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第二回BESETO哲学会議: 「哲学と東アジアの思想」

2008.01.09 信原幸弘, 村田純一, 小口峰樹, 脳科学と倫理, UTCP

2007年の12月27日と28日の二日間にわたって北京大学のShaoyuan Hotelにて第二回BESETO哲学会議が開催されました。東京大学からは9名(内UTCPから5名、本郷の哲学研究室から4名【⇒本郷班レポートへ】)の研究者が出席しました。

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このBESETO会議は、もともとは、2006年9月に東京で開かれたPEACE会議(東アジア現象学会議)の折に、ソウル大学のNam-In Lee教授、北京大学のXianglong Zhang教授そして東京大学の村田純一がPEACEでの研究者間の交流をさらに拡大して、若い研究者とりわけ大学院生の間での研究交流を行う意義を話し合うことを通して計画されたものであった。そのときの話し合いに基づいて、第一回のBESETO会議が2007年2月3日と4日の二日間、ソウル大学で行われた。

ソウルの会議でのプログラムは、最初の計画された趣旨に沿って、一部の例外を除いては、大部分が大学院生と若手の研究者による発表からなっていた。第一回の後、北京大学での第二回会議を計画する過程で、交流を大学院生の研究発表を中心にすることは変えないが、同時に大学の教員の間での交流も行うことの必要性が指摘され、今回は、参加した各大学の教員も全員が発表を行うことになった。そのために、発表者の数は、ソウル大学13名(教員4名、院生9名)、東京大学9名(教員4名、院生5名)、北京大学11名(教員3名、ポスドク研究員2名、院生6名)という多数になった。各発表者の時間は討論の時間をいれて35分とし、院生の発表は、2会場に分けて行われた。2会場に分けることから来るデメリットもあるが、できるだけ多くの院生が参加し発表を体験するということのもつ大きな意義をかんがみると、このような措置はやむをえないと思われる。

別れた会場への参加者はある程度のアンバランスも生じたが、おおむね平均されており、どちらの会場でも活発な質疑が展開されたように思われる。

発表された内容も、伝統的な東アジアの思想を形成してきた儒教思想や仏教思想から始まって、現象学の諸問題、分析哲学や政治哲学に関する問題、そして科学哲学や脳科学の倫理をめぐる問題まで、実に多様なものであった。この会議には一応「哲学と東アジアの思想」という題名が付けられており、それぞれの発表では、多かれ少なかれ一定の仕方でこの題名への配慮がなされていたが、基本的には内容に関して一切の制限を設けないという方針がそのまま反映された仕方で行われた。
会議の一日目の夜に3大学の教員が集まって次回の会議の予定についての検討がなされ、次回は、2009年1月10日―11日の予定で東京で開催されることになった。基本的な原則は第二回のものを踏襲する予定である。

今回はじめて参加したソウル大学のKim教授や東京大学の一ノ瀬教授も、院生たちの活発な議論を見て、この会議の重要性を直ちに理解され、今後の協力を約束された。また、会議の最後に開かれた総括の議論のセッションでも、多くの参加者から会議の意義を高く評価し、今後も続けることの意義を強調する声が相次いで出された。このように、BESETO会議はまだ始まったばかりであり、今後の将来がどのように進んでいくのか定かではない点もあるが、少なくとも今までの様子を見る限り、その意義は参加者に十分理解されているように見受けられる。
(以上、全体報告: 村田純一)

今回のBESETO会議にはUTCPから事業推進担当者の村田純一、信原幸弘、若手研究員の小口峰樹、中澤栄輔、共同研究員の植原亮が参加した。以下にそれぞれが体験したBESETOの様子を報告したい。
なお、本郷の哲学研究室から参加した、一ノ瀬正樹(哲学研究室教授)、榊原哲也(同准教授)、今村健一郎(同博士課程)、朝倉友海(同博士課程)による報告はこちらのページを覧いただければ幸いである.

