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【報告】政治哲学研究会「死に至る方法:小林秀雄のコギト」

2008.05.01 金杭

去る4月11日(金)に、公開共同研究「政治哲学研究会」の第二回研究会が行なわれた。お招きしたのは、元UTCP研究員で、現在、韓国の高麗大学校民族文化研究所の研究教授である金杭氏である。

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「死に至る方法:小林秀雄のコギト」と題された本発表は、金氏が東大大学院総合文化研究科に提出された博士論文「セキュリティの系譜学:生と死の狭間に見る帝国日本」の一部を成すものであり、1930年代から第二次世界大戦に至る時期の小林秀雄の思想行程が、当時の時代状況、とりわけ戦争との関連において考察された。

 周知のように、丸山真男は『日本の思想』(1957)のなかで、小林秀雄のうちに日本的な「実感信仰」の典型を見ている。丸山はここで、後の『歴史意識の「古層」』(1972)では本居宣長を例に主張されることになる日本思想の「古層」もしくは「執拗低音」の表現を、小林秀雄に見て取っているのである。すなわち、いかなる超越的な概念論理も構築されることがなく、あらゆる思想が成り行きのままに受容されて並存するだけの「精神的雑居性」である。本発表で金氏が議論の出発点としたのは、作為の不在という日本的な精神構造を小林に代表させるこうした丸山のような見方への批判である。

 金氏によれば、小林秀雄の言う「私」は、厳密な方法に基づく「実験室」にほかならなかった。その方法とは、デカルトの「コギト」からヴァレリーの「テスト氏」にまで受け継がれているような、懐疑という方法である。小林の「不安」とは、戸坂潤が揶揄したように客観的・社会的問題に目が向かない個人の私的な感情への逃避ではなく、「私」が自分自身を疑うということを唯一の確実な拠り所として展開される小林の批評の方法を表したものにほかならない。それゆえ、小林は単に論理を欠いた「実感信仰」に身を委ねているわけではない。むしろ彼は、自然主義からマルクス主義に至る日本文学の展開のうちに、懐疑する「私」という方法が欠けていることを批判していたのである。

 しかしさらに本発表では、このような方法としての「私」が、1930年代後半以降の小林が発見した「歴史」によって実質的に無効にされてしまったことが明らかにされた。小林にとって子供を失った母親の愛惜の念に典型的に見出されるこの「歴史」は、失われてしまったものが記憶のなかに事実としてとどめ置かれるときに存在するようになるものである。このとき小林が準拠しているのは、失われたもの(死んだ子供)が存在するという確実性にほかならない。方法を通じて得られるのではなく、方法の前提として確実に存在するとされるこうした「歴史」を前に、懐疑の方法は中断してしまうのである。

 もっとも金氏は、小林のこうした転向が方法の単なる放棄、あるいは自然主義への退行を意味するわけではないとも述べた。子供を失った母親という小林の比喩には、当時すでに戦火が拡大していた日中戦争(小林自身も38年の一時期に記者として従軍していた)の経験が反映しているとみなすことができる。そして金氏によれば、戦争の経験は上述のような小林の懐疑の方法にとって、大きな意味を持つことになった。ここで注目すべきは、戦時中の小林の文章に頻出する「非常時」という語である。つまり小林は、「平常時」の規則を宙吊りにする「非常時」としての戦争とともに、自身の懐疑の方法が現実の状況として実現したと考えたのであり、このような状況のなかで、いまや懐疑は思考の方法としては不要になってしまったというのである。

 また、最後に金氏は、喪失もしくは死を契機として発見される「歴史」という小林の論法が、死ぬ限りにおいて日本人たりうるという立場に彼を導くことになったと指摘した。そして氏はここに、朝鮮半島で徴兵された人々が服したのと同様の論理を見出している。すなわち、旧朝鮮人徴兵者は戦後、(戦)死者のみが日本人として顕揚され、生き延びた者は日本国民として受け取るべきいかなる権利や補償も与えられることがなかった。こうして金氏は韓国人としての視点から、小林のなかに期せずして現れた帝国日本の死をめぐる政治を明らかにする。これは我々「日本人」に未済の過去の問題として突きつけられた問いであると同時に、まさにセキュリティの維持へとますます関心を集中しつつある今日の政治に対して一つの分析視座を与えるものと言えるかもしれない。

(文責:大竹弘二)

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