【報告】石原孝二「科学技術リテラシーと「合理的」市民参加―共生の知の哲学に向けて―」
今年度より北海道大学から東京大学(科学史・科学哲学)に赴任され,本月よりUTCPの新たな事業推進担当者ともなられた石原孝二氏のUTCP着任講演が行われた.
氏自身が述べたように,今回の講演は氏の考えを積極的に打ち出すというものよりも,問いと背景知識を共有することに主眼が置かれたものとなった.当日の話題は主に以下の二つにまとめることができる.
1. 科学技術への市民参加の実践と理論
2. 社会的合理性の成立基盤
まず,科学技術への市民参加の歴史と様々な実践形態,また国内外の具体例やそこにおいて市民参加が推進されている動機やその手法が紹介された.そしてそうした市民参加に関する理論的分析と評価方法,解決すべき課題などについて先行研究をまとめられた.
次いで,市民参加に関するこうした諸点を踏まえた上で,氏は市民参加が社会的合理性と相俟って論じられている現状に焦点を当て,「社会的合理性とは何か?」という問いを提示された.氏はリスク論の文脈で議論を展開され,その言をまとめれば,おおよそ次のようになる.社会的合理性は,(1)科学がもつ合理性(科学的合理性)に基づいたリスク・アセスメントに対比され,(2)目的・価値・決定にいたる手続きなどを,その社会がおかれた文脈を踏まえた上で考慮に入れており,(3)そうした上でリスクを評価・査定する(assess)際に発揮される,というものである.
こうした氏の講演を受けて幾つもの論点が提示され議論が飛び交ったが, その内の一つ,私自身関心をもった論点を紹介しておきたい.それは,UTCP拠点リーダーでもある小林康夫氏による興味深い指摘に端を発したものであった.小林氏の指摘は,「社会的合理性」という言い方にそもそも問題はないのか,というものであった.科学技術のみならず市民参加一般は,いわゆる社会的な合意を形成するために政府などによって用いられている.しかしそうした市民参加は合理性に基づいているのだろうか.ひょっとしたら単なる非合理な合意(consensus)である可能性もあるのではないか.そしてもしそうだとしたら,「社会的合理性」という言葉を用いることには(別の意味で)リスクがあるのではないか.すなわち,「社会的合理性」という言葉を用いることでその合意が合理的なものであったことになり,その結果社会からのいわば「お墨付き」が与えられてしまい,政策への支持の表明として利用される可能性が生じる,というリスクである.それだから,市民参加が「合理的」であることはどういうことであり,何が(誰が)担保するのかという点を考えなければならない.この点について石原氏も問題意識を共有しており,議論が大いにわき起こった.
石原氏の今回の講演において,この論点を含め議論になったことは参加者全員が持ち帰ることとなった「お土産」と言って良いだろう.以前私は,市民参加の政治性と倫理性という二つの観点からこの問題を考察したことがあり,そこでの私は市民参加を「生の自己決定」と捉えて考察していた.しかし,今回の講演と議論を通じて,さらに考えるべき点などに気付かされ,今こうして報告を書いていて,私自身ずいぶんと重たいお土産を頂いた気がする.とはいえ,重たい分だけ味わい深いものとなるだろう.この美味しいお土産を吟味し,さらにその先に進むにUTCPはふさわしい場である.そうした新たな動きが生まれることを期待しつつ,本報告を終える.
(文責:立花幸司)