最初の村田のものはできるだけ全体を見渡そうとしたものになっているが、駒場からの参加者が発表したセッションの報告はそれぞれの参加者のレポートにゆだねた。

【事業推進担当者: 村田純一】
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会議は12月27日の8時半から開会式をもって始まった。
開会のセッションは、北京大学哲学科の主任教授のDunhua Zhao教授による開会の挨拶からはじまった。Zhao教授は、これまで北京大学では多くの国際交流がなされてきたが、今回の会議のように学生の間での交流は珍しいものであり、その意義を高く評価しているという見解が述べられた。引き続き、北京大学の外国哲学研究所のXinjian Shang教授と主催者のXianglong Zhang教授による挨拶がなされた。Zhang教授はBESETO会議の成り立ちにまでさかのぼって会議の由来や趣旨を説明された。

Session I: Creativity and Value
第一セッションでは、東京大学の村田純一、および、フィリピンのAteneo de Manila 大学の哲学科教授のDy B. Manuel教授による発表がなされた。
“Creativity of the Historical World—Nishida and the Philosophy of Technology”と題された村田の発表は、現代世界で果たしている技術の役割を考慮して、西田哲学を技術哲学として解釈することの意義を解明するものであった。”Max Scheler’s Value Ethics”と題されたManuel教授の発表では、シェラーの価値論に関して、その現象学的方法から感情の哲学、そして価値の序列とその客観性など、多様な側面が題材とされた。

Session II: Freedom, Pluralism and body
第二セッションでは東京大学の一ノ瀬正樹教授、北京大学のFeng Peng教授、ソウル大学のSang Hwan Kim教授の発表があった。
一ノ瀬教授は”Freedom and Subvaluationism”と題された発表において、自由の問題を形而上学的次元と政治的次元に分け、おもに後者において生じる自由と不自由との間の境界事例の問題を取り上げて、そのあいまいさをどのように処理するかに関する二つの見方が議論された。Peng教授は、”Pluralism: Presence vs. Significance”と題された発表で、現代の哲学として有望と思われている多元主義の哲学的見方を記号的多元主義と見なし、その不十分性を批判し、儒教精神を取り入れた多元主義の可能性を探った。Kim教授は”Body, Modernity, and Politics: an Essay on Sports”と題された発表で、近代社会で発展したスポーツをルールを持ってなされる身体運動と定義した上で、その政治的意味を議論の俎上に載せた。

Session IV: Ethics and Religious Belief
このセッションでは、アリストテレスの徳のある行為について、カントの最高善の問題、そして宗教的信念の合理性などの発表に基づいて、倫理から宗教にいたる合理性の問題が幅広く議論された。

Session VII: Western Philosophy and Familiarity in Korea
このセッションではロックにおける刑罰の教育的意義をめぐる議論、プラトンのティマイオスにおける心ないし魂の議論、共和主義をめぐる政治哲学的議論、そして中国における韓国ドラマの見方のなかにある文化的現象のはらむ問題など、が議論された。

Session VIII: Morality, Kingship, Music and Women in East Asian Perspective
このセッションでは、京都学派と新儒教学派における道徳観の比較研究から、儒教におけるジェンダーの区別の問題、道教のなかでの君主思想の位置、さらにはまた、Xi Kangの音楽論にいたるまで、東アジアの思想に関する多様な問題が議論された。

Session IX: Confucianism and Buddhism
このセッションでは、北京大学のZhang教授とソウル大学のCho教授による発表が行われた。Zhang教授は”The Philosophical Feature of Confucianism and its position in the Inter-Cultural Dialog---Universalism or Non-universalism”という題名の発表で、儒教の見方のなかに普遍主義と相対主義の対立を超える見方の可能性を探ろうとした。Cho教授は、”Wonhyo and His Hermeneutical shift of East Asian Buddhism”という題名の発表で、7世紀に韓国で活躍し日本仏教にも大きな影響を与えたとされる仏教思想家Wonhyoの思想の内容に関する検討と再評価の試みがなされた。

