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【報告】村上靖彦氏連続講演会「行為の生成・治癒の論理――現実触発への二つの応答」

2011.03.04 石原孝二, └イベント報告, 原和之, └イベント, 佐藤朋子, 中澤栄輔, 科学技術と社会, 精神分析と欲望のエステティクス

2010年10月9日、村上靖彦氏(大阪大学)の連続講演会「行為の生成・治癒の論理——現実触発への二つの応答」が東京大学駒場キャンパスにて開催されました。

 エマニュエル・レヴィナスを中心とした現象学研究から出発された村上先生は、現在、医療現場でのフィールドワークを踏まえて、現象学と精神病理学(精神分析)を、テクスト分析と臨床実践の双方から架橋する作業を精力的に行っていらっしゃいます。先生の多様なお仕事について広くお話いただくため、本講演会は、UTCP中期教育プログラム「科学技術と社会」(代表:石原孝二)および同「精神分析と欲望のエステティクス」(代表:原和之)の共催の形で行われました。また、精神分析の専門家として、精神科医の十川幸司氏をコメンテーターにお迎えしました。本講演会には学外からも大勢の方にご参加いただき、活発な議論が交わされました。

 以下は、両プログラムの参加者による2本のご講演の報告です。


★第1部★ 看護研究を行為の現象学として読む―西村ユミ:目の光とひっかかりの時間性

 2010年10月9日に村上靖彦さんの連続講演会をおこないました.村上さんは現在,大阪大学に所属.自閉症の現象学といった分野でのお仕事でよく知られていますが,今回のおはなしは最近取り組んでいるという「看護について」そして「精神分析について」です.
 この連続講演会はUTCPのふたつの中期教育プログラム「科学技術と社会」と「精神分析と欲望のエステティクス」の共同企画です.実はこうした複数のプログラムによる協同というのはあまりこれまでやってきませんでした.このあたり,今回はちょっとしたブレイクスルーなのです.

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「看護」がどのようにして村上さんの研究テーマになったのでしょう? 同僚でもある看護師の西村ユミさんとのであいと西村さんの看護師としての当事者研究がその機縁になっているとのこと.

 ここで引用することはしませんけれど,西村さんの経験,およびその経験の記述はとても「なまなましい」ものです.かんたんに,「医療現場における患者と看護師のコミュニケーションには常に困難がつきまとう」と述べるだけではすまされないような「なまなましさ」ですね(もしご興味がありましたら,西村ユミ「交流を形作るもの」『講座生命6』河合文化教育研究所.また,西村ユミ『語りかける身体』ゆみる出版.などをご覧ください).なにか,コミュニケーションのありのままの姿が西村さんの体験をとおして浮かび上がってくるような気がします.

 こうした西村さんの体験によりそいながら現象学的な考察を行なおうとしているのが村上さんです.この場合の「現象学」というのは純粋な(?)現象学ではなくて応用現象学といえるようなもの.でも,村上さんは「応用現象学こそ現象学そのものなのだ!」と言います.わたしたちの日常に与えられている事象に取り組むということこそが現象学の要点なのだということです.村上さんの言葉「現象学とはとりくむ事象に『巻き込まれて』いなければ成り立たない学問なのだ!」.これは印象的であり,含蓄があります.

 わたし自身の関心からすると,村上さんが考えるような現象学のありかたと「自然科学」の方法論の関係が気になります.ちょっとだけ引用させていただくと村上さんは「フッサールの言葉を借りると,判断とは異なる水準で何がしかの明証性Evidenzを持つ.自然科学が捉える『客観性』という意味でのエビデンスとは異なる,自然科学が捉えることのできない対象への研究者の巻き込みによって生じるエビデンスである」(今回の資料から)と述べていました.うーん.「巻き込みによって生じるエビデンス」.なかなか魅力的でありつつ,さらなる熟考をうながされるような言葉ではありませんか.

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 村上さんのおはなしの具体的な内容についてここで細かくご紹介することはしません.みなさん,村上さんの論文を読んでみてください.なにかが伝わってくるような「熱い」文章です(村上靖彦「原視線触発―自閉症の基本構造についての現象学的仮説」『精神科治療学』25(12)、2010が今回のおはなしの内容に一番近いでしょうか).ただ,メモ的に気になった言葉だけ挙げておきます.目の光.ごっこ遊び ≒ 超越論的テレパシー〔超越論的ってなんだろう,むかしから得意ではない言葉です〕.引っかかり.(文責 中澤栄輔)

