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【報告】詩人の想像力と歴史哲学―ディルタイにおける力の概念

2008.11.11 └歴史哲学の起源, 森田團, 時代と無意識

 2008年11月5日、中期教育プログラム「時代と無意識」と短期教育プログラム「歴史哲学の起源―コスモロジーとエスカトロジー」との共通イヴェントとして、森田團(UTCP)の発表「詩人の想像力と歴史哲学―ディルタイにおける力の概念」がおこなわれた。

 ヴィルヘルム・ディルタイはいわゆる「精神科学」の基礎付けを試みた思想家であり、その方法論の思想史的な意義は、一般に以下の二点にあるとされている。すなわち、第一に、前期のディルタイによってとられていた心理学的方法はフッサールの現象学に少なからぬ影響を与えたとされ、第二に、後期の彼にとって中心的課題であった歴史の「了解(Verstehen)」の方法は、ハイデガーやガダマーが定式化したような哲学的解釈学の先鞭をつけたとされている。後世のディルタイ評価はおおよそこれら二つの観点によって規定されているのだが、森田氏の本発表は、このように現象学やハイデガーの単なるプロローグに尽きることのない新たなディルタイ像の呈示を試みるものであった。

 まず、ディルタイの経歴とともに、彼が19世紀末以降のドイツでのスピノザ受容に果たした役割とその影響についての興味深いエピソードが紹介された。次に、「生の哲学者」ディルタイの基本思想である「生(Leben)」の概念の説明がなされ、彼においてはこの概念が「了解」と結びついており、それが文学作品を範例とするような言語的了解に基づく歴史認識の方法に繋がっていくことが示された。

 そのうえで森田氏は、このような了解の根源にある「想像力」についてのディルタイの理論に話を進めていく。むろんここで問いは言語からイメージへと移行する。ディルタイは単に歴史史料や文学作品に表現された「生」を問題にしていただけでなく、イメージの生成・変化・消失という、より根源的な「生」の位相を主題化しているのである。そして、このような生としてのイメージの変容の過程が、内的なものと外的なものとの拮抗によってひき起こされることが述べられ、これがいわゆる「体験(Erlebnis)」を産み出すということが説明された。森田氏が重視するのは、こうしたイメージの出来としての体験であり、さらにそれがディルタイにおいては、「力(Kraft)」の概念や心的生の「充溢(Fülle)」といった考え方と連関していることが強調された。

 最後に本発表は、いかなる「了解」も何らかの意味創出的な全体性を前提としなければならないのだが、ディルタイにおいてはこの全体性はコスモロジー的なのか、それともエスカトロジー的なのかという、この短期教育プログラム「歴史哲学の起源」のテーマに関わる問いを提起して終わった。

 発表後の議論のなかでは、ディルタイの「生」を再解釈して変形したものがハイデガーの「現存在」であったことが指摘され、これによって前者の「生」の概念が事実上一掃されてしまったことが話題となった。森田氏の発表は、むしろこのような思想史の流れを遡行して、ディルタイ的な「生」のもつ意義を新たな光のもとに照らし出そうとするものであった。氏のこうした野心的な企ての成否は、ハイデガー=ガダマー的な解釈学的了解に還元しえないようなディルタイの契機、つまり、氏の注目する「想像力」や「力」の概念からいかなる独創的な契機を読み出しうるかにかかっていると思われる。

(文責:大竹弘二)

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