Blog / ブログ

 

【報告】パリ・フォーラム「哲学と教育 教えること、学ぶこと――哲学と精神分析の教育をめぐって」

2008.01.11 小林康夫, 原和之, 郷原佳以, 西山雄二, UTCP

1月8日(火)、パリの国際哲学コレージュ(CiPH)にて、UTCPとコレージュ共催のフォーラム「哲学と教育 教えること、学ぶこと――哲学と精神分析の教育をめぐって」が開かれた。これは、2006年11月の第1回に続く第2回のフォーラムとして、UTCPの小林康夫と西山雄二の主導で進められてきた企画である。

今回は、限られた時間で行う発表を聴衆によりよく理解してもらうため、発表原稿を冊子にして配布したのだが、用意した50部はすべてなくなるという予想以上の盛況にまずは胸をなで下ろした。聴衆には確かに日本人留学生が多かったが、しかし「哲学精神分析教育」といえば、これは1983年にジャック・デリダらによって創設された「国際哲学コレージュ」の活動そのものを名指すようなテーマであり、テーマに惹きつけられて足を運んでくれたコレージュ関係者や学生も少なくはなかったのではないかと思う。そして実際、直後の懇親会での反応などをみる限り、全体として、とりわけ多様なアプローチを提示することができた点で、このフォーラムは聴衆の期待を裏切らないものになったようだ。とはいえ、18時から22時まで、休憩時間等を考慮すれば実質3時間半ほどの間に6名が発表を行うというタイトなスケジュールであったため、大半の発表者が用意した原稿をそのまま読み上げることができなかったのは仕方がないとしても、質疑や討論の時間が十分に取れなかったのは残念であった。率直にいって筆者は、最後に全体討論の時間がなかったことに加え、発表者およびスタッフの1人でもあったため、いまだ全体を俯瞰するような視点を掴めきれてはいないのだが、むしろ総括と反省を可能にしてゆくためにも、まだ余韻のなかにあるうちに、フォーラムの全体を報告しておきたいと思う。

フォーラムは2部構成であり、各々「教育」との関係において、第1部では主として哲学の問題が、第2部では主として精神分析の問題が論じられた。発表に入る前に、西山雄二からUTCPの活動紹介があり、続けて小林康夫から開会の言葉が述べられた。

blog3.jpg

小林はまず、デリダとリオタールの身近でコレージュを創立時から見てきた者として、哲学と教育というコレージュの中心的なテーマをめぐっていま自分がこのようなフォーラムを開催できるというのは感無量であると話したうえで、哲学や精神分析と教育の関わりについて次のような指摘をした。哲学や精神分析はつねに、それぞれ異なる仕方でではあるが、身につけることが不可能なこと、ゆえに教えることがきわめて困難なことを孕んでいる。そのような、いわばあらゆる教育の彼方で、それでも教えるということにいかに立ち向かったらよいのか、それがこのフォーラムの中心にある問題意識である、と。それでは以下、6つの発表を順番に辿っておこう。

blog1.jpg

第1部、第一の発表は、西山雄二「マリオネットの他者教育――ジャック・デリダにおける脱構築と教育法」。西山は、一方で脱構築の実践によって従来の哲学のあり方に亀裂を入れながら、他方で――彼自身の哲学に比していまだあまり知られていないことながら――哲学教育にきわめて積極的に介入し数々の提言を行ってきたデリダにおいて、脱構築と教育はどのような関係にあるのかという、デリダ研究において盲点となってきた問題に取り組んだ。西山によれば、教育とは一般に、教師を模倣(「真似る」→「学ぶ」)させることによって学ぶ者に自律をもたらすという、他律と自律の両義性を前提としている。デリダはしかし、このような教育法において保持される教師の権威的性格(教育の形而上学的性格)に疑問を抱き、自身の脱構築の教育では次のような実践を行った。すなわちデリダは、ゼミの際、身振りまでが書き込まれたほぼ完璧な原稿を前もって用意しておく。そしてあたかもマリオネットのように、あるいは聴講者と共に原稿をチェックするかのように、その原稿を、ある種のリズムと声調をつけて読み上げる。するとそのとき、一種の劇場空間となった教室において、テクストに他者が到来し、デリダと聴講者は共に他者に曝される。教師的な権威とは無縁の、これが、デリダ的な「出来事」としての教育である。

