【UTCP Juventus】 岩崎 正太
2009年度UTCP Juventus 第23回は、RA研究員の岩崎正太が担当します。
以下にこれまでの研究のあらましと現在の研究について紹介いたします。
これまでの研究:
『存在と時間』(1927)においてハイデガーは、人間が事物を理解するとき、過去から伝承されてきた理解の枠組みに依拠していることを示しました。人間が、先行する過去の理解の枠組みを参照することにおいて事物の「意味」を理解するという「解釈学的循環」のなかに巻き込まれていることを明らかにしたのです。
このことを踏まえ、もしかりに人間が常にすでに解釈学的循環のなかにとどまっており、我々の事物の意味の理解が過去の歴史性に拘束されているとするならば、どうでしょうか。人間が作り出す世界は常に過去の単なる反復に過ぎないことになってしまうのではないでしょうか。
私が修士課程において考えていたのは、この解釈学的循環からの突破口を探ることでした。具体的には、チェコの哲学者ヤン・パトチュカ(Jan Patočka:1970-1977)の思想を参考にしました。パトチュカは、エドムント・フッサールおよびマルティン・ハイデガーのもとで学び、かれらの思想の批判的継承を行った哲学者のひとりです。
パトチュカは、晩年の著作『歴史哲学についての異端的論考』(1975)において、『存在と時間』における「不安」のように人生のなかで時として経る「意味喪失の経験」が「意味」をいったん宙吊りにすることから、「意味」は「問題性problematičnost」を帯びざるをえないとし、このことによって、他者との交渉が発生すると考えました。そして、そこに他者との交渉が発生するならば、解釈学的循環から抜け出るような、何か新しいものが生まれる可能性が芽生えることを指摘しました。なぜなら、「意味」が絶対的なものではなく問題性を含むものであるかぎり、そこには必ず他者と議論する余地が残されており、そして、どのように反応するか予測できない他者のまえでは、いかなる議論の結果をも完全には先取りすることができないからです。
かなり大雑把ではありますが以上のように、パトチュカの「問題性」の概念を参考に、他者との交渉において生まれる何か新しいものに「解釈学的循環」からの突破の可能性を考えてきました。
現在の研究:
修士課程終了後、数年のブランクを経て、現在はUTCPのRA研究員として活動しています。現在の研究は、《吃音》あるいは《どもり》とよばれる言語現象を、文学・思想の問題としての捉え返そうとするものです。
一言に《吃音》といっても、発声時に第一音が円滑にでなかったり、ある音を繰り返したり伸ばしたり、あるいは無音が続いたりというように、症状は一様ではありません。また、その原因も環境による説や遺伝による説などがありますが仮説の域を出ず、現在脳神経科学の分野でも研究が始められているも、はっきりとした原因はいまなお不明とされています。
ひとつ興味深い事実として、言葉を獲得していく2-4歳の幼児期において、吃音の症状がみられ始めるということがあります。つまり、言葉なき状態から言葉を獲得していく幼児期において吃音が生じ始めるということです。ここには、《人間》と《言語》の緊張関係が如実に現れているのではないでしょうか。このことに注目しながら、方法論を含め暗中模索の状態ではありますが、たんに医学的なアプローチにおいて《吃音》を考えるのではなく、文学・思想の問題としての《吃音》を考えたいと思っています。
三島由紀夫の『金閣寺』、重松清の『きよしこ』、ゴダールの『パッション』、あるいはジル・ドゥルーズの吃音論・・・。《吃音》を取り上げた作品・理論は必ずしも少なくはありませんが、現在は、《吃音》を自ら抱えていた作家小島信夫(1915-2006)の諸作品を研究対象にしています。