【報告】L2プロジェクト「共生のための障害の哲学」第1回研究会
2012年6月26日、上廣共生哲学寄付研究部門L2「共生のための障害の哲学」プロジェクトの第1回研究会が開催された。発表者の稲原美苗氏は、オーストラリアでの大学時代、担当教員から、「どうして障害について研究をしたくないのか」と問われる経験をしたという。障害について研究することに反発する自分自身の経験をもとにして、稲原氏は、「では、障害とは何か」と考えはじめる。そして、今回の発表タイトルでもあり、稲原氏の博士論文のテーマともなった「障害とアブジェクシオン」という独自の考察へとたどり着く。
稲原氏自身、脳性まひという障害とともに生きているという地平から生み出された思索は、身体が不自由であるという障害自体がスティグマとなるのではなく、個人の身体の不自由さについて、社会がどのような意味づけをしているのかが問題だという、障害学における重要な問題提起からはじまった。障害についての社会的な意味づけは否定的な意味あいを帯びていることが多いが、そうした否定的な意味あいが付与されるのは何故かという問題については、これまで障害学では充分に検討されてこなかった。そこで、稲原氏は、障害を持つ当事者の内面に生じる現象について、ジュディス・バトラーやジュリア・クリステヴァらのポスト構造主義の思想を用い、障害をアブジェクシオンとして捉えるという独創的な視座から障害をめぐる文化理論を構築してきた。
稲原氏によると、アブジェクシオンとは、社会的・文化的に抑圧した負の部分、おぞましいと思われている部分を体現した不気味なもののことである。また、そこで放り出されるアブジェクト(abject)とは、主体(subject)と客体(object)との中間に存在し、常に流動的で把握できない微妙な存在のことを示す。ここで重要なのは、その不気味なものを何故嫌っているのか、当事者の感情に入ってくる前に閉め出され、覆い隠されてしまい、当事者の認知の中にすら入らないという点である。自らの障害を見つめていることを自分自身ですら抑圧してしまうが、同時に、障害のことをどうしても見つめざるをえないのである。つまり、障害を持つ人にとって、障害とは、嫌悪を抱くと同時に、その全容を捉え損ねたまま、常に自身に回帰し続けるものということになるだろう。
では、何故、障害者と健常者の区別がつけられるのだろうか。死や病気や障害など、社会的・文化的な世界において、放り出しておきたいようなおぞましい物事と直面したときに、人々は恐怖を感じる。その恐怖に対して、「私はこんなもの見たくない」と主張して、人々は確固たる主体を確立しようとするが、同時に、見たくないものを見ないようにするという否認のそぶりそのものが、そこにおぞましいものがあることを認めるそぶりでもあるのだ。障害者へと向けられる視線は、完全に把握できる対象として客体化することはできないまま、主体とも客体ともつかない曖昧な状態のものへと向かってなされるため、完全に把握しうる対象にはなりきれない障害をそれでも見つめざるをえない状態に置かれる。障害というアブジェクトを認識することは恐怖なので、私たちは、認識から障害を閉め出したいが、まさしく、そうして、自分とは関係ないものとして否認するそぶりこそ、障害が自らにも及ぶ可能性を認めるそぶりでもあるのだ。人は自分の中に存在する他者を最も恐れるが、まさに、自分の中にも障害が存在するかもしれないということが確認される瞬間がアブジェクシオンの過程には含まれているのだ。
稲原氏は、小さな頃、「ET」という映画を見た時に、クラスメートにからかわれた経験について回想しながら、当初、捉えそこなった自らの経験を捉えなおす試みとして、「障害とアブジェクシオン」という研究を行ったという。そして、稲原氏は、何故、障害を恐れるのかという問いに、まさしく、誰もが障害のある状態になりうるからこそ、人々は目をそむけているのだというひとつの答えを見出す。長い時間をかけて組み立てられた文化理論によって、稲原氏は自らを捉えて離さない問題について今後も格闘していくだろう。
今回の研究会においては、10名ほどの参加者を得て、活発な議論を進めることができた。そして、これまでの学問において当然とされてきた基準自体を問い、当事者側から発言をすることによって、障害概念や障害学自体も変わっていくということや、今後、さまざまな領域の専門家や当事者との協働が必要であることが確認された。稲原氏は、本プロジェクトにおいて、7月28日(土)に、発達障害の当事者研究を続けている綾屋紗月氏、脳性まひの当事者で小児科医の熊谷晋一郎氏とともに障害学を開くためのシンポジウムを行う。今後、稲原氏がさまざまな領域の研究者と協働することが期待される第一回研究会となった。
(報告:岩川ありさ)