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【報告】水俣訪問(後半)

2022.08.30 梶谷真司, 宮田晃碩, 山田理絵, 中里晋三

(前半はこちら

 永野さんの用意して下さったプランでは、さらにチッソ水俣工場前、百間排水口、水俣湾埋立地(エコパーク水俣)を午前中にめぐる予定であった。

 「水俣湾埋立地(エコパーク水俣)」と書くのは、ここが漁師たちから、いや所有権などというものを知らぬ魚たち、生き物たちから奪われ、浚渫した泥と水銀に侵された魚たちを詰めたドラム缶で埋め立てられたその歴史を忘れぬためである。またチッソ水俣工場前とは、水俣駅を降りた正面にあって、たびたび座り込みが行われ、漁師たちの打ち入りもあった場所である。あたかも城の堀のような水路によって隔てられたその門は、たしかに何の変哲もない工場の入り口だが、よく見れば「テロ警戒中」という看板が掛かっており、その「テロ」とは一体何を念頭において言うのかと、呆然とさせられるのであった。これらも永野さんが念入りに資料を用意してくださっていたが、時間の関係で私たちは、「水俣病の爆心地」である百間排水口を見にいった。

 そしてあんた、だれでん聞いてみなっせ。漁師ならだれでん見とるけん。百間の排水口からですな、原色の、黒や、赤や、青色の、何か油のごたる塊りが、座ぶとんくらいの大きさになって、流れてくる。そして、はだか瀬の方さね、流れてゆく。あんたもうクシャミのでて。〔…〕
 あん頃の海の色の、何ちいえばよかろ、思い出しても気色の悪か。ようもあげんした海になるまで、漁に出てゆきよったばい。何かこう、どろっとした海になっとった……。いったい、あん頃、何ば会社は作りおったっですか。どべのゆたゆたしとる海ば、かきわけてゆくと舟もどべで重かりよったです。気色のわりい品物ば流しよったばい。
(石牟礼道子『苦海浄土』)


 水俣病の原因物質は、アセトアルデヒドを生成する過程で副生するメチル水銀である。このことは今でこそ広く知られているが、排水はそればかりでなくセレン、タリウム、マンガン等を含み、これらの重金属もまた中毒症状を引き起こす。これが原因究明を遅らせた要因のひとつであるが、それらも当然人々の健康に影響を及ぼしているはずであり、水俣病は複合汚染を疑わねばならない、と原田正純医師は指摘している。ともかくチッソは、何が含まれているかもろくに調べぬまま、排水を放出していた。汚泥の厚さは4mに達するところもあったという。

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※百間排水口。その正面は埋め立てられ、小さな竹林が広がっている。

 ここには「一番札所」と刻まれた石碑と、排水口の方向を見据えたお地蔵様がある。その視線のさらに先にはチッソの工場があり、はるか先に阿賀野川がある。阿賀野川のほとりには水俣の石でつくられたお地蔵様があって、阿賀野川の石でつくられたこちら側のお地蔵様と、向かい合っているのだという。この「兄弟地蔵」をめぐっては、阿賀と水俣の浅からぬ縁がある。

 公害関連年表、といったものを見ていると、不思議な事実に気づかされる。熊本の水俣病の公式確認が1956年、新潟水俣病の公式確認が1965年となっているのに対して、熊本の水俣病の1次訴訟が提起されたのは1969年6月と、新潟水俣病1次訴訟1967年6月にちょうど2年遅れているのである。この期間は、水俣においてどれほど「水俣病」がタブー視され、潜在的・顕在的患者たちが抑圧されてきたのかを物語っている。1959年12月に「見舞金契約」を結ばされ、そのなかで「将来水俣病がチッソの工場排水に起因する事が決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行なわないものとする」とされ、さらに「明るい水俣」キャンペーンのために声を奪われてきた患者たちが訴訟へ向けて動きだしたのは、むしろ遅れて発生した新潟水俣病の患者たちに励まされてのことであった。新潟の患者たちは、水俣から闘争支援のために送られたカンパを使って、水俣を訪問したのである。長年にわたる彼らの沈黙に非などあるはずもなかったが、「俺たちが黙っとったけん、新潟で同じこつが起