【報告】「ファンタジーの再検討」第4回研究会「暦の問題を通して近代の古今集理解を問い直す」
UTCP短期教育プログラム「ファンタジーの再検討」の第4回研究会の報告を掲載いたします。
正岡子規による称揚以来、近代日本文学は万葉集を最高の古典とみなし、またしばしば実作の模範ともしてきた。こうした態度が所謂「文学的・美学的」問題と並んで国民国家形成という時代の要請に強く規定されていたということは近年広く認識されつつあるが、他方で、この万葉の対照項として極めて低い評価を与えられたのが古今和歌集である。特に、その最初に置かれた在原元方による年内立春の歌(「年の中に春は来にけり一年を去年とや言はむ今年とや言はむ」)は、暦に関する単なる「知識」を弄ぶ「集中の最も愚劣な歌」(和辻哲郎)とさえ言われ、それがまた古今集全体の性格と水準の低さを代表するかのようにも語られてきた。しかし、子規以降半ば常識化したこうした理解は、暦というものの技術的・政治的さらには形而上学的本性とそれらを前にしたこの集の「選択」の意味を全く見落としている。
古今集時代すなわち貞観4(862)年以降に朝廷が用いた唐の宣明暦は、太陽と月の独立した二つの運動を共に基準とする太陽太陰暦であり、個々の月・年の長さの決定や置閏法といった運用は極めて複雑で、しかもしばしば政治的な介入をも蒙っていた。つまり暦とは、単なる「知識」どころではない高度な技術的・政治的構成物であり、また大変複雑で不安定なものであった。古今集冒頭の歌で問題となっているのは、年を構成する月の周期と春を規定する太陽の運行の間にはいかなる本質的な相関も見出すことができないという認識とそれを前にした深い訝しみ、つまり暦そのものに対する根本的な居心地の悪さなのである。
そしてこれ以後の日本的文明は、800年以上に渡って暦を改めず、世界理解の不安定さと人心の惑いを克服することを放棄し、むしろそれを実存の根本条件として積極的に引き受けた。このことを見事に示しているのが、他ならぬ古今集、とりわけその冒頭に配された数首の春歌なのである。そこでは、超越的な暦の圏域を離れ、五感に触れられる限りの現(うつつ)に徹底して内在するという選択と覚悟がはっきりと表明され、また同時に、冒頭で示された「宙吊りの戸惑い」を「現の地上性」の内へと置き移しかつ全面化する過程が示されている。人は、いずれ不十分なことには違いない暦に示される抽象的な時間の厳密さを下手に追求するよりは、むしろ地上の諸現象が示す時の不確かさという現実をこそ我が身の置き所とすることになった。そして、この「こと・わざ繁き現」への内在は期せずして、しかしまた必然的に、現の分身としての「夢」を引き寄せ、偏在化し、両者は分かち難くなる。ここに「ファンタジー」の存在と意味を巡る問いの根幹が潜んでいることは明らかであろう。実際、この「夢うつつ」の境がやがて「妖艶」や「幽玄」として美学的に自覚化・理論化されることになるわけだが、こうした内在性と言語(とりわけ詩歌)の問題に関しては、むしろ江戸後期の国学者・歌学者である富士谷御杖の論が注目される。
「万葉的」とされる心情の直接性と共同体・自然の超越性に偏した近代日本の思想・文学は、この諸現象が織り成す差異たちの只中に内在するという「古今的な」倫理の本質と可能性を一貫して見落としてきたと言わざるを得ないのだが、しかしだからこそ、私たちには改めて問うに値するものが未だ豊富に残されているのである。
文責:串田純一(東京大学大学院)