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【報告】 2016年度 駒場祭「こまば哲学カフェ」[3/3]——(3) 3日目編

2017.03.09 李範根, Philosophy for Everyone

2016年11月25日(金)から27日(日)まで、第66期 駒場祭が東京大学駒場キャンパスにて開催されました。

今年もP4E研究会のメンバーを中心に「こまば哲学カフェ」を企画しました。以下、初日目、2日目の報告に続き、3日目の様子を、各企画の企画者あるいは参加者の方にご報告いただきます[3/3]。

11月27日 日曜日
10:00-12:00 短歌 x 哲学対話
         企画:廣川千瑛・堀 静香
12:30-14:30 出張!!SPA 第2弾
         企画:St.paul’s Agora(立教大学)
15:00-17:00 終わりの哲学対話
         企画:角田将太郎

・企画⑦:10:00-12:00 短歌 x 哲学対話
(企画:廣川千瑛・堀 静香)

数年前から哲学対話の面白さに触れ、以降教員になってからは学校の国語の授業で取り入れたりしていました。今回は自分がずっと関心をもって取り組んでいる「短歌」というジャンルとのコラボで哲学対話!をさせてもらうという機会に恵まれました。

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得てして、短歌以外の文学作品や文学でなくともおおきく芸術作品を扱った哲学対話をおこなうと、「そもそも芸術とは何か」というような抽象的な対話になりやすく、それ自体否定に値するとは思いませんが、その作品をここで扱う意味はいくぶんか薄れてしまうような気がします。そんな個人的な思いから、今回は作品の内容に寄り添った対話をしましょうということをその場で共有しての取り組みでした。

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はじめに、用意した短歌数首の「穴埋めクイズ」をやってみて、それらについて疑問や考えられそうなことを挙げてもらい、対話へと移っていったのですがわたしはそこで語られるひとつひとつが、自分の好きな短歌のあたらしい解釈であることに本当にこころ打たれ、ファシリテーションをする人というよりそこではただただ相づちを打ったり頷いたりする人、でした。そのくらい、自分にとってはだれかのあらたな「読み」にふれることは貴重な体験でした。参加者のかたがたの中にも、あの日取り上げた短歌がこころに残っていたり、今でもふと口にしてしまう、そんな時間になっていたらいいなと思います。貴重な場をいただき、ありがとうございました。

(報告:堀 静香)


・企画⑧:12:30-14:30 出張!!SPA 第2弾

(企画:St.paul’s Agora(立教大学))

昨年に引き続き、今年も一枠いただいてSt. Paul’s Agoraの出張編をさせていただきました。今年は当サークルの活動で毎回使っている「三色発言カード」に焦点を当てたセッションをお届けしました。

「三食発言カード」とは、発言したくなったら挙手する代わりに「発言したい内容に従って」色を選んで挙げるカードのことです。緑・赤・黄の三色があり、緑は「新しい話題の提示、少し前の話題・発言へのレスポンス」を発言するとき、赤は「反論・批判・質問・確認等含めて直前の話題・発言へのレスポンス」を発言するとき、黄は「流れがわからなくなったとき・困ったときなど、対話全体にかかわる質問」を発言するときにそれぞれ使います。また、同時にコミュニティ・ボールを使います。

当日の大まかな流れは次の通りです。14名の方にご参加いただきました。ご参加いただいた方々、企画にかかわってくださった方々、あらためて御礼申し上げます。
1.「三色発言カード」と「コミュニティ・ボール」のルールを説明
2.参加者の皆さまから「この場で話し合いたい/みんなで考えてみたい」問いを募集
3.その中から一つを多数決によって選定(ここまでで約40分)
4.その問いで哲学対話(約60分)
5.4.の哲学対話を振り返る対話(約40分)

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2.で出された8つの問いから3段階で多数決した結果、7対7で「死をどのようにとらえているか?」と「おもしろい漫画の条件とは?」が拮抗。スタッフ的ポジションにいた次のセッションの担当者の方が後者に挙げたことで「おもしろい漫画の条件とは?」に決まりました。

4.の哲学対話はだいたい次のような流れで進行していきました。
冒頭、「おもしろいという感覚は人それぞれだと思うが、何か普遍的なおもしろさを探そうとする対話なのか」といったことが言われ、一方で「おもしろいと思う漫画の例を話していって、共通するおもしろさを探していけばよいのでは」といった提案もありました。恐らく後者の提案に乗っかる形で「絵柄」や「ストーリー」に関する言及がありつつ、複数の方が「おもしろいと思う漫画」の例が挙げていました。

そんな中、参加者の一人から「このままの問いでこのままの対話を続けても、自分の経験からして有意義になるように思えない。退室するか悩んでいる。むしろ、せっかく哲学対話をするなら、問いを出された方の経験について話すべきではないか。」という旨の提案がありました。以後、その提案についての発言がいくつかあり、「話が煮詰まっちゃっているから元の問いに戻して」という前置きのもとに自分がおもしろいと思う漫画の例をあげる方がいたりして(上の提案をされた方は仕事を理由にここで退室)、この後「どの問いを話せばよいのか」ということに話がいくかいかないかくらいで、時間を迎えました。

