【報告】CUNY認知科学シンポジウム
2009年3月27日、ニューヨーク市立大学(CUNY)にて認知科学シンポジウムが開催され、研究員の小口峰樹と筒井晴香が発表を行った。
認知科学シンポジウムはCUNYのデイヴィッド・ローゼンソール(David Rosenthal)教授が主宰されている研究会であり、毎週、大学の内外から認知科学や心の哲学に関する研究者を招いて行われている。
今回の発表が実現の運びとなったのは、同大学のジュシー・プリンツ(Jesse Prinz)教授の紹介を通じてである。プリンツ教授には、UTCPの招聘で昨年の7月に連続講演を行っていただき、その時に交わした研究交流の約束を実現するというかたちで今回の研究会にわれわれを招聘していただいた。
残念ながら、主催者であるローゼンソール教授は当日に出張の予定があり、研究会には参加不可能とのことであった。そこで、前日26日に急遽ランチ・ミーティングをセッティングしていただき、そこで氏の提唱されている「意識の高階思考説」に関して議論する機会を得ることができた。氏は近年、「ある状態が意識的であることは進化的に何ら有益な機能を果たしていない。意識は言語など他の認知能力の副産物としてわれわれに備わっているにすぎない」という瞠目すべき説を唱えており、ミーティングのなかでは氏のこの見解に対するやりとりが中心となった。出張前の慌ただしい中にも関わらずわれわれのために貴重な時間を割いていただいた同氏のご高配に、この場を借りて新ためて謝意を表したい。
以下、研究会での発表および議論の内容について、小口と筒井からそれぞれ簡単な報告を行いたい。
(以上、小口峰樹)
筒井晴香 ”J. J. Prinz's Moral Relativism and the Possibility of Moral Convention”
本発表は昨年7月に駒場キャンパスで行われたJ. J.プリンツ連続講演会の際に行った質問に着想を得たものである。この質問においては、プリンツの提唱する道徳理論の枠組が道徳の個人相対主義を明示的に打ち出しながら、実際にはむしろ文化相対主義的性格を帯びているという指摘を行った。今回の発表ではこの文化相対主義的性格に注目し、文化相対的でありながら道徳としての独自性を保った道徳とはいかなるものかをより具体的に示すことを試みた。
プリンツは道徳を個々の文化に相対的なものと捉えるが、このような立場においては、道徳的規則とは結局、単なるローカルな慣習の一種ということになってしまうのではないか。プリンツの枠組において、道徳的規則と慣習的規則の区別は成立するのだろうか。また、成立するならばそれはどのようにしてか。本稿ではこの問いについて二通りの仕方で検討を行った。具体的には、まずD. ルイスの提唱する慣習概念と、R. G. ミリカンの提唱する自然的慣習(natural convention)という二つの慣習概念をそれぞれプリンツの相対主義的道徳概念と比較し、プリンツの道徳概念はいずれにも見られない特徴を持つことを示した。その特徴とは、軽蔑や恐れ、尊敬といった一連の道徳的感情を状況に応じて抱く傾向性である道徳的情緒(moral sentiment)に基づいた強い感情的動機によって、自他の道徳的規則遵守の徹底が促されるというものである。次に、ある規則が同時に道徳的規則でもあり、慣習的規則でもあるように思われる二つの事例、即ち、慣習的規則の道徳化と道徳的規則の慣習化を取り上げ、検討を加えた。相対主義的道徳と慣習の境界事例ともいえるこれらの事例は、両者の相違を考える上で注目すべきものである。結果として、これらの事例における道徳化/慣習化は単に表面的なものであることが明らかになった。プリンツ的道徳と慣習とはともに文化相対的でありながら、それぞれ相容れない特徴を持っており、これらの特徴が同時に一つの規則によって満たされているように思われても、それは単に見かけ上に過ぎないのである。