Session X: Phenomenology
このセッションでは、ソウル大学のNam-In Lee教授、北京大学のZhe Liu博士、東京大学の榊原哲也教授の発表がなされた。
Lee教授は、”Problems of Intersubjectivity in Husserl and Buber”と題された発表で、Theunissenらによるフッサール批判が静態的現象学と発生的現象学を区別しないことによるものであることを指摘し、フッサールを擁護する議論を展開した。Liu博士は、”Merleau-Ponty’s Concept of Transcendental Phenomenology”と題された発表で、メルロポンティの観念論批判を取り上げて、メルロポンティにおける超越論的現象学の意義を再解釈する試みを示した。榊原教授は、”Husserl on Static and Genetic Theories of Experience of the Other—in Comparison with Japanese Philosophy”において、デカルト的省察におけるフッサールの他者構成の分析を発生的観点を明確にすることによって整理し、批判に耐えうる他者の現象学の可能性を西田の議論を参照しながら展望することを行った。

Closing Session: Summary and Expectation
このセッションでは、すでに最初の述べたように、参加者からこの会議の成功を評価する意見と今後の展開への希望が多数出された。
(以上、村田純一)

【UTCP事業推進担当者: 信原幸弘】
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私は二日目の夕方、Brain Science and Possibilities of Reading the Mindというテーマで発表を行った。発表時間は25分で、そのあと10分間の質疑応答があった。
発表では、脳状態からどのような心の状態を読み取ることができるかを論じた。そのために、まず、心的状態を5つの場合に分類した。すなわち、(1)心的状態が脳の特定の部位に局所的に実現される場合、(2)心的状態があるニューロン群の活性化パターンとして個別に実現される場合、(3)複数の心的状態が複数の活性化パターンの重ね合わせとして集団的に実現される場合、(4)複数の心的状態がシナプスの重み配置として集団的に実現される場合、(5)心的状態の同一性が脳状態だけではなく、身体や環境のあり方にも依存する場合、の5つである。このうち、時間の都合上、最初の3つの場合について、その可能性を話した。

まず、第一のケースは、ある心的状態が生じているときに活性化している脳の状態を見いだすことによって、その心的状態を読み取ることが可能である。

また、第二のケースは、心的状態を実現する活性化パターンが人ごとに、また同じ人でも、その都度、異なるので、活性化パターンから心的状態を読み取ることはそれほど容易ではないが、それでも、活性化パターンを適切に訓練した人工ニューラルネットワークに入力すれば、問題の心的状態を示す活性化パターンをその出力として出させるようにすることが可能であり、このような「デコーディング」の手法によって心的状態を読み取ることが可能である。

第三のケースについては、重ね合わされた包括的な活性化パターンを適切に訓練した人工ニューラルネットワークに入力すれば、その出力としてその要素となる活性化パターンを単独の状態で抽出することが可能であり、それゆえそのような要素パターンによって実現される心的状態を読み取ることが可能である。

残りの2つのケースについては、残念ながら、時間の都合上、話すことができなかったが、大会のプロシーディングズに掲載された拙論のなかでは、これらについても論じておいた。

質疑応答の時間では、ソウル国立大学の大学院生Jun Yeol Kim氏から、「読み取る」というのはどういう意味か、また他者のクオリアを読み取ることは可能かという質問が出された。この質問に対しては、まず、「読み取る」というのはたんに「知る」というだけの意味にすぎないと答えた。そしてクオリアの読み取りに関しては、たとえばコウモリであることがどのようなことかというようなクオリア、つまり我々が自分で意識的に経験したことがないようなクオリアについては、脳科学的には読み取れないこと、そしてそれでも物理主義が否定されるわけではないことを答えた。