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5.の4.を振り返る対話では、次のようなことが述べられました。
<対話の感想>
・カードを使うことで誰も置いていかないような対話になっててよかったと思う。
・イライラしたのは、対話のスピードが極端に遅いからかもしれない。
・本題をもっと話したかった。
・それぞれがおもしろいと思う漫画についてもっと聞きたい。
・問い決めの多数決のとき、半分に割れてしまって、選ばれなかった問いを出した人の気持ち(関心がないことに関して話すときの気持ち)が、普段は気にならないけれど、今回終えてみると気になる。

<三色発言カードに関すること>
・今日の対話はどれくらいカードの影響だったのだろうか。カードの性質というより、今日集まった人たちによるこの集団の性質な気もする。
・このカードを使った対話は、帰納法的に考えていく対話と相性が悪いのではないか。
・「赤のカード」(直前の発言に関する発言をしたいときに挙げる)は、前の人の発言からの連想を言うときに使ってよいのだろうか。「質問」とか「反論」とか、そういった区分を導入したほうがよいのではないか。
・このカードを使うなら同時に板書をした方が、議論が深まるのではないか。
・いや、そもそも板書をすることで整理される議論を、各人が整理しながら発言するように促すカードではなかったか。

4.対話の中盤でなされた、問い自体を変えようという提案は印象的でした。「黄色のカード」の効果が一番発揮されたときだったのではないかと思います。なかなかああいう問い直しの発言は出ないし、かつその提案自体が「おもしろさ」に関する指摘にもなっていて、興奮しまくりでした。また、経験上このカードはサークル外の人に不人気なのですが、焦れったくなって何も言わずいなくなっちゃう人とか、キレる人とかがいなくてよかったですし、「このカードを使うなら」という前提に基づいたいくつかの提案もいただいて、大変嬉しく、かつ意義深いセッションになったと思っています。

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結構イライラしますが、本気でこのルールでカードを使って、ゆっくりと、誰も置いていかずに対話してみるのも、たまにはいいかもしれませんよ?

(報告:廣畑 光希)

・企画⑨:15:00-17:00 終わりの哲学対話
(企画:角田将太郎)

今年のこまば哲学カフェの最後の企画は「終わりの哲学対話」という題で、その名の通り「終わり」をテーマにした哲学対話を行った。「終わり」をテーマにした理由は「最後」の企画だからという訳ではない。それは偶然である。本当の理由は別のところにある。

「理想的な始め方については多くが語られる一方、理想的な終わり方については語られることは少ないよね。」

私のある友人のこの言葉が私を「終わり」というテーマを選ぶに至らしめたのである。始まる・始めるの対義語は終わる・終えるである。そこには意味における明確な対称性を見て取ることが出来る。しかし私たちは多くの場において終わることよりも始まることに注視しがちである気がする。そこには何らかの非対称性があるように思われる。それは何の非対称性で、なぜ生じるのだろう。会のはじめにまず私が抱えていたこのもやもやを全体に向けて話した。

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次にこの言葉を私に与えてくれた私の友人である井手尾雪さんに彼女の取り組みについて話してもらった。彼女はロンドン芸術大学を卒業し、現在はコンセプチュアル・アーティストとして様々な場で活動を行っている。彼女は「私たちは始まりと同じくらい終わりについても考えるべき」と述べ、終わりに焦点を当てた様々な芸術作品について紹介をしてくれた。

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参加者の終わりに対する視線が集まったところで次に対話のテーマ出しを行った。10つほどの問いが出され、多数決により「終わりはなぜ悲しいのか」が問いに選ばれた。

まず20人ほどの参加者を年齢層別で3つのグループに分け、25分ほど対話を行った。次にグループのメンバーをシャッフルする形で再度3つのグループに分け、25分ほど対話を行った。この形式にしたことには複数の意図があるが、そのことの説明は報告としての重要性はあまり高くないように思うので割愛する。1度目の対話では「終わり」という抽象的な語から「友人の死」という具体的な話題に変換し、ある人がその際に感じた個人的な感情を中心に据えて話していたグループもあれば、「終わり」の前後における感情に注目し、感情の種類について明確な分類を試みたグループもあり、三者三様の対話が行われた。2度目の対話ではお互いの前のグループでの対話の内容を共有するところから始まり、それぞれ別々の視点から再び終わりに伴う感情についての対話が行われた。

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最後に全体で大きな輪を1つ作り、感想の共有を行った。10人ほどの方に感想を述べていただいたが、「私たちは死に際しては儀礼的に悲しみのモードを共有しなくてはならず、環境に悲しくさせられているだけなのではないか」「終わりに対する感じ方は人それぞれだけども、一定の人が悲しいと感じるとその出来事は悲しい出来事として扱われ無くてはならない」などの感想が特に印象的であった。

今回の対話ではまず問いのに前提である「終わり」=「悲しい」を疑う問いが確認され、次に一般的に悲しみを伴うとされる終わりについて、その終わりに対して誰しもが悲しいと感じるわけではないことが確認された。では悲しみは一体どこにあるのだろうか。わからない。この問いがそもそも明確な答えを出すことの出来る問いなのかすらもわからない。しかしこの問いのそばまで参加者を誘い込むことが出来たことは企画者からすれば1つの成果である。普段当たり前としていることに疑問を投げかけ、当たり前を解体し、さらに新たな問いを生むに至れたことは「哲学対話的」前進として評価出来るだろう。

(報告:角田将太郎)

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