発表後の議論はプリンツ本人も交えて行われ、プリンツ的道徳と慣習の相違点をある程度明確な形で整理したという点はプリンツからも良い評価を得ることができた。一方で、発表内で用いられた、慣習(convention)あるいは道徳的慣習(moral convention)といった概念に関しては、その意味するところや前提について問う質問が多く、これらの概念の扱い方について再考する必要性を強く感じさせられた。例えば前者については、本発表で取り上げているルイスとミリカンの慣習理論はあらゆる慣習のあり方を説明することを目的としたものではなく、「慣習においては(必ずしもそれを行う必然性がないという意味での)恣意性が見られることがあるが、それは何に由来するのか」という問いを出発点として構成されたものである。この点を発表内で明示化し、上記のような関心から捉えられた慣習のあり方に注目することが、相対主義的道徳との比較という課題において妥当であるかどうかをきちんと問う必要があるだろう。
(以上、筒井晴香)
小口峰樹 “Conceptualism Revised: Through Criticizing Noë’s Enactive Approach”
今回の発表は、近年、アルヴァ・ノエがその著『知覚のなかの行為(Action in Perception)』において提唱している、知覚経験に関するエナクティヴ・アプローチ、あるいは感覚運動アプローチ(Sensorimotor Approach)」を批判し、その批判を通じて、ノエもその擁護者の一人である「概念主義」を改良することを目指すものである。
ノエの感覚運動アプローチの中心にあるのは、「知覚経験は感覚運動技能によって構成されている」という構成論的テーゼである。感覚運動技能とは、運動に応じた感覚の規則的変化に対する身体的な暗黙的知識であり、ノエは知覚経験の成立がこうした一種の技能知の習得に対して構成的に依存していると主張している。
これに対して、視覚の脳科学において提唱されている「二重視覚システム」を踏まえるならば、知覚経験には感覚運動に対する一種の不感応性が存在するという、構成論的テーゼに反する帰結を導くことができる。二重視覚システムとは、知覚には運動制御につながる経路と推論につながる経路の二つの経路があり、その間には二重乖離が成立しているというモデルである。視覚障害の症例からは、知覚経験の成立に寄与しているのはこのうち推論につながる経路のみであり、たとえ運動制御につながる経路が損傷を被ったとしても知覚経験は無傷のままに留まるという示唆が得られる。知覚経験は感覚運動技能に対して一定の距離を置いたかたちで成立しているのである。
こうした指摘を行った上で、私は、「二重視覚システム」からは別の種類の構成論的テーゼが導き出せる可能性があり、ここからジョン・マクダウエルを嚆矢とする「知覚経験の概念主義」に関してそれを新しい形で展開することができると論じた。ある症例報告によれば、推論につながる経路を損傷した患者は、感覚運動技能の行使において対象の形態に応じた把握行動を行うことはできるが、それを対象の機能的意味に応じた仕方で行うことができないということが知られている。ここで失われているのは、「感覚運動技能」ではなく、感覚対象の分類や比較を行う「認識的技能(epistemic skill)」である。私は概念能力の条件に関する有力な諸説の検討を通じて、認識的技能は一種の概念能力として認めることができ、したがって、もし知覚経験が認識的技能によって構成されているとすれば、知覚経験の内容は概念的であると言えると論じた。
続いて発表後に行われた議論では、プリンツ氏や当日司会を務めていただいたミハウ・クリンチェウィッツィ(Michal Klincewicz)氏からいくつか有益なコメントや質問をいただいた。たとえば、知覚経験に関する非概念主義を唱えているプリンツ氏の見解と私の見解との実質的な違いはどこにあるのかという質問や、知覚と知覚判断の間に真理保存性が欠如していることは知覚の概念的内容を損なう帰結を招くのではないかという疑義などが提起された。こうしたコメントや質問に対して限られた質疑応答の時間のなかでは必ずしも十分な回答を与えることはできなかったが、レセプションの場で継続して行われた議論においてそれぞれの質問に実質的な返答を行うことができたように思う。
今回、CUNYの研究者たちとの議論を通じて、私自身自覚していなかった開拓すべき論点を幾つか見出すことができた。こうした問題点の発掘は今回の発表における大きな収穫のひとつであろう。この貴重な機会を与えて下さったCUNYおよびUTCPの関係各位に改めて謝意を表したい。
(以上、小口峰樹)