印象に残った発表は多かったが、なかでもソウル国立大学のIl Man Choiの"Noema and Object: The Problem of Doubling of Object"は、その論証の緻密さに関して印象的であった。フッサールのノエマが外界の実在的対象とは別の志向的対象であるのか、それとも外界の実在的対象と同一であるような志向的対象であるのかに関して、前者をとる表象説などの諸説を批判しながら、ノエマにおいては同じ対象が観点の違いによって外界の対象とも、また志向的対象とも捉えられるのだということを、志向と充実の区別にも言及しつつ、説得的に論じていた。
(以上、信原幸弘)

【UTCP若手研究員: 小口峰樹】
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先日、北京大学にて開催されたThe Second BESETO Conference of Philosophyについて(1)私自身(小口)の発表、(2)印象に残った発表、の順にご報告申し上げます。

(1)私の発表は一日目の午後一番のセッションにて行われました。当該セクションは“Skepticism, Analytical and Cognitive Philosophy”と題され、分析哲学系の発表者がそれぞれの大学から各一名割り当てられておりました。私の発表タイトルは“In Defense of Conceptualism of Perceptual Content: Through Understanding the Concept of Experience in McDowell's Mind and World”。『哲学・科学史論叢 第十号』に掲載された拙論「知覚内容をめぐる概念主義の擁護――マクダウエル『心と世界』における経験概念の解明を通じて――」に基づいた内容で、マクダウエルの概念主義の主張をその経験概念に焦点を当てて解明し、その成果をもとに非概念主義からの四つの批判(動物および幼児の知覚について、知覚の受動性について、矛盾許容性について、肌理細かさについて)に応えるものです。(当該論文は私のメンバーページよりダウンロード可能です)

発表後、会場からは多くの質問をお寄せ頂きました。順不同で述べれば、「非概念主義からの第二の批判(知覚の受動性を概念主義はどう扱うか)に対する応答は概念主義の積極的な擁護とはならないのではないか」、「知覚経験と知覚的信念との間に差異を設けることは妥当か」、そして「デイヴィドソンに対するマクダウエルの批判は有効性をもたないのではないか」といった趣旨の質問が提起されました。限られた質疑応答の時間内でそのすべてに十分な形で応えることは出来ませんでしたが、発表後の会食の場などにおいて質問を寄せて頂いた方々と議論を重ね、カント的な構成主義とマクダウエルの概念主義の違いをどう考えるべきかといった難しい問題も含め、実りある対話を発展させることができました。質問を寄せて頂いたJun Yoel Kim、Myungsoon Lee、Heejin Kwonの三氏にはこの場を借りて改めてお礼を申し上げます。

(2)二日間を通じて印象に残った幾つかの発表のなかから、ここでは北京大学のPeng Dong氏による“On the Knowledge Argument”というタイトルのものを採り上げます。Peng Dong氏とは発表前日のレセプションでも言葉を交わしましたが、メタ倫理を専門としており、サイモン・ブラックバーンを主に研究しておられるとのことでした。当発表は、フランク・ジャクソンの知識論法(「マリーの部屋」という思考実験を含むものとして有名)に関して、それが何を真に明らかにしているのかを確認した上で、主要な反論から擁護するという趣旨のものでした。氏(およびジャクソン)によれば、知識論法は(当初ジャクソンが主張していたように)クオリアに関する随伴現象説の正しさを証明するものではなく、物理主義は説明すべき何かを取りこぼしているということを明らかにするものです。しかし、これに対してはホーガンやデネット、チャーチランド等による批判が存在しています。それらに対し、氏は、知識論法において物理主義的な説明が取り残しているとされる知識は、「マリー自身の経験に関する知識」ではなく「他者の経験に関する知識」であると主張することで切り返します。氏は、この結論は物理主義の破綻を直ちに宣告するものではなく、物理主義にさらなる説明義務を課すものであると結論づけます。

