【報告】国際シンポジウム「崇高と不気味なもの」(1)
2015年の3月2日(月)から4日(水)にかけて、ソフィア大学(ブルガリア)にて国際シンポジウム「崇高と不気味なもの」が開催された。本シンポジウムは、ソフィア文学理論セミナー、ソフィア大学文化センター、およびUTCPの共催により、ソフィア大学と東京大学のメンバーを中心に開催されたものである。
本シンポジウムの計画は2年前に遡る。2013年秋、同じくソフィア大学にて二大学の共催による「変身とカタストロフィ」という国際シンポジウムが開催された。東京大学/UTCPの小林康夫教授、新ブルガリア大学/ベルリン芸術大学のボヤン・マンチェフ教授、ソフィア大学のダリン・テネフ准教授を中心に組織されたこのシンポジウムをきっかけに、両大学の若手メンバーのあいだで次なるシンポジウム開催の構想が持ち上がった。そして、ソフィア大学のカメリア・スパソヴァ氏と筆者のあいだで、それぞれが強く関心を寄せるトピックについて議論を重ねた結果、今回の「崇高と不気味なもの」というテーマが設定される運びとなった。
3月2日(月)の開会セッションでは、筆者が“Materialist Aesthetics: Bourriaud, Harman, Rancière”と題する講演を行なった。この講演は、現代の芸術理論におけるひとつのパラダイムを画したニコラ・ブリオーの『関係性の美学』(1998)と、それに対するジャック・ランシエール、グレアム・ハーマンからの批判や応答を二つの対立軸として、今日の芸術理論における「物質」と「形式」の対立を超えたマテリアルな次元――そのひとつの源泉が、ルイ・アルチュセールによる「偶然性の唯物論」ないし「出会いの唯物論」である――を明らかにしようとしたものである。本講演は、先述のボヤン・マンチェフ氏との昨年来の研究交流を踏まえ、同氏が昨年11月のウィーンにおける講演で発表した“Aisthetic Materialism”というアイディアに対する応答をひとつの目的としたものである。講演後の質疑応答では、マンチェフ氏の明敏なコメントに続き、会場からもさまざまな質問が寄せられ、筆者にとってきわめて充実したセッションとなった。折しも、ソフィア市美術館では「変革のための芸術(Art for Change)」というブルガリアの現代美術をめぐるグループ展が開催されており、講演でも言及した今日の芸術と政治の関係について、具体的な話も交えつつ議論ができたのは幸運だった。
3月3日(火)と4日(水)の午前には、それぞれ「崇高」と「不気味なもの」をめぐるワークショップを組織した。これは、参加者全員がカントの『判断力批判』(1790)とフロイトの『不気味なもの』(1919)――それぞれ「崇高」と「不気味なもの」をめぐる最重要文献――を事前に読んだうえで、そこから導かれるさまざまな問題を自由に議論しあうという比較的実験的な試みだった。だが結果的には、双方のこれまでの研究の蓄積と事前準備が功を奏し、たんなる基本事項の確認にはとどまらない、充実した議論を行なうことができた。
二、三日目の午後は研究発表のセッションであり、ボヤン・マンチェフ氏と西山雄二氏(首都大学東京)がそれぞれの司会を務めた。報告者も、最終日の午後に“The Sublime and Capitalism in Jean-François Lyotard”という発表を行ない、リオタールの著作に伏在する資本主義への絶え間ない関心と、彼の1980年代の著作に見られる「崇高」の諸相を複数の角度から検討した。本発表については、本年1月24日に開催されたUTCPシンポジウム「新たな普遍性をもとめて」と重複する部分も多いため、関心のある向きはそちらのブログ報告を参照されたい。
実質的な滞在としては四日間少々であったが、一昨年のソフィア訪問に続き、今回も非常に充実した研究交流を行なうことができた。また、今回参加した大学院生を含め、今後も同様のシンポジウムを続けていきたい、という声が多く聞かれたのは何よりも嬉しい反応だった。本シンポジウムの開催に尽力してくれたカメリア・スパソヴァ、ボヤン・マンチェフ、ダリン・テネフの三氏をはじめ、すばらしい歓迎によってわたしたちを迎えてくれたソフィア大学のすべての方々に感謝したい。
ソフィアでの恵みの春の到来
今回、ソフィア大学を訪れたのは二回目である。ダリン・テネフ准教授の招待により、2013年9月に映画「哲学への権利」上映/討論会をおこない、カタストロフィに関する講演をさせていただいたことがある。前回ブルガリアを去るとき、もう一度ここに戻ってきたい、という感覚を強く抱いた。ブルガリアの研究者や学生との豊かな学術交流が実に刺激的だったからだ。
参照:http://www.comp.tmu.ac.jp/nishiyama/droitphilo/pg224.html
今回の国際会議「崇高と不気味なもの」では、きわめて魅力的な二つの概念が問われた。「崇高sublime」はバークやカントによって美との関係において規定され、「不気味なものDas Unheimliche」は主にフロイトの精神分析的解釈やハイデガーの存在論的分析によって考察されてきた。双方とも主体性、すなわち、主体の(自己)情動に深く関係しており、物体に内在するたんなる対象として把握することはできない。また両者はむしろ悲劇に結びついており、幸福な結末には必ずしも帰着しないようにみえる。
今回は若手の助教らが核となって企画され、それが功を奏してかなり自由な雰囲気だった。ロンギノス以来の崇高の系譜学をめぐって博士論文を書いた星野太氏と、不気味なものをめぐる連続セミナーを実施してきたソフィア大学のKamelia Spassova氏らが牽引役になっていたので、きわめて水準の高い議論が展開された。海外での合同シンポジウムとしては稀に見る大成功となった。
拙発表「世界の終わりの後で――晩年のジャック・デリダの黙示録的語調について」では、晩年のデリダが言及した「世界の終わり」の分析を試みた。彼は晩年、パウル・ツェランの詩「大きな、赤熱した穹窿」末尾の詩行「世界は消え去っている。私はあなたを担わなければならない」を何度か引用し、自身の解釈を展開している。この詩行では、世界への別離とともに宣言される誓約が互いに異質な文で構成されている。それは世界が消失したという事実確認であると同時に、他者を担う約束と義務の行為遂行である。ともすれば黙示録的な響きのするこのツェランの詩行とともに、晩年のデリダはどんな「世界の終わり」の光景を思索したのか。他者への応答、世界の自己破壊、生きものの共住の世界という異なる三つの場面に即して考察を試みた(日本語版は、『思想』No.1088、2014年12月号、での同名の論考を参照されたい)。
滞在中、ブルガリアの方々の歓待は素晴らしく、深夜の空港での出迎え、テネフ氏の自宅でのパーティー、最終日の名残惜しい打ち上げなど、最初から最後まで親密な交流ができた。これまで築き上げた高水準の交流を今後も維持していきたい。お世話になったブルガリアの方々、とりわけKamelia Spassovaさん、Darin Tenevさん、Boyan Manchevさんに謝意を表明しておきたい。私たちが滞在した6日間、ソフィア市に春の気候が到来し、快晴の気持ちよい日が続いた。人文学の知(sofia)への恵みの春はこうした国際交流の積み重ねによって私たちに到来するのだ。