【報告】ジュディス・ハルバースタム教授講演会・ワークショップ "Global Female Musculinities"
2009年11月26、27日の両日にわたり、南カリフォルニア大学教授のJudith Halberstam氏をお迎えして、UTCP主催としてはおそらく最初のものとなる、明示的にクィアをテーマとした講演会 ”Global Female Masculinities” および、関連テーマによるディスカッション・ワークショップが開催された。
主著Female Masculinity 以来、ほとんど一貫して、トランス男性やブッチ・レズビアン、さらに(それらと交錯する形での)人種的マイノリティなど、非ヘゲモニックなエンボディメントから男性性を問いなおし続けてきたHalberstam教授だが、これらの考察を貫く中心的な形象であった「トランス男性」が、クィア・スタディーズのグローバル化がもたらす理論上/政治運動上の問題が急速に焦点化されてきた9/11以降においていかに成立しうるのか、あるいは変更を迫れるのか、という事が、今回の講演の中心的なテーマであった。
講演内容は大きく3部にわかれ、まず、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』における議論がトランス理論としての側面を持つことがあらためて確認された後、9/11以降、バトラーの主張が「人間」から排除された存在の問題に焦点化する中で、そもそもヘゲモニックなジェンダー化にこそ常にすでに忍び込んでいるのだとされていたはずの「トラブル」が、トランスやインターセックスなどの身体へと局所化され、これらの生が「生きられないunlivable」ものになる要因として名指されているのではないか、という批判がなされた。
Halberstam教授は、続いて、このようにトランスの生を「生きられないもの」とする枠組みとそれにまつわる議論そのものが米国というローカルな場におけるクィア・スタディーズの問題設定である事を指摘し、これを無批判にグローバルに拡大して、「トランスの生きられなさ」について、あるいは「トランス」という存在の承認の問題について議論することはできず、米国以外でのローカルな場におけるdifferently genderedな存在に対しては、安易に「トランス」という概念を適用する事なく、それぞれの生をとりまくジェンダーとセクシュアリティ、婚姻や家族の制度などを広く念頭に置いた上で、それらの「異なるジェンダー」のあり方について考察していかなくてはならない、と主張した。
最後にHalberstam教授は、これらの多様な要素の相互関係の中に位置づけられる「異なるジェンダー」において、その「生きられなさ」やそれに対する抵抗などが、いかに人種、国境、経済階層や労働市場などのつくりだす境界線とその「越境」という問題と切り離せなくなりつつあるのかを、Unveiled, The Aggressives, Paper Dolls という三本の映画を通じて紹介し、それらの「生きられなさ」を「トランスジェンダリズム」へと還元する事の危険性をあらためて指摘して、講演をむすんだ。
初期バトラーをトランスジェンダー理論として再読し、ジェンダー・トラブルを「人間」の外部に設定しかねない近年のバトラーの立論を批判する第一部に明らかなように、Halberstam教授の議論の中核に常にあるのは、トランスジェンダリズム、とりわけFtMTG(トランスジェンダー男性)の形象を、ローカルな時や場を超えたほとんどユニヴァーサルな理論的射程を持つものとして打ち立てようとする意思であり、これは教授のこれまでの著作にも明確に主張されているものである。今回の講演は、このいわば普遍性を指向してきた自らの仕事と、近年のクィア・スタディーズおよびアクティビズムにおける「グローバル化への抵抗とローカリティーの尊重」の流れとの間で、教授自身が今後の方向性を見極めようと苦悩しているかのような印象を残すものであった。とりわけ第二部において、トランスジェンダリズムという概念を安易に米国の外へと当てはめる事を主張しつつ環太平洋地域において米国と共通する「トム・ボーイズム」が広く見られる点に着目すべきだと語ったり、米国における人間主義的な主体を無批判に保持した安易な多元主義を戒める反面、米国以外において従来のジェンダー多様性のあり方が批判されている時、それが米国流〈ユニヴァーサル〉・トランスジェンダリズムの模倣ではなくローカルな文脈での様々な制度的な権力構造批判にかかわっている可能性の検討はなされなかったり、という〈矛盾〉が見られたのは、この理由によるところが大きいだろう。しかしまた、Halberstam教授の主張が、NPO/NGOなどの活動を通じて「米国的な人権運動」への適応度合いに従って各地の性的少数者への支援の度合いや難民申請の認められやすさに差がついており、その結果、各地でのローカルな歴史や文化とは無関係に米国流の「アイデンティティ」が押し付けられる事態が生じている、という事実に基づくものである点を考える時、これらの〈矛盾〉が、その解消に向けた思考がなされるべきでものはあっても、少なくともその思考の途上において、都合よく覆い隠したり黙殺したりすべきものではないということもまた、明らかである。
ただでさえ容易に結論が出るわけではないこれらの問題を、米国からの研究者を日本の大学に迎え、英語を主要言語として議論するという、それ自体特異な制度的条件の重なり合いのもとで検討することになったわけで、講演の質疑応答においても、翌日のワークショップにおいても、すぐれてポストコロニアル的な、言語の問題やローカル/ユニヴァーサルの不均等な割当の問題が、繰り返し話題に挙がったのは、当然の成り行きであっただろう。その議論の中でこれらの問題が簡単に解決されたわけでは勿論ないが、地域的な/言語的な/学問上あるいは活動上の、多様に〈ローカル〉な背景から繰り出される議論相互の噛み合なさや矛盾と、それと同時に微かに認められる共通の問題意識との、困難かつ重要なネゴシエーションは、まさしく現在のクィア・スタディーズが直面する最重要課題のひとつであり、それをまざまざと体感することができた事は、時に〈日本〉(および〈日本語圏〉)の中に閉じこもりがちな傾向を見せる現在の日本のクィア・スタディーズにとって、きわめて有意義な経験であったといえよう。
なお、末筆ながら、当日お越し頂いた多くの聴衆の方々、今回の講演およびワークショップの開催にあたって企画段階よりご協力をいただいた津田塾大学のクレア・マリィ准教授、UTCP関係者の皆さま、そして勿論、刺激的な議論を提供して下さったJudith Halberstam教授に、あらためて謝意を表したい。
(報告/超域文化科学・清水晶子)