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【報告】UTCPセミナー「作品は誰のものか——イメージ研究における解釈者のステータス」

2009.07.22 近藤学, 平倉圭, イメージ研究の再構築, セミナー・講演会

UTCPでは本年秋、新中期教育プログラム「イメージ研究の再構築」(事業担当推進者・三浦篤教授)が発足する。同プログラムでは10月の正式スタートに先立ち、プレイベントとしてダリオ・ガンボーニ・ジュネーヴ大学教授をお迎えして講演会およびセミナーを開催していただいた。講演会に関しては別途報告があるので(⇒こちら)、以下では二度にわたって行われたセミナーについて述べる。

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左:三浦篤教授、右:ダリオ・ガンボーニ教授

第1回セミナー(2009年7月14日)

「『潜在的イメージ』をめぐって」と題されたこのセミナーは、フランス語を主な使用言語とし、必要に応じて英語も併用して展開した。はじめに同書におけるガンボーニ氏の議論を踏まえて三名の研究者が問題提起を行い、それぞれについて氏がコメント、さらにディスカッションへ、という構成である。司会は三浦教授、レスポンダントは発言順に、小泉順也さん(法政大学非常勤講師)、 金沢百枝さん(東海大学准教授)、 近藤学(UTCP)が担当した。

一番手をつとめた小泉さんのテーマは、執筆中の博士論文の対象であるポール・ゴーギャンおよび周辺の画家。現在東京国立近代美術館で開催中のゴーギャン展(公式ウェブサイト→こちら)に出品されている絵画、また独自の現地調査に基づきながら、ガンボーニ氏のいう「潜在的イメージ」(即座には正体を見極めることができず、複数の解釈を呼び起こすような形態)の実例を指摘・分析する、というのが小泉さんの狙いであった。主題、アプローチともに氏の現在の関心とぴったり重なっていた発表であっただけに、 ガンボーニ氏からの応答もおのずから共感と具体性に満ちたものだった。なかでも印象的だったのが、小泉さんの挙げた事例のいくつかに即して、氏一流のイメージ解釈の手順を段階ごとに実演された点である。実作品とじかに接することの意義、また慎重なうえにも慎重な進め方を強調するその姿には、研究者としての氏の基本姿勢がはっきりと現れていた(この点については三浦篤教授のブログも参照→こちら)。

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左:小泉順也さん、右:金沢百枝さん

つづいて登壇された金沢さんは、同じく専門である西洋中世美術に取材しながら『潜在的イメージ』の議論を生産的かつ刺戟的な仕方で拡張された。第一に金沢さんは、写本、建築、工芸品において、大理石など独特の表情に富む石材が、その本来の模様を活かす形で頻繁に用いられていることを例示しつつ、ガンボーニ氏のいう「偶発的イメージ」(人為的または意図的に制作されたものではないが、にもかかわらず何らかの具体的な形象を強く想起させるイメージ)が、西洋中世的感性にとってもきわめて重要なものであったと論じた。第二に、今度は対象を写本に絞りつつ、人物や動物などの図柄を組み合わせてアルファベットを形づくっている事例が示され、近代美術に関してガンボーニ氏が繰り返し強調する「遊び心」が、この分野にも多く見られる点が述べられた。第三に金沢さんは、スカンディナヴィアや英仏のロマネスク教会における多様な「装飾」を取り上げ、それらはキリスト教的図像体系に回収し尽くせない、豊かな曖昧性を孕んでいると指摘された。これらのイメージは、既存のテクスト(教典)を透明に図示するのではなく——もしそうであるなら、意味内容を把握した時点でイメージそのものは用済みということになってしまうだろう——、観る者自身が積極的に意味を読み込んでいくことを要求する。こうした主体的な解釈行為を通じて、観る者と対象とのあいだに双方向的でダイナミックな関係が生まれるということ。ガンボーニ理論の核をなすこのような観察が、中世美術研究においても斬新な成果をもたらしうる可能性が明解に示される対話となった。『潜在的イメージ』では中世美術も言及されているが、 やはり相対的になじみが薄い分野とのことで、ガンボーニ氏もひときわ強い関心を示された。

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金沢百枝さん

最後に発表した近藤は、『潜在的イメージ』での議論の有効性を再確認すると同時に、以下のような問いを立てた。曖昧性、不確定性、多義性など、ガンボーニ氏がキーワードとして提起した諸概念はピカソにそっくりそのまま当てはまる。しかしその一方、発言において彼は、自作が複数の解釈を許容する可能性を激しく否定し、観る者に唯一絶対的なヴィジョンを強制したいと何度も告白しているのである。こうした食い違いや緊張関係をどう考えるべきか。これに対しガンボーニ氏は、芸術家の発言を額面どおりに受け取ることの危険、また、あくまで個々のイメージを出発点とすることの重要性を説かれた。氏の研究理念をあらためて浮き彫りにする内容であったと言えるだろう。

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近藤学

この後、他の参加者をまじえた質疑応答が行われた。とくに修士論文を執筆中、または完成させたばかりの大学院生からの発言が多くみられたが、ガンボーニ氏はいずれの問いにも丁寧に答えられ、質問者の方々にとっても有益なひとときとなったように思う。

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(以上、文責:近藤学)

第2回セミナー(2009年7月16日)

ガンボーニ氏のUTCPにおけるセミナー第2回は「芸術作品としての個人コレクション/美術館」をテーマとして行われた。数年前に取り組みはじめたばかりの、文字どおり現在進行形の主題とのことである。司会は『潜在的イメージ』訳者でもある藤原貞朗・茨城大学准教授。

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【左から三浦教授、藤原貞朗・茨城大准教授、一人おいてガンボーニ教授】


はじめにガンボーニ氏から自身のテキストに関する短いコメントがあったあと、参加者からの質問に応えるかたちでセミナーはすすめられた。

使用テキストは以下の2つ。
Dario Gamboni, "The Museum as a Work of Art: Site Specificity and Extended Agency," Kritische Berichte 33, no. 3 (2005), pp. 16–27.