本発表からも垣間見えるように、哲学的な論争の常として、知識論法はそれを提起したジャクソン自身にも当初は見えていなかった興味深い論点を次々と開示しながら論争を拡大してきました。その成果として、近年“There's Something About Mary: Essays on Phenomenal Consciousness And Frank Jackson's Knowledge Argument”という論集も刊行されており、私自身も今回の発表によってこの論争に取り組む意志を新たにさせられました。

私にとって今回が初の参加でしたが、BESETO会議は、何より、中国と韓国という隣国に研究上の知己を得る機会を提供し、将来的なアジア圏での哲学的な国際交流の地盤を整備する大きな足掛かりを与えてくれるという点で、われわれ若手研究者にとってこの上なく貴重な場であると痛切に感じました。最後に、この機会を与えて下さった村田先生、信原先生を始めとするUTCPの関係各位に感謝の意を表し、私の報告を閉じたいと思います。
(以上、小口峰樹)

【UTCP若手研究員: 中澤栄輔】
私(中澤)はUTCP共同研究員の植原さん、ソウル国立大学のIl Man Choiさんとともに第一日目(12月27日)第5セクション「記憶・対象・認知 Memory、 object and cognition」において研究発表を行った。私の発表のタイトルは「Neurophilosophy of Memory」である。

Neurophilosophy(神経哲学)とは(1)脳神経科学の成果を既存の哲学的問題の解決のために積極的に援用する哲学的方法論であり、また(2)脳神経科学の発展に伴って新しく生じてくる哲学的問題を論じる学問でもある。私の発表の目的は「記憶」に焦点を絞って、上記のような神経哲学が成り立つのかどうかを明らかにすることであった。

もう少し詳しく私の研究発表を紹介したい。私の主張は以下の3点である。
(1)記憶のビデオテープ説の紹介と否定
「記憶のビデオテープ説」によると、過去の情報の痕跡は脳内に個別的にかつ永続的に貯蔵されていて、貯蔵されている情報が想起によってそのまま再生される。しかしながら、記憶痕跡の存在は脳神経科学的に妥当ではない。
(2)日常心理学的記憶観の紹介とその否定
日常心理学的記憶観は「記憶のビデオテープ説」を批判し、記憶の変化、再構成に着目する。しかしながら、日常心理学的記憶観は「記憶のビデオテープ説」と同じように、「記憶痕跡が存在する」という前提を共有してしまっている。
(3)代替としての記憶の神経科学的モデル
記憶の神経科学的モデルは記憶痕跡を否定する。記憶の神経科学的モデルによると、記憶の本体とはニューロンのネットワークの総合的な変化である。

このような私の発表に対して、いくつかの質問が寄せられた。北京大学教授の張先生からは「忘れることができない記憶もあるだろう。そうした長く保存される記憶は脳神経科学的にはどのように説明されるのか」という質問をいただいた。確かに、私の発表ではトラウマ記憶のような「まとわりつく」記憶についての言及を欠いていたので、張先生のご指摘はもっともだと思う。また、同じセクションで発表したソウル国立大学のChoiさん―彼はフッサールの「Noema」にかんする実に詳細な研究発表をおこなった―からは「記憶の表象という心的なレベルとニューラルネットワークといった物的なレベルとの関係はどのようになっているか」といった質問をいただいた。この点も、私の発表においては論じられていない。このような質問それぞれは哲学的問題に深くかかわるだけに、今後の私の研究テーマとして非常に重要である。

なお、さきほど言及したソウル国立大学のChoi Il Manさんにかんしても当てはまることであるが、BESETOでは現象学者の研究発表が多かった。中国でも、韓国でも、現象学は非常に盛んであるように思われる。そして、現象学のなかでも、フッサールの現象学だけではなく、ハイデガーの現象学やメルロ=ポンティの現象学などを扱う研究も増えてきているようだ。たとえば、第二日目の第10セクションにおいて、北京大学のZhe Liuさんは「Merleau-Ponty’s Concept of Transcendental」と題して、メルロ=ポンティの『知覚の現象学』の詳細な読解を試み、経験主義にも主知主義にも陥らないメルロ=ポンティの現象学を「超越論的」という言葉をキータームにして描き出した。複雑なメルロ=ポンティの哲学をクリアに論じるZhe Liuさんの手法を私もぜひ学びたいと思う。

