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【報告】UTCPシンポジウム「アメリカ大統領選から見る現代社会――哲学と公共政策の対話」

2020.11.25

 2020年10月24日、東京大学のUTCPにてオンライン・イベント「アメリカ大統領選から見る現代社会――哲学と公共政策の対話」が開催されました。この企画は、「哲学×公共政策学」という視座から、現代社会に潜む政治学的問題を〈一般の人々に分かりやすい言葉〉で伝えるという趣旨のもと構想されました。また、本イベントは、これまで行われた公開哲学セミナー(5月30日「現代フランス哲学から見る〈共生と責任〉の問題」/8月29日「哲学と精神分析――デリダ、リクール、ラカン、そしてフロイト」)と同様に、哲学や公共政策学に興味を持っている一般の人々と、当該分野で活躍する若手研究者を繋げるための〈場〉を構築したいという意図も込められていました。そのため、本シンポジウムにおいては、「講演」の部と同じくらいの時間をかけた「質問」の部を設けることに決め、とりわけ一般の参加者の方々との双方向的なやり取りを行うことを重視しました。
 その結果、これまで行われてきた多くのUTCPイベントと同様に、本イベントも大変な盛り上がりを見せました。登壇者である杉谷和哉さん(京都大学大学院 人間・環境学研究科 博士後期課程・国際高等研究所特任研究員)と谷川嘉浩さん(京都市立芸術大学美術学部特任講師)のご講演が終わった後、多くの方々からの質問が寄せられ、閉会の時刻を迎えてなお議論の高まりが鎮まることはありませんでした。以下、続く箇所にて、当日の様子を記載いたします。

 まず、杉谷さんはEBPM(Evidence-based Policy Making)の観点から、現代のアメリカや日本に見られる政治学的な問題点を分析されました。世界的に新型コロナウイルスが猛威を振るっている2020年、アメリカやイギリスにおいてEBPMは失敗してしまったという研究が提出され、その原因として「専門家による科学的な知見が顧みられなかった」という点が挙げられました。では、しかし、専門家が科学的な「真理」を政治家に伝えればそれで問題が解決するかと言うと、そういうわけでもないという警鐘を杉谷さんは鳴らします。
 ここにおいて新たな問題点として指摘されるのが、専門家の地位を貶めるような言説が流通している昨今の現状です。例えば、「専門家とは、既得権益を守るだけの連中である」といった、人々のルサンチマンに訴えかけるような話法が各地で繰り返されています。つまり、権力や権威に対するシニシズムと、都合の悪い権威を批判するための陰謀論が結託しているような状況が生み出されてしまっているのです。こうした陰謀論はSNSのシェアの機能や動画サイトのレコメンド機能などで、日々強化されています。こうした状況を見通した上で杉谷さんが出された問題提起とは、「世界観を共有できない他者といかに対話を行うことができるのか?」というものでした。

 そして、谷川さんがご発表された内容も、杉谷さんのご講演と共鳴し合う内容のものでした。谷川さんが実例として出されたのはアメリカ合衆国の第45代大統領ドナルド・トランプ氏のツイッターであり、そこに見出されるのは、敵対する政治家を嘲笑することによって対話そのものをストップさせてしまうという「教育装置」としてのSNSのあり方でした。また、対話を停止させるより直接的な方法として、討論の場におけるジョー・バイデン氏への態度(大学時代の成績を引き合いに出した相手の知性への攻撃)も谷川さんは指摘をしました。それは、哲学者リチャード・ローティの言葉を借りるのであれば、まさに「会話停止装置(conversation stopper)」として機能する発話の態度であったと言えるでしょう。こうした意味での批判は、〈批判を行っている本人が、その当の批判から免れている〉という「自分にとって都合の良い状況」を作り出す機能があると谷川さんは分析します。
 こうした具体例をもとに、谷川さんは次のような分析を行います。すなわち、シニシズム(冷笑的批判)の特徴は、対話の意欲を減退させ、単純な二分法において複雑な世界を断片的に理解させてしまう機能を有している、という分析です。その背景にあるのは、「社会学的想像力」(C.W. ミルズ)が過剰に刺激され、その結果非合理な説を信じてしまうようになるという事態です。こうした事態に抗するために谷川さんが提案するのは、1、「素朴な感覚を忘れない」という道と、2、「想像力を適度にとどめる」という道です。1に関しては、例えばある州の若年男性の死亡原因の第六位が「警官からの暴力」であるという事実を前にしたときに、まず「それはおかしい」と思える感覚を持つということです。そうした素朴さこそが、ある問題を隠し、別の争点へと論点をずらそうとする狡猾な話法(例:「“All Lives Matter”と主張することによって“Black Lives Matter”運動の争点をぼかす手法」)に対する抵抗の拠点を形作る端緒となりうるのです。そして2に関しては、単純な二分法によって世界を理解した気にさせてしまうような「大きな話」をしないということです。