★第2部★ 秘密とその未来―ウィニコット・ラプランシュ・ドルトとコミュニケーションのねじれ

 第二部では原和之(UTCP事業推進担当者)が司会をし、十川幸司氏にコメンテーターとしてひきつづきご登壇いただいた。冒頭、村上氏のほうから、精神分析的文献の読解を通じて現象学的記述にとって有用な概念を生産するというご自身の研究のスタンスの紹介があった。つづいて村上氏が展開した本論は、タイトルに挙げられた三人の精神分析家の仕事を参照しながら、いくつかの観念や問いをあらたに導入しようとするものであった。それと同時に、先に導入した「空想身体」の問題を掘り下げて象徴構造の埋め込みと作動の詳細な記述への路を開こうとするという点で、第一部との連続性をはっきりと示すものでもあった。

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 村上氏はまず、フランスで活動した2人の分析家、J.ラプランシュとF.ドルトの理論を、コミュニケーションという観点から提示した。ラプランシュの「一般誘惑理論」は初期フロイトの誘惑理論を一般化して、「大人による性的に未熟な乳児の養育」という状況を根本的なものとして措定する。それは、乳児が、養育を通じて、欲求を満足させるための世話だけでなく無意識的な性的欲望をも親から受け取るという状況であって、その措定とともに、親から発される謎のメッセージ、乳児によるメッセージの翻訳の試み、意味を欠いた感覚刺激の沈殿としての翻訳の残余、無際限に続く再解釈の運動という一連の問いが開かれる。ドルトは「死の欲動」の観念の練り直しを通じて、ある種のコミュニケーションについて、はるか後にまで及ぶ影響を問題化するよう促している。ドルトにとって、死の欲動の作動はかつてのコミュニケーションの結果として起き、また、主体が各発達段階で獲得したはずの象徴構造(各発達段階のコミュニケーション様式)の停止を意味しているのである。
 講演で中心的にとりあつかわれたのは、イギリスの分析家D.ウィニコットが報告しているある中年男性のケースである。幼い頃母親に女児として育てられていたことが分析を通じて明らかになり、それをきっかけにして以降治療が進展したというそのケースを村上氏は引用とともに呈示した。ついで、先に導入したラプランシュとドルトの知見を2つの補助線として利用しながら、次を主な骨組みとするコミュニケーションの理論のなかで引き受けなおした。

 そもそも、空想身体(身ぶりの型に導かれながら個々の行為において発現するそれ)を介しての伝達には2つの側面がある。相手の身ぶりの型に応じての私の身ぶりの型の成立というそれと、他者の視線による反射のなかでの私の身ぶりの型の把捉というそれである。もっとも、第一の側面は第二の側面を前提にしており、そのかぎりにおいて、視線触発を媒介として象徴構造が埋め込まれるという基礎構造をここで考えることができる。
 さて、中年男性のケースにおいて提示された、歪んだ伝達とその後の影響の問題は、次のようにまとめることができる。養育の時間において象徴構造の齟齬があり、基礎的視線触発の水準でねじれが生じる。ウィニコットとの治療において、日常生活では自覚されたことがなかった象徴構造の齟齬が、分析家の空想身体を利用することで再現され顕在化するにいたる。と同時に、そのときまで死の欲動が作動していて、象徴構造のマヒあるいは作動の不全が起きていたことが明らかになる。そしてウィニコットによる解釈(よって言語化)に続く時間においては、「気分が悪い」という言葉で言い表されることになる一時的な情動変調が患者のうちに生じる。情動はここにおいて、空想身体を舞台とする現実触発と象徴構造の作動の交差によって意識と身体に残された痕跡として生じている。
 当該の事例における「女の子」の象徴構造は注目すべき特殊性を示している。象徴構造が、埋め込まれ、(個々の行為における空想身体の発現を導くという形で)作動しうるものをいうとして、ウィニコットとのあいだでのみ問題になりえたその「女の子」の象徴構造は、養育を通じて無理矢理埋め込まれたものの、ある契機が到来するまで作動したことがなかった象徴構造であるといえる。その特徴的な作動については3段階を記述することができるだろう。第一に、作動停止の段階がある。第二に、作動しはじめて他の象徴構造との齟齬、ただし意識化の手前において、行為化や心身症状、情動のレベルで表れるそれをひき起こしている段階がある。第三に、知覚的空想たる治療の場で作動し、象徴構造間のもろもろの齟齬とともに演じられている段階がある。

 村上氏によれば、今回の講演を通じて用意した概念装置は、ラプランシュが呈示しているそれと同様に、コミュニケーションの本質構造のうちに謎の伝達という現象を位置づけるものである。と同時に、ラプランシュのそれとは異なり、性のみが謎となるという限定を設けないのであって、そのかぎりにおいて、より一般的な仕方で謎の伝達や病的なコミュニケーションの問題を考える可能性を切り開こうとするものである。(なお村上氏は、ご自身の議論が定型発達のケースを想定したものであることを講演のあいだ幾度か強調しており、また、次に報告する十川氏とのやりとりのなかでは、環境因と生物学的要因に関するご自身の見解を具体的に述べていた。)