BESETOに参加しただれもが抱く感想かもしれないが、私にとってもBESETOは非常に有意義な会議であった。中国、韓国の若い友人を数多く得ることができ、彼らとは来年に東京で開催される第3回BESETOでの再会を約束した。北京大学の素晴らしい会議運営にならって、われわれも来年のBESETOに向けてしっかりとした準備をしたい。
(以上、中澤栄輔)

【UTCP共同研究員: 植原亮】
UTCP共同研究員の植原亮は、12月27日(木曜日)午後の第5セクション「記憶・対象・認知 Memory, object and cognition」において、「認知能力の増強と自己変容の倫理 The ethics of cognitive enhancement and self-transformation」と題した発表を行った。植原は、脳神経科学の発展に伴って得られた知見に基づいて、機能低下した脳や疾患を有する脳の症状緩和や治療に応用可能であり、現在その研究が着々と進行しているという現状紹介を行ったうえで、次のように問題提起した。すなわち、こうした技術は健康な状態の脳の機能を強化することにも応用可能であるが、そのような知的能力の大幅な増強は、われわれの「自己」というもののありように深刻な影響を及ぼし、場合によっては自己を取り返しのつかない仕方で損なうのではないか。この問題を考察するため、植原は、物語的な自己のありようを提示した。そして、このように議論を展開した。そこでは、知的能力増強が自己を紡ぎ出す物語の破壊ないし断片化をもたらす可能性が問題となる。しかし、日常的実践の水準にまで、より積極的に脳神経科学的な見方を取り込もうとする陣営にとってはこの論点は説得的に働かない。そこで、脳神経科学に基づく技術を受容する際に引き起こされる社会的変動の速度に着目し、極端に急激な変動によって公平や平等といった理念が損なわれるという可能性を指摘した。

会場からなされた質問をいくつか挙げておく。脳状態の劇的な変化に関して、自然な種類の変化と不自然なものとに分ければ、受容可能な変化と受け入れがたい変化とを区別することができるのではないか。治療に関して行き過ぎた治療というものはありうるか。物語的ではない自己観にはどのようなものがあるか。そもそも植原は能力増強に関して、賛成と反対のどちらの立場に共感をもっているか、などなどである。当セクションの参加者はやや少数であったものの、このようにさまざまな質問を喚起することができたという意味では、神経倫理という新しい分野の一端を参加者に伝えるよい機会になったと思われる。
他の発表で紹介したいのは、ソウル大学のJun Yeol Kim(金俊烈)氏の「懐疑論の基本構造 The basic structure of skeptical argument」である。ここでの懐疑論とは、「悪霊の世界の想定」や「夢見の想定」などを指す。金氏の発表は、懐疑論的な議論構造の一般化に関わるわれわれの直観と、閉包性がもつ説得性に関わる直観とを両立させるべく、懐疑論に新しい定式化を与えることを目指したものである。

金氏の発表は、保証や正当化といった伝統的な認識論上の概念と深い結びつきを有するものであったので、私(植原)は、そうした概念と手を切るように勧める自然主義的な認識論についてどのように考えるか質問した。金氏の答えは、おおよそ、哲学の使命はまずもって概念の解明ないし明晰化に存するというものであった。セッション終了後も議論を続け、金氏の認識論上の立場を探ったところ、彼は「独断主義 dogmatism」を採ると答えた。すなわち、デカルト的な基礎的信念の存在を確信しており、その意味では基礎づけ主義をとっているということになる。いまやこうした立場はきわめてまれであるから(本人もそう述べていた)、単なる国際交流にとどまらない、多様な哲学的見解に触れる実によい機会を得ることができたと言えるだろう。
(以上、植原亮)
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