【旅日記】シナイ半島の歩き方 第3回 アカバ
太田啓子のシナイ半島旅日記の第三回です。二日間に渡ってアカバ(ヨルダン)を探索、その後、船でヌエバア(エジプト)に戻ります。
3月13日(金)・14日(土)
キリスト教徒にとって日曜日が一週間のうちの特別な日であり、教会に行くのと同様、イスラーム教徒は金曜日の正午にモスクに集い、集団で礼拝を行なう。従ってほとんどのイスラーム諸国では金、土が週末となる。この週末の二日間、アカバの史跡、博物館、アカバ湾などを探索した。
まず、アイラ遺跡。アカバは古くから東西交易における中継点として重要な地位を占め、海上ルートでは東アフリカ沿岸部、東南アジア、陸上ルートではシリア、ヒジャーズ、北アフリカと結ばれていた。イスラーム期以降は商業ルートのみならず、各地からメッカへ向かう巡礼キャラバンの中継点ともなった。1116年にエルサレム王ボードワン一世によってアカバは攻略され、1170年まではフランクの支配下におかれたが、その後サラーフ・アッディーンによって奪還されるなど、十字軍戦争の攻防の場となったことからも、アカバが東西交通の要所であったことが分かる。アイラ遺跡は1986年から1993年にかけて、ヨルダン政府とアメリカ・シカゴ大学の共同チームにより発掘調査が行なわれた。現在公開されている部分は本来の要塞の基部のみであるが、壁や柱、アーチ、水道跡などが見られる。広さ170×145メートルの敷地を厚さ2.6メートルの外壁が囲っていたことが分かっている。ここでの出土品はアカバの城塞隣にある考古学博物館に収蔵・展示されている。
次にアカバの城塞へ。『アラビアのロレンス』におけるアカバ攻略で有名なこの城塞の正面入り口には、イギリス・アラブ連合軍がトルコを追放した後、ヨルダン王室が掲げた紋章が飾られている。1320年までにアカバ防衛の拠点であったファラオ・アイランドにあるサラーフ・アッディーンの城塞が放棄された後、商業ルート・巡礼ルート防備の要としての役割をこの城塞が果たすことになる。2000年以降、ベルギーとイギリスの共同チームにより三期にわたる試掘が行なわれているが、ファーティマ朝期以降の遺跡が出土している。また、14-15世紀に建設されたキャラバンサライや前述のマムルーク朝スルタン=カーンスーフ・アルガウリーに献呈された碑文なども出土し、中世における繁栄がうかがえる。その後、城塞の隣にある考古学博物館へ。アラビア語碑文が刻まれた石材、陶磁器、ガラス器、装飾品、ランプ、貨幣などの出土品が展示されている。
歴史的要所であったアカバだが、現在もエジプト、イスラエル、ヨルダン、サウディアラビアの四ヶ国が国境を接する軍事的要所である。そもそも今回アカバを訪れるにあたり、陸路ではなく海路をとることになった理由の一つが、エジプトから陸路でヨルダンをめざすとイスラエル領であるエイラートを通らなければならなくなるから、というものであった。イスラエルの入国スタンプがパスポートにあるとシリア、レバノンなどには入国出来なくなってしまうのである。しかたがないのでアカバ湾クルーズの船に乗り、海上からイスラエルを眺めることにする。エジプト、ヨルダンに比べて格段に生活が豊かなことが、夜景の美しさから見て取れる(「電気」の量が段違いなのである……)。
二日間に渡ってアカバをうろうろした後、翌日にアカバからヌエバアに向かう船のチケットを購入するべく、アカバ市内のチケット・オフィスに行く。ところが、明日はスピード・ボート(二等)は運休で、スロー・ボート(三等)しか出航しないと言われる。それは想定内だったのでスロー・ボートのチケットを購入したのだが(50ドル)、出航時刻が0:00(つまり今夜の夜中)だと言われたのには驚いた。チケット・オフィスの係員がいいかげんなのか、私の語学力に問題があるのかと何度も確認するが、返事は同じ。しかたがないので真夜中にアカバ港に向かう。
もし船がいなかったらアカバ市内に引き返し、もう一泊しようと思っていたのだが、ちゃんといた。ただし、来るときに乗った二等とは違い三等、しかも夜中なので見事に男&アラビア語オンリーの世界。ほとんど全て出稼ぎ労働者。一瞬「奴隷船……」との思いが頭をかすめたが観念して出国税の支払い(15ドル)などの手続きを済ませ、船に乗る。エジプト入国にあたってはヨルダン入国と違ってビザの取得が必要なので、船中でパスポートを預ける。0時出航のはずが2時過ぎの出航となり、5時にヌエバアに到着。真っ暗な中で下船するのはちょっと……と思ったが順調に手続きが遅れ、7時過ぎに下船出来た時にはすっかり朝日が昇っていたのでした。
(文責:太田啓子)