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梶谷真司「邂逅の記録15:ハワイ大学との共同夏季比較思想セミナー報告(6)」

2012.09.13 梶谷真司

《関係性というキーワード》

8月6日(月)

 午前中は中島先生のレクチャー。まず最初に指摘されたのは、人間の本性(中国語の「性」)(human nature)は、西洋では不変のものと考えられているが、孔子、孟子の儒教伝統では、変化しうるものだと考えられている、ということだった。そして、先週のエイムズ先生の話と同様、性善説は、人間の本性が善であることを言っているのではなく、善への傾向性を指していることが改めて強調された。今日のテーマは、徳と幸福がどう関わるかと、「悪」および「悪人」とは何か、であった──徳と幸福の間には関係はあるが、必ずそうなるというわけではない。そしてまた徳自体も、その人の内的な完成なのではなく、他者との関係における「利」から捉えられる。悪もまた同様で、関係性の切断のうちに見出される。西洋との対比で顕著なのは、西洋が個体性と必然性を追求するのに対して、儒教では関係性と偶然性に重きを置く、ということだろう。このような対が成り立つのは、おそらく個体性はコントロールや計算が可能なのに対して、関係性は相互作用ゆえに一義的な予測が不可能なことによるのではないか、等々と様々な思考を喚起された。 

 午後の石田先生の授業では、純粋経験において差異を規定する論理がいかにして生成するかが問題になったが、こうした意識の構造化は自発的な発展のプロセスだという。だとすれば、それは主体的な行動ではないということであろうが、そのことは「私」と経験の関係とつながっていると考えられる。すなわち、私がいて経験があるのではなく、経験があって私があるということだろう。このようにとらえた場合、人間の内と外の境界は、活動という経験の場面から見れば明瞭ではなく、自分以外のものとの相互作用の内にある、つまり主客の成立以前の純粋経験とは、関係性だということになる。そしてここから、瞬間瞬間の連関としての純粋経験の唯一性、独自性が帰結する。そしてその持続と展開が、Continuity of Discontinuityと言われていたものであろう。

 儒教という中国の思想伝統と、西田という近代の哲学──関係性という点で通底しているのは、東洋的な思想の特徴とでも言える。そしてそこに偶然性、唯一性など、他の問題や概念が密接に絡んでくる。

 
8月7日(火)

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 午前は私の授業。今日は益軒の『養生訓』へのIntroductionとして、彼の経歴と著作について簡単に説明した後、時代背景を知ってもらうために、医療に関わる画像資料──病気平癒を祈願する絵馬、疱瘡神、麻疹神を描いた養生心得の版画、育児書の挿絵など──を見せた。そうして哲学ではあまり語られない神道の特徴について説明し、また生活環境、死生観の違いを考え、そこから病気や健康に対する当時の人々の態度や考え方について議論した。画像を見ることで生まれるインパクト、具体的な事実を知ることの大切さを伝えたかったが、参加者たちもそれを受け取ってくれたように感じた。次のレクチャーから養生思想を本格的に取り上げるが、そのときにも、そういう知識、想像力がより理解を深いものにしてくれるのではないかと期待する。

 午後のエイムズ先生の授業は、人間の倫理性、規範性を重視するConfucianismと対照をなすもう一つの伝統、Taoismについてであった。『老子』の冒頭の「道」に関する一節、『荘子』の夢に胡蝶となる話、混沌に穴を穿つ話などを取り上げ、Taoismの人間を特別視しない世界観、現実性への問い、存在の変容、規定性と無規定性、思考の自由さなどについて説明があった。関係性や全体性という点では、儒教と共通するものがあるものの、人間の力も理解も存在も超えたspontaneous emergenceの世界。そこに根差し、そこから生い立つことから、人の営みにバランスと自由さがもたらされる。この世の秩序の可能性をこうした自発性と無規定性の余地に求めるのは、全体として見れば、老荘思想の基本と言えば基本だが、英語で語られると、また違った響きとニュアンスを帯びてくる。このような体験も、海外の人と比較思想研究をする面白さだろう。

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