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梶谷真司 邂逅の記録123 共にいること、共に生きること、共に創ること(3)

2022.04.19 梶谷真司

(続き)

 以上、4人それぞれが自分たちの活動を振り返って、考えてきたことを話した。私自身は、デザインにあこがれのようなものがあって、とくに服部さんと水内さんの「土と人のデザインプロジェクト」が大好きで、あのようなことを哲学でやりたいと思ってきた――いろんな人が関わって、それぞれがそれぞれにできることをして、受け取れるものを受け取る。頑張って一致団結するとか、努力してお互いを理解して近づこうとか、そういうのではない、もっと自然に、ただ一緒にいて、一緒に何かを作る、というより何かができていく。
 そういうインクルージョンは哲学対話に通じるものがあり、だからそれをもっと広げて、inclusive philosophyとしてやっていきたいのだが、そのとき問題は、思考や言葉をどのように形にするかということだ。デザインのように具体的に形にするにはどうすればいいのか。もちろん、文章にするというのは一つのやり方なのだが、私が大事だと思うのは、必ずしも自分が形にするのではなく、いろんな人が動くことで形になる、あるいはその人たちがそれぞれに形にするということだ。
 そういうことで言うと、服部さんと水内さんのプロジェクトで、学生と地域の人のコミュニティが生まれたように、鞍田君が昭和村に学生を連れて行ったこと、そこでできたつながりの中で学生が育つことも、一つの形なのかもしれない。東大の多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)ができたのもちょうど同じ時期で、そこで学生が育っているのも、何かが形になったのだと言うこともできるだろう。
 デザイナーが具体的に形にすることを私がうらやむのに対して、水内さんは哲学の人の言葉の作り方、使い方はうらやましいと言った。デザイナーたちは物を作ることで、かえってそれについて考えて言葉にしない、できないまますませてしまう。水内さん自身は、デザインが社会的に影響力があるのに、きちんと考えないまま物づくりを続けることへの後ろめたさがあり、デザイナーはもっと言葉にする努力をすべきであり、言葉にできなくても考えるべきだと言う。
 服部さんも同様に、デザインの世界では、言葉を熟成させるということはあまりないと言っていた。そして彼自身は最近、新たなデザインのコンセプトとして考えるべきこととして、何を作らないでおくか、作らないことを決めるデザイン、いわば「美しく消えるデザイン」も考えなければいけないのではないかと述べた。それと関連して、アーカイブのあり方、形に残すことで何千年も後の人が仮説を立ててくれるようなアーカイブの方法論があるのではないか。美しく消える方法、美しく残す方法を考えたいと言った。水内さんも同様に、デザインは非言語を扱っている部分が大きいが、アーカイブを残すことで、どういう思考をたどってきたのか分かると、アーカイブの重要性を説明した。
 ではデザインの何を記録するのか。それについて服部さんは、デザインのプロセスをいかに可視化していくかが問われおり、それは今デザインの世界でも注力してる。そのさい作る時と作った後が同時に重視されているという。鞍田君もまた、作ったものを消費して終わりではなく、作るプロセスを重視するというのは、哲学もまた思考を生み出すプロセスが重要だということに通じるのではないか。そこに「共に」というのが関わってくるのではないかと述べた。
 プロセスを可視化する、知るというのは、ある種の共有である。物を作ったり、育てたりするかぎり、そこには人が関わっている。だからプロセスを共有すれば、そこに関わった人たちとつながることができる。そうした傾向は身近なところにも表れている。服部さんは、スーパーで売っている野菜に生産者の写真と名前が貼られていることがその一例だと言う。また「土と人のデザインプロジェクト」では、学生からの発案で、動画にするという形でプロセスを残したとのことだった。
さらに水内さんは、デザインの主な産物は最終的なアウトプットではなく、副産物であるようなものやプロセスが主産物である、もしくは何が主産物で何が副産物か区別できないと言う。「土と人のデザインプロジェクト」のプロジェクトでは、晩餐会やゲストハウスも重要だが、それ以上にその過程でできた人間関係や、関わった人たちがした体験に価値があるのだと説明した。
 思うに、同様のことは教育現場でも言われている。探究の時間や「主体的・対話的で深い学び」などは、結局はプロセスを重視するということだろう。しかし、世の中は言われるほどには変わっていないのではないかと聞くと、水内さんは、確かにデザインの世界でも、プロセス重視と言うと、今度はプロセスをきっちり設計してそれを確実になぞるような感じで、かえって余白がなくなるようなことになりかねないと言った。そこで鞍田君も、すべてのプロセスを制御して確実に結果を出そうとする人が多いが、そうやって制御可能なものですべてを埋め尽くすしんどさがある。整理のできなさ、制御のできなさを大事にしないといけないと述べた。そのために大事なのは、服部さんによれば、デザインしていてもきちっと作るのではなく、輪郭を描きつつそれが形を呼び起こしていく、でも輪郭を構成したのはみんなだよねという感じだという。確かにそうしなければ、プロセスを重視することは、これをやったらこうなるという小さなインプットとアウトプットを繰り返すだけで、今までよりもアウトプットを細かく気にするだけになり、かえって効率も悪くなるだろう。
 ここで鞍田君から、そもそも私がこれほどデザインに興味をもったのはなぜかという質問があった。このイベントを通して改めて思ったことだが、私にとってやはりそれは、プロセスを大事にすることだと言っていいだろう。哲学対話でも、内容面では、哲学研究者からレベルが低いとか深みがないとか、井戸端会議だとか、哲学のこと分かってないと言われ、確かにそうなのかもしれない。だが、内容が大したことがないことの何が問題なのか。大事なのはプロセスで、これまで自分を縛っていたものから解き放たれることに意味がある。それは必ずしも共有されなくてもよくて、個人の中で起きただけでもいい。昭和村に行った時でも、響いた人と響かなかった人もいるが、響かなかった人がいるから無意味だったわけでもない。だから鞍田君が言ったように、プロセスと言っても、徹底的に個別的であっていい。ただし、その個別的なプロセスが、みんなと一緒にいることで起こるという点が重要であろう。プロセスも思いも、共有されていなくても、それぞれに違っていてもいいが、他の人と一緒だったからこそ、そうした違いも生じたということである。
 哲学対話をカリキュラムに導入しているある中学校で、哲学対話の時間はどういう時間かということを聞いた答えを寄せ書きにしたものの中に「こどくになれるじかん」と書いている生徒がいた(つたない字でひらがなで)。寂しいとかつらい孤独ではなく、安心して孤独になれる。みんなと一緒に考えたことでそうなったはずだ。だから「土と人のデザインプロジェクト」でも、みんなで一緒にやりながら、受け取ったものは学生によって全然違っていたのではないか。
 そう私が問うと、水内さんは、それが私の考えるインクルージョンなのだろうと言い、こう続けた――ユニバーサルデザインは、みんなが同じであることを求める向きもある。他方インクルージョンは、違いを認め合うという程度かと思っていたが、そうではなく、一緒にいることで自信をもって孤独になれる、自分はこれでいいんだと納得できる、それがインクルージョンなんだと腑に落ちた、と。
 鞍田君が言うように、その子は普段は孤独でいられなかったということなのかもしれない。あるいは、普段から孤独は孤独なのだが、哲学対話の時はそれが心地よかった。誰かに分かってもらえたということでもないかもしれないが、分からないといけない、分かってもらわないといけないというプレッシャーから解放されて、安心して分からないまま、分かってもらえないままでいられる。相互理解が大事と言われるが、そうじゃなくてもいい。相互理解をしないといけないと考えると、かえって重荷になり、縛られるだろう。
 鞍田君によれば、「インティマシー」にも似たようなところがある。インティマシーと言うと、つながることありき、共感ありきのように思われることもあるが、断絶とか分断をうやむやにしないことが大事だということを、この間に痛感してきたとのことだった。
 最後に服部さんが、今後は「健全な利害関係」が重要になるのではないかと言った。水内さんと台湾でやったワークショップから学んだことで、これまで利害関係は、AとBの間で考えられてきたが、もう一人の存在が意識されないと健全な利害が生まれないことが分かったという。それを哲学的にどのように捉えるのか。デザインで言うと、モノやコトが介在して三者の利害が成立するのではないか。それをエコロジー3.0の次のフェーズで取り組みたい。物を作ることは環境に影響を与えることを考える。そのコンセプチュアルなヒントは哲学にあると思う。インティマシーも関係している。Local Standardの次の10年は、「健全な利害関係」をテーマにまた4人でやっていきたい――そう提案してくれた。