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 講演ののち、まず十川氏にコメントをいただいた。十川氏は、村上氏が読解の対象にした文献に万遍なく注意を払いながら、それらの背後に横たわる精神分析的探究の蓄積を喚起した。ロゾラートやギヨタなどフランスの他の分析家もまた「non-dit(言われぬもの)」や「秘密」という問いを立ててきたこと、ラプランシュの理論においては成人と幼児のあいだにある非対称性に重心がおかれていること、臨床家たちによる「死の欲動」という観念の再錬成が、幼児分析という実践に由来するある特定の文脈でしばしば行われてきたこと、今回とりあげられた事例についてウィニコットの実践が他の分析家のそれに比して高く評価されるのは、解釈の内容そのものよりも解釈の仕方、つまり、遊び演じることを通じてその内容を明るみに出したという点においてであること、等の指摘があった。最後の点に関連して、ウィニコットによる表現は村上氏の記述に比してより言葉のリアリティというものをもっているのではないだろうかという感想を十川氏は述べ、分析のディスクールと現象学のディスクールの差異を指摘した。それに対して村上氏は、自分はあくまでも現象学者であるという自己規定と同意とで応えた。その応答はまた、十川氏が喚起したような精神分析領野での先人たちの仕事との関連でご自身の仕事をより明確に位置づけるものであったと言うことができるだろう。
 続く全体での質疑応答でも活発な議論を聞くことができた。村上氏の応答は終始直截であった。その場で即答しうる問いのうちにまじる、今後さらに開発しうるだろう問いを標定してゆくところでも変わらない明晰さと手際の良さは、そのなかでもとりわけ印象的であった。氏は、「空想身体」についてフッサールやリシールの名を、「象徴構造」についてフッサール、メルロ=ポンティ、カストリアディスの名を挙げながら概念の来歴を解説した。後者についてはさらに、問題意識のレベルでソシュールやレヴィ=ストロースの仕事が考慮されていること、また、語の選択という点で、「身ぶりの型」や「行為の型」、「スタイル」と同様に、現時点では必ずしも決定的ではないことを補足した。フロイトやラカンが問題にした、母親の不在という、生き延びてゆく上で必ず乗り越えていかねばならない出来事がどのように氏の理論のなかに組み込まれるかという質問に対して、氏は、その出来事が、基礎的視線触発と(第一部の議論の中心をなしていた)超越論的テレパシーの二つのレベルの分節化において取り扱うのが適当な問題であると述べるとともに、それがさらに掘り下げるべき問題であることを自ら指摘した。遺漏を免れえないことをお断りした上で、質疑応答で出てきた多岐にわたる論点のなかからさらにいくつかを書き留めるならば、村上氏が呈示した観点から「シニフィアン」のラカンによる定義を再解釈する可能性、同じ観点から「情動」についての現象学的思考を再錬成する可能性、現象学的記述に対して精神分析的な概念としての「欲望」が示す抵抗、ウィニコットにおけるジェンダー論的観点の不在、コミュニケーションの生起の確証(あるいはむしろ、そうした確証という問いを立てる可能性)というそれがあった。
 最後の論点に関連して村上氏は、確証というレベルで証拠あるいは証明(evidence)を求めることができない現象が人間のコミュニケーションの本質とも呼ぶべき部分に見出されるという見解を呈示し、それを現時点までに氏がたどりついた結論のひとつとした。やや個人的な感想になるが、村上氏によるその整理は、第2部の講演の締めくくりに氏が言及したラプランシュの理論と氏の理論の差異をあらためて明示するためにも重要でありうるだろう。参考のためにここで喚起したいのは、ラプランシュの試みが、(子どものそばにいたいという言葉で言い表されうる、近接性への傾向によって標づけられた)性的な欲望を母親のメッセージについて端緒から措定することを通じて、基本的人間学的状況と呼ばれるものの理論化へと近年向かっているという状況である。ひるがえって村上氏は、上に報告したように、メッセージの内容を性的なものに限定することに留保を付している。氏のその留保は、実際、また、なによりもまず、ラプランシュが差し出すものに比して「認識論の言語」という観点からしてより繊細であり、コミュニケーションの曖昧さという問いにも開かれているという意味でより柔軟な理論を錬成する可能性に通じているように報告者には思われた(なお、「認識論の言語」という言葉は村上氏の講演から借用したものである)。(文責 佐藤朋子)

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