 オーガナイザーの山野を交えた対談の時間や、その後休憩をはさんで行われた質疑応答の時間においては、とりわけ次のような論点が盛んに議論されることになりました。それは、「全く異なる信念や世界観を持つ人々を〈愚かである〉とか〈道徳的に悪である〉とかいった仕方で決めつけることなしに、いかにしてそうした人々と対話を行う道を確保することができるのか」という問題です。もし仮に私たちが、「あの人たちはおかしな陰謀論を信じ込まされていて愚かである」とか、「そうした世界観を信じるのは道徳的に悪である」といった判断を下してしまうと、それは閉じた「批判」の応酬の中に私たち自身を閉じ込めてしまうことになります。なぜなら、私たちがそのような判断を行うとき、相手もまた、同様の判断を行っているからです。ここで求められているのは、批判や闘争のモデルではなく、対話をモデルとしたコミュニケーションのあり方です。しかし、そうした対話自体が封じられてしまう危機に、現代を生きる私たちは直面しているのです。
 この答えなき問いに、それでも数多くのコメントが質疑応答の時間に寄せられ、それに対してご講演者のお二人は数多くの示唆に富むご回答をしてくださいました。その中で出てきた一つの議論は、人工的な議論や対話の場を整えるという取り組み(“Public Conversation Project”)に関するものでした。こうした人工的な対話の場の構築は、とりわけUTCPが積極的に行っている「哲学対話」の取り組みに通ずるものを筆者は感じました。哲学対話とは、まさに「沈黙」を大事にし、コミュニティボールを回して発言権を一人ひとりに確保するというルールの中で、心理的安全性を確保しつつ行われる意見(「問い」)の交換の場を指すアクティビティです。こうした活動は日本においても少しずつ実践され始め、学校教育の現場やビジネスの現場においても緩やかにその導入が進んでおります。市民教育という観点から本シンポジウムの問題提起を考えた際に浮き彫りになる課題は、「対話を行う文化的・精神的土壌を構築する」というものです。そしてこうした課題は、今回のイベントのように、哲学と公共政策学が対話を行うことであぶり出されたものでした。本シンポジウムにおいても、数多くのバックグラウンドを持つ方々がイベントに参加してくださいました。そして、普段つながることのできない人々が講演の場や質疑応答の時間につながることができたのは、まさに「対話」に重きを置く理念と、その具体化を可能にするオンラインの技術があったからです。そうした意味で、本年度から積極的にUTCPが行っている公開哲学セミナーの取り組みは、まさにこうした対話を可能とする文化的・精神的土壌の構築に資するものであると思われます。

 本シンポジウムから得られる知見は数多くのものがありましたが、最後に、今回のイベントが浮き彫りにした最大の問題点をまとめることで、本報告の結びにしたいと思います。それは、私たちが日ごろ使う何気ない「言葉遣い」が、いとも簡単に対話の可能性を消滅させてしまい、暗躍する政治的な言説に加担するような効力を発揮してしまうということです。シニシズム的な態度に連関するのは、現状肯定の感覚や、ナルシシズムの態度です。誰かの優位に立ちたい、人よりも〈事情に精通している〉人として見られたい、そして不安定な社会を作り出している「原因」を特定したい――こうした欲望を自覚しない限り、私たちはSNSなどで流通する言説に流されるがままの判断を下してしまうことになります。確かに、対話そのものを停止させてしまうこうした日常的な言葉遣いを注視し、そうした言説から距離を取るということは、一筋縄ではいかないのかもしれません。ですが、そうした大きな問題点が白日の下にさらされ、本シンポジウムに集まってくださった50名以上の方々にそのことが共有されたことは、今回のイベントを行った大きな一つの成果であったと思われます。今後も様々な対話の場を構築していくことで、何気ない言葉遣いの裏側に潜む政治的含意を意識することのできる市民の育成が求められていると言えるでしょう。

(文責:山野弘樹)

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