 続いて、参加者との間で質疑応答が行われた。そのなかで、会場に来てくださっていたmatohuのファッションデザイナー、堀畑裕之さんからのコメントを紹介しておこう。彼は、最近柳宗悦を読んでいて、作られたものには前半生と後半生があるという面白い考えに出会った。物を作るのが前半生で、後半生はそのあとのことで三つある。一つ目は、見ていいなと感じて手に入れること。二つ目がそれを使う、それもただ使うだけでなく、使いこなすこと。三つ目はそれについて考えることである。民芸運動において、柳自身は何も作らない人で、物の後半生を引き受けた人だと言える。考えたことを言葉にして民芸に言葉を与えた。
 そのことを踏まえて堀畑さんは、自分も作る人間として、作った後どのように使われて、その人に影響を与えたのかを考えたい。生活者として、自分が物の後半生を十分に生かし切れているか。そしてこの物の後半生というのは、登壇した私たち三人にとっても大事なテーマになるのではないか、とおっしゃった。

 今回のイベントを終えて、〈哲学×デザイン〉の5年間をこの4人で振り返り、自分のやってきたことを再確認できた。とくに服部さんと水内さんは、デザインに対する私の思考を根幹で支えてくれている。鞍田君は、自身は民芸に関わりつつ、哲学とデザインをつなぐ一つの範例を見せてくれる。私の共創哲学は、またここからスタートする。

                              (終わり)

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