【報告】北京大学学術交流会
2010年1月10日、ICCT(国際批評理論センター)をニューヨーク大学、北京大学、華東師範大学そして東京大学の間で立ち上げる準備として、北京大学で会議が開催された。
午前の懇談会では、北京大学の蒋朗朗氏の司会のもとで、北京大学常務副学長林建華氏、ニューヨーク大学の張旭東氏、小林康夫UTCPリーダーがそれぞれスピーチをおこない、現在までの共同研究・共同教育の成果を踏まえて研究者間の交流をいっそう密にして、今後の共同研究の発展を期した。
東京大学の計五人の研究者が研究発表を行ったが、以下、簡単に発表内容を紹介する。
まず、小林康夫氏は「東アジアの批判」と題される基調講演を行った。小林氏によれば、批評が問おうとすることは、歴史における具体的な、そのつど他のものに還元不可能な特異な(主体的な)事実の歴史的な「意味」なのである。つまり、特異性そのものの「意味」であり、それが「真理」である。批評は歴史の外の「安全」な位置から歴史を扱うのではなく、それが問いかける対象(作品、人間、事象、出来事など)と自らの「現在」の間に「歴史」という道を切り開くことなのである。つまり「歴史の真理」は対象の歴史性と批評の「現在」の間にこそあるのであり、批評そのものが歴史の生成、「歴史の真理」の、「歴史の真理」からの生成にほかならないのだ。
小林氏は、1920年代から1930年代にかけて、世界の異なった文化圏におけるそれぞれ典型的とも言える「批評」の三つの事例、すなわち、ベンヤミン、魯迅、小林秀雄が批評というものをどういうふうに考えたかを考察する。ベンヤミンはその批評の立場を明らかにするマニフェスである「ゲーテの「親和力」」において、作品における事実内容と真理内容とが時間の経過とともに分離してくることを指摘し、この分離を通じて、そこでは隠されている真理内容を問うことが批評の使命であると言い切る。真理内容は、まさに実践的な「道徳世界」の「真理」であり、別の意味に回収されない「真理」である。それはすべての道徳を打ち砕いてなお輝く最後の「道徳」としての「希望」であった。
魯迅が語るのは、血で書かれた歴史と墨で書く批評との残酷な対立にほかならない。「希望」ではないものの、幾重にも積もる青年の血の中に、息もできぬほどに埋められていた魯迅は、筆墨を以て文章を綴ることによって、わずかに泥の中に小さな穴を掘り、そこから喘ぎながら、いつか再び地下に埋められた青年たちについて語る日を待ち受ける場所を開くのだ。
日本における近代の批評を確立した一種の「父」とも位置づけるべき小林秀雄については、その極めて短い、しかもインパクトを持つ批評「当麻」を分析しながら、小林秀雄の批評は、近代的な歴史を「美」、しかも具体的な「古典」の美(たとえば、能の面)によって否定し、批評が「骨董主義」に陥ってしまい、それは「歴史」の美学化にほかならない、と指摘した。以上の議論を踏まえて、批評の可能性をめぐって考えてきた小林氏は、「批評、希望の暴力」と暫定的に結論づけた。
山田広昭氏は「日本における近代批判言語の誕生:小林秀雄とヴァレリー」と題として発表を行った。近代日本における「批評」という新しいエクリチュールの誕生に際して極めて重要な役割を果たした小林秀雄の批評を考察し、その特徴を二点に絞って提示した。その第一は、彼の批評のもつ強い「主観性」である。小林の批評は「宿命の主調低音」や「自意識の化学」といったいくつかの「小林語」とでもいうキーワードを駆使して、作品の具体的な分析をほとんど経由することなく、一気に作者の創造の場面へと跳躍して語っていたものである。このような「主観性」はフランスの詩人、ボール・ヴァレリーから受けた影響は決定的なものであった。第二点は、そのパセティックといえる文体であり、その行文が保っている強い倫理的な調子である。小林の批評家としての出発は1920年代後半から30年代の初にかけて、文学界、思想界に大きな影響力を持っていたプロレタリア文学とマルクス主義の理論と対決することにあった。彼は自分にとって何よりも大切な「この私」が、常にすでに「社会化された私」、「関係性の束としての私」であることを十分意識して、「文芸批評」をその実践の場として政治と社会を論じた。日本の近代批評が独特の倫理性や悲壮感をもつ小林の批評を出発点として持っているということは、その後の日本の言説空間で「文芸批評」ならびに「文芸批評家」が果たした傑出した役割を理解する上で極めて重要なポイントとなる。
続いて清水晶子氏は「クィア理論とローカルな政治:クィアな時間と再生産をめぐって」という題目で発表を行った。クィア理論の担い手として注目されたジュディス・バトラーの研究を分析しながら、フェミニズム・クィア理論の特徴を「批判とは何であるか」という問いと関連させ、さらに東アジアのコンテクストにおいて捉えようとした。批評は対象に向けて行われる判断ではなく、固定化された既成の観念に対する異議申し立てであると同時に、それを乗り越えようとする新たなる地平への可能性の提示である、と言う。一方、日本におけるフェミニズム・クィア理論の現状をローカルとグローバルとのネゴシエーションという視点から考察した。
中島隆博氏は「批判的中国哲学のために」と題して発表を行った。戦後日本の中国哲学研究を代表する二人の学者、溝口雄三と島田虔次を取り上げ、「近代」との関連において、両者の描く中国像を検討した。中島氏によれば、溝口の言う「方法としての中国」は、中国の独自性によって西洋近代を検証し直したが、しかし中国の思想的・哲学的遺産を批判可能な言説体系としてその限界・矛盾・破綻に対する指摘なしに、「もう一つの近代」を中国に見出そうとした態度は、中国近代の思想的格闘を単純化することで、もう一つの「中国なき中国研究」に至りかねない、とする。これに対して、島田は中国思想に「もう一つの近代」ではなく、西洋近代に匹敵する、普遍性への要求に貫かれた「近代」を見出すことで、それを普遍的に問うことが可能になるとしても、その先に西洋近代を批判し、併せて中国「近代」を批判しなければ、結局現状肯定に終わってしまう、と指摘する。これらに対して中島氏は、中国哲学を通じた批判の可能性は、その哲学的可能性を追求した上で、限界や矛盾そして破綻を指摘することにあり、その方法は同時に、西洋近代への批判となるはずである、と提言した。
最後に石井剛氏は「批評としての漢学、漢学における批評:経、史、解釈の生成と主体」を題として発表を行った。石井氏は、清代に流行した知の態度と方法論を指す清代漢学を取り上げた。清代漢学は道徳・政治に関連する問題を展開することにあまり関心を持たず、むしろ、経典に対する文献学的研究に偏って、経典のもとの姿を復元することに力を注いでいたので、経典に対する実証主義的研究であり、考証学(考拠学)とも呼ばれた。そのためか、中国哲学通史や思想史は、いずれも清代漢学を哲学から除外している。しかし、このような漢学評価が実際には、漢学の意義を狭隘化している、その結果、「中国哲学」の秘めている可能性を極めて限定してしまっているのではないか、と石井氏は疑問を示し、清代漢学の中で最も重要な人物である戴震を例として、漢学のテクストの内部においてそれを叙述する主体をいかに発見していくのかという問題を論じた。
講演後の質疑応答において、まず張旭東氏は総括・コメントを行い、他方会場からは研究者や学生の方々によるそれぞれ知的刺戟に満ちた質問が発せられ、活発な議論がかわされた。本年8月に第二回目の会議が同じく北京大学で開催される予定である。より濃密な内容の議論が繰り広げられることが期待される。
(文責:喬志航)