—. "The Art of Keeping Art Together: On Collectors' Museums and Their Preservation," Res: Anthropology and Aesthetics, no. 52 (Autumn 2007), pp.181–189.

テキストの要点は、「個人コレクション/美術館」じたいを「芸術作品」と見ることにある。例としてあげられたのは、ボストンのIsabella Stewart Gardner Museumや、スイス・リゴルネットのMuseo Velaなど。ガンボーニ氏が参照するのは、人類学者Alfred Gellの拡張されたエージェンシー概念だ。拡張されたエージェンシー概念において、鑑賞者もパトロンも作品のモチーフも、そしてコレクターもまた芸術の「エージェント」となり、それゆえ展示は「芸術作品」となる。

ディスカッションで問題になったのは、コレクション/美術館の「エージェンシー」、あるいはその「オーサーシップ」は「誰」に所属するのか、そして「芸術作品」および展示の「よさ」の概念とはいったい何か、ということだった。言うまでもなく、何が「よい」展示か、どんな展示が「芸術」か、ということは普遍的には固定できない。またその展示の「作者」は一人ではない。では、コレクションを「芸術作品」と呼ぶことの可能性はどこにあるのか。

参加者は、事前の勉強会を通して準備したそれぞれの事例――日本民藝館、ブリヂストン美術館、ケトルズ・ヤード、杉本博司の計画中の美術館…――を紹介しながら質問を投げかけ、ガンボーニ氏はそれに対し、あくまで与えられた具体的な事例を読み取ることで質問に答えた。コレクション/展示については、個別の作品と同様、あくまでそれぞれの事例に即して考えられなければならないというのがガンボーニ氏の基本的な立場だ。議論は、「写真」として与えられた事例を読み取ることの困難にまで及び、参加者はこのセミナーでも、ガンボーニ氏の慎重な分析の手つきをリアルタイムで目撃するという貴重な経験を得ることになった。

傍聴者として参加した私[平倉]にとって興味深かったのは、展示の「単数性」と「複数性」をめぐる問題だった。ガンボーニ氏のテキストは、ガードナー夫人がコレクションの展示を、複数の事物を「単数の観念 single idea」へとアレンジする技として考えていたことを教えてくれる。「芸術作品」という言い方は、この〈アレンジメントの単数性〉、という問題を示唆している。

もちろん〈アレンジメントの単数性〉という言い方は内側に矛盾を孕んでいる。アレンジメントはつねに複数の可能性へと開かれるからだ。セミナーのなかでガンボーニ氏は、ガードナー夫人が自身のコレクションについて繰り返し異なる、複数のフィクションを語っていたという逸話を紹介し、ガードナーのコレクションは、「複数」の効果を生み出す「機械」でもあると表現していた。コレクションは単数性と複数性のあいだで揺れている。

コレクションにはたしかに、「機械」と呼びたくなるところがある。ガードナー・マシンがあり、バーンズ・マシンがあるというわけだ。その「機械」は多くの部品(=作品)からなり、部品を交換して改良することもできる。私たちはたとえば、ロバート・ラウシェンバーグの《小さな判じ絵》(1956)――そこには、ガードナー美術館が所蔵するティツィアーノの《エウロパの略奪》(1560–62)の複製図版が貼り付けられている――を、そのような「機械」の表象として考えることもできるだろう。

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だが実際には、コレクションを「機械」と呼ぶことは簡単にはできない。その部品は簡単には「交換」できないからだ。ガンボーニ氏のテキストは、交換に抵抗する作品の単数性において、Alfred Gellの議論から距離をとる。

Gellは、ベラスケスの《鏡のヴィーナス》(1647–51)が、婦人参政権運動家メアリー・リチャードソンによって切りつけられたという1914年の出来事を、《切りつけられたヴィーナス》という新たな「作品」として解釈する可能性を示してみせた。ガンボーニ氏が「芸術作品」という言葉を出すことで行うのは、Gellのこの過激な価値相対主義に対して、保存されるべき単数性とそうでないものを、それでも区別する可能性を思考すること、そうすることで、コレクションの「よりよき」修復・保存・展示という美術館の日常的な使命に寄り添う、実践的かつ理論的な思考の道具立てを用意することだ。

コレクションはつねに複数の可能性に開かれており、単数の価値の選択は他者の抑圧をつねに孕みうる。だが、そのことは、「よりよき」修復・保存・展示を求める人々の行為が、いかなる実在的な根拠ももたないものであることを意味しない。

もちろん何が「よりよい」のか、という問題は論争を呼ぶ。しかしその論争の中で、私たちはコレクション/展示という行為の測り知れぬ可能性と魅力を知ることにもなる。本セミナーでも、参加者たちは自身が持ち寄った事例を通して議論をたたかわせ、「よい」展示、「よい」美術館とはなにか、という本質的な問題を改めて考えさせられることとなった。

セミナーは3時間に及んだが、その終了後も、議論は学内の喫茶店に場所を変えてつづけられた。長時間にわたる特別なセミナーをおこなってくださったガンボーニ氏に、またこの貴重な機会を与えてくださった三浦篤氏に感謝します。また司会の藤原氏には、フランス留学中、ガンボーニ教授に師事された経験を生かして、今回の招聘に際しては、教授との連絡係のほか、教授のこれまでの仕事についてのレクチャー、またセミナーに備えての「予行演習」など、さまざまなかたちでご協力いただいた。格別のお礼を申し上げます。

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(以上、文責:平倉圭)

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