続いて郷原が、「ディス-クールとしての教育――ブランショによる教育の形式」と題して発表を行った。この発表では、「思考とその形式」というブランショの1963年の論考を素材にして、哲学教育について実践的な提言を行うというよりはむしろ、哲学的思考を根拠づけている根本的な形式として教育を捉え直すことができるのではないかという発想の転換を提案した。というのも古代ギリシア以来、哲学と教育は密接な関わりを保ち続けてきたわけだが、その背後にあるのは、ブランショによれば、一方で哲学とは「見知らぬもの」の果てなき探究であり、他方で教育とは、教師と生徒という「無限の隔たり」、「中断」、換言すれば「見知らぬもの」を介した対話関係である、というところに見られる一種の構造上の類比である。したがって、教えることの全体がプログラム化されているような現行の教育とは異なる次元で、「断片の文学」と総称できるようなある種の様態の言葉のなかに、潜在的には「教育の言葉」が聴き取られうるのではないか、というのが筆者の提起したかった仮説であった。

続いてラダ・イヴェコヴィッチ(サン・テティエンヌ大学)が、「自らの教育の失敗から学ぶために教育すべきであるか?――教師-生徒関係の逆説」と題して発表を行った。イヴェコヴィッチはまず、長年教師をしていながらいまだ「うまく教えられている」と実感できたことがない、という述懐から語り始めた。教師としての居心地の悪さとでもいうべきこの感覚は、彼女の発表の核心に通じるものであった。というのも彼女がポストモダン哲学の「主体」批判を想起させながら注目したのは、教師-生徒関係において避けることのかなわない権威性、そして暴力性だからだ。西山の最初の問題提起に応えるかのように、イヴェコヴィッチは、教師-生徒関係においてすべての主体が同様に自律しているということがありうるのか、自律性は必然的に相対的にならざるをえないのではないか、ゆえに畢竟、それは主人-奴隷関係、男性-女性関係と類比的な政治的関係なのではないか、と問いかけた。結論としては、「暴力の零度はない」という事実の確認に尽きており、デリダが問いに付した出発点に留まっていたように思う。

続いて第1部についての質疑が行われ、三つの問いと応答がなされた。(1)西山の議論を聞いていると、まるで日本ではゼミの原稿を用意しないのが普通のようだが、そうなのか(イヴェコヴィッチの質問)。これに対して西山は、日本では確かに(多忙ゆえ?)読み上げ原稿を用意する教師はあまりいないと答えた。(2)西山によるデリダの「他者教育」と郷原によるブランショのいわば「対話の自己差異化」とは一種の対比をなしているのではないか(西山達也の質問)。これに対し西山は、レヴィナス、ブランショ、デリダにおける教師像、ひいては他者論の違いを引き合いに出し、郷原は、ブランショ的「対話」とデリダ的「他者」が根本的に異なるものなのかどうかについては疑問が残るとした。(3)教育に関して哲学の特異性についてはどう考えるか、また精神分析との関係性はどうか(ナイシュタットの質問)。これに対し西山は、哲学史の伝達としての哲学教育には特異性はないが、思考を生み出すものとしての哲学教育には特異性があると、郷原も、「哲学」という語の用法によると答え、イヴェコヴィッチは、探究の主体を問いに付すという意味では特異性があるが、他方で同時に、哲学は精神分析のような隣接領域による自己批判により成立する以上、特権を有してはならないと答えた。

blog2.jpg

第2部、第一の発表は、フランシスコ・ナイシュタット(ブエノス・アイレス大学)「ヴァルター・ベンヤミンの認識理論における精神分析の痕跡:パサージュ論の場合」。ナイシュタットは、ベンヤミンの『パサージュ論』において現れる「夢」、「フェティシズム」、「ファンタスマゴリー」等々といったモチーフを(ユングではなく)フロイト精神分析理論の集団レベルへの読み替えとして捉えたうえで、それらと共に現れる「覚醒」モチーフのうちに19世紀という時代への透徹した眼差しから生まれたベンヤミン独自の歴史認識の萌芽を見て取り、それによって最終的に、ベンヤミンは全体主義的な覚醒とは異なる自己批判的で弁証法的な覚醒の存在に注意を促していたのだとした。「教育」という言葉が現れないまま結論を迎えたため共通テーマとの接点は聴衆が各自考えなければならないような格好になったが、予想も付かないような仕方で「教育」の射程を拡げられたことに誰もが意表を突かれたことは確かだ。

