出する。命令とは他へのメッセージであり、かつ他からのメッセージであるからであり、必然的に越境を前提とするからである。この「~べし」の命令を受ける側の表現が、義務の意識、ないしは道徳法則への敬意にほかならない。これこそが行動を惹起する動機であり、運動因なのである。この意味で「~べし」もまた実在性を持つと言えよう。石川先生は、この実在性の重みを理論認識上の実在性を上回るとさえ言い、その重要性を強調していた。

敬意という感情の実在性こそが、カントにとって実在性そのものであったことは、そもそも実在性(妥当性)が、理論認識、実践認識を問わず、叡智的なものが感性界における対応物によって確証されることを意味することからも理解されうる。実践認識の場合は、敬意という感情こそが理念の実在性の証なのである。

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永遠平和という理念が実在性を持つとすれば、それこそがカントの歴史性への洞察を明かしてくれるだろう。そのような見通しのもとに石川先生は、以上の議論を踏まえて、『永遠平和のために』の読解を最後に試みることになった。カントによれば、永遠平和という理念は、一方で哲学者の甘い夢であり、理論的には過度の要求であるが、他方で実践的にはその実在性は充分に根拠付けられている。石川先生は、このカントの主張に理念の客観的・実践的実在性の論理がここでも貫徹されていることを見て取っている。さらに注意が向けられるのは、この理念の実在性の在り方とも言うべきものである。というのも、永遠平和という理念の実在性は、無限に接近する過程のうちでのみ実現されうるような課題であるからである。講演では、この課題の概念に命令文の形式が読み取られ、ここにも「~べし」という要求があるということが強調されていた。つまり、永遠平和の理念の実在性は、理念への無限への接近のプロセスそのものにある。そして、ここでは個人の道徳の問題を超えて、類が問題になっている。ここにカントの歴史哲学を思考する出発点があるのである。

講演の最後に付け加えられたのは、「~べし」が孕む独特の時間性の問題であった。「~べし」という命令文には時制が欠けている。それはそもそも永遠平和という理念は超時間的であるからである。しかし、それが時間に介入するとき理念は必然的に時間のもとに服すだろう。この時間性は「~べし」が要求する未来であり、この時間性こそがカントの歴史の概念を規定している。石川先生はドイツ語sollenが未来をあらわす用法を持つことを指摘していたが、「~べし」の不断の現在への介入は、その都度の未来を切り開くわけである。このような観点は、報告者の私見ではあるが、啓蒙主義の歴史哲学を根底から規定している進歩主義や先に話題となった漸近的に理念に接近するという考え方と齟齬を持つ。両者の関係を検討することはカントの歴史哲学を再考する際のひとつの重要な論点になるだろう(sollenと未来との関係について、石川先生は、すでに『良心論――その哲学的試み』で興味深い考察を展開している)。

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ここで本短期教育プログラム「歴史哲学の起源」の関心にそって、石川先生の発表に触発されたことをしるしておきたい。

カントの歴史哲学は、明らかにドイツ啓蒙主義の哲学――レッシングやヘルダー――と共通の洞察を分け持っている。発表の冒頭では、カントの歴史哲学的著作(「世界市民的見地における一般史の構想」(1784)や「人類史の憶測的起源」(1786)など)について言及されていたが、これらの著作は基本的に啓蒙主義の歴史哲学的な背景とともに理解されるべきものである。たとえば、レッシングは『人類の教育』(1780)において、理性の発展を啓示の実現に重ね合わせながら描いている。歴史とは理性の成長であり啓示の実現なのである。啓示の概念をあからさまに導入するレッシングの立場は、カントが秘かに前提としているものを照らし出してくれるように思われる。「~べし」においてカントの独特の啓示の解釈を見出す必要あるのではないか。このような論点は、最初匿名で出版されたためカントの著作と誤解されたフィヒテの『あらゆる啓示批判の試み』(1792)を含めて検討すべきだろう。

さらに最後に話題となったsollenが含む時間性の問題は、ベンヤミンやブロッホ、さらにはハイデガーの哲学との関連で考察すべきように思われる。実際、石川先生は、『良心論』において、この三人に言及しながら、sollenの時間性や良心の呼び声についての考察を深めているが、sollenの時間性が、広く歴史哲学一般においてどのような役割を演じうるのかについてはより詳細に検討する必要があるだろう。このことは歴史哲学においても、カントがひとつの出発点であり、礎石であることを示している。

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カントの歴史哲学の創造的な可能性を汲み取ったのは、ドイツ観念論の哲学者たちだったが、それをさらに把握し直し、20世紀の哲学を秘かに準備したエミール・ラスクの著作を、歴史哲学的な観点から再検討することは、上に挙げた哲学者を再読のための新たな視点を与えてくるに違いない。いまやベンヤミンやブロッホ、ハイデガーに比べて不当に等閑視されているラスクだが、リュシアン・ゴルドマンが『存在と時間』の大部分はラスクとの対決であると指摘していたことは思い起こしておく必要がある。そのとき、博士論文『フィヒテのイデアリズムと歴史』(1902)が主要なテクストとなろうが(実はこの著作でも啓示概念が最後に大きな役割を果たしている)、ここで展開される非合理的なもの――のちに「論理的に剥き出しのもの das logisch Nackte」と呼ばれるもの――の理論は、歴史認識の対象をめぐる議論にもう一度導入されてしかるべきだろう。歴史的出来事は、つねに個別的、特殊的、一回的、偶然的であり、それゆれ非合理的であるからである。

また、「~べし」が孕む問題は、ロッツェないし西南ドイツ学派の鍵語である「妥当性 Gültigkeit」ないしは「価値 Geltung, Wert」との関連で考察できることは疑いなく、ここからラスクを含む西南ドイツ学派の歴史哲学を考慮に入れながら、カントの歴史哲学の20世紀における展開を再考することは、これからの課題である。

以上をもって中期教育プログラム「時代と無意識」と短期教育プログラム「歴史哲学の起源」の今年度の活動報告を終えることになるが、石川先生の発表は、今年度の「歴史哲学の起源」の活動を代表するにふさわしいだけではなく、来年度の課題をも与えてくれるような、多くの刺戟に満ちたものだった。

〈参考文献〉
石川文康 『カント入門』、ちくま新書 1995年。
石川文康 『カント――第三の思考』、名古屋大学出版会 1996年。
石川文康 『良心論――その哲学的試み』、名古屋大学出版会 2001年。

(文責:森田團)

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