続いて原和之が「愛のレッスン――哲学と精神分析」と題して発表を行った。これは、哲学・精神分析・教育という本フォーラムの三大テーマをすべて正面から取り上げるという困難な道を選びながらきわめて明快な整理を行い、かつその三つのすべてに無限の(というのも不可能性ゆえに)希望を抱かせるというすばらしい発表であった。全体として、原が問いに付したのは、哲学と精神分析を理論と実践のようなかたちで分離する通念であり、それに対して両者の共通基盤として提示されたのが「愛のレッスン(leçon d’amour)」という概念だった。なるほど確かにラカン自身が「反哲学」への傾斜を述べてもいる。しかしそれはプラトン的なものである限りでの哲学史への否なのであって、それとは別種の哲学、すなわちフーコーが『主体の解釈学』において「霊性(spiritualité)」と呼んだような古代の哲学的探究――念頭に置かれているのはソクラテスだ――との間には、精神分析はむしろ、「愛の出来事」であるという点において親和性を有する。とはいえ、まったく同じかたちの「出来事」であるわけではない。ソクラテスが哲学教育において行うのは、学ぶ者の欲望を、いわばより高尚な真理愛へと変形することである。ところが精神分析における「愛の出来事」とは、愛の対象の上昇ではなく、愛される者の愛する者への変形である。他者の欲望の欲望によって駆動されるラカン的「欲望の弁証法」においては、弁証法の只中に愛の次元が導入され、愛される者は愛する者に変化する。かくして共に「真理愛」に基づいた2つの「愛のレッスン」は、別々の仕方で出来事としての愛を到来させ続けるのだということが示された。

最後にアラン・ジュランヴィル(レンヌ第1大学)が「師礼賛――学ぶこと、教えること、教育すること(Éloge du maître. Apprendre, enseigner, instruire)」と題して、黒板代わりのボードを自在に使ってダイナミックな発表を行った。「学ぶということはすべて精神分析的次元でなされるのだ」、「すべての教育は哲学的だ」と言うジュランヴィルはまず哲学と精神分析の教育を三つの契機によって説明した。第一に、それは「知っていると想定されている者が知らないと言う実践」、すなわちソクラテス的な実践であり、そこで師は自ら姿を消すがモデルとして作用する――師の倫理的側面。しかし第二に、師はおのれの知を与え、命令し、教えねばならない――師の政治的な側面である。そして第三に、師の歴史的側面として、師は正義として、人間を教化せねばならない。
37e4%20a.jpg
以上の三つの契機を裏づけるために、ジュランヴィルは次に、「私は自分の知に従ってしか教えられることができない」などのラカンの言葉を導きの糸に、キーワード(以下の太字)を板書しながら師をさらに詳細に規定する。まず「モデルとしての師」。モデルとしての師はその知をいかにして伝達するのか。その条件となるのが恩寵(grâce)である。すなわちモデルとしての師は自らの姿を消し、法を与え、かくして他者に働きかける。そして知の伝達における関係が学習(apprentissage)である。被分析者は、他者を通して学ぶことを学ぶのだが、学ぶとはつまるところ、何らかの行為の結果を知ることである。さて、愛の関係にある分析家と被分析者の間で教育は隠喩(métaphore)によって、すなわち、物を意味するもの(signifiante)に変形し、厚みを与えることによってなされる。次に、「命令秩序(ordre)を与える者としての師」。命令=秩序を与えて知にもたらすための条件は選び(élection)、そして本質的原理の教育(enseignement)であり、そこで学ぶ者は哲学という絶対的他者に曝されることになる(レヴィナス参照)のだが、それは換喩(métonymie)によってなされる。最後に、「正義としての師」。その条件は信仰(foi)、そしてそのうえで教化(instruction)、すなわち各人のなかに真の理性的形式たる構造を導き入れることである。

「哲学と精神分析の教育」というテーマは、「哲学の教育」、「精神分析の教育」という具体的、実践的な問題であると同時に、しかしその次元を超えて、「教育としての哲学と精神分析」、あるいは「哲学としての教育」、「精神分析としての教育」等々として、ほとんど無限の拡がりを有しているということ、このことが、フォーラムの4時間弱を通して、参加者の間に徐々に共有されていった確信ではなかっただろうか。発表者として、聴講者としてフォーラムにご参加くださり、そのような場をつくってくださったすべての方々に感謝したい。また同時に、個人的なことながら、この場を借りて、「教育」経験ほぼ皆無の一フランス文学研究者に「哲学と精神分析の教育」というテーマについて発表させるという無謀ともいえる決断を下してくださったUTCP、とりわけ、小林康夫先生の懐の深さに、深くお礼申し上げたい。あくまで自分の専門の枠内を出なかったとはいえ、これまで正直なところ接点を見出すことができないでいた自分の「専門研究」と「教育」とが、ある本質的な次元で通底する可能性を垣間見ることができたのは、自分にとって大きな驚きであり、かつ、喜びであった。

(文責:郷原佳以)

本フォーラム「哲学と教育」の記録集(フランス語)は、UTCPより本年3月に刊行される予定である。また、音声記録に関しては、フランスのラジオ局「フランス・キュルチュール」のHP内に常設されている、国際哲学コレージュのアーカイヴ・ページで近々公開される予定である。

Recent Entries


  • HOME>
    • ブログ>
      • 【報告】パリ・フォーラム「哲学と教育 教えること、学ぶこと――哲学と精神分析の教育をめぐって」
↑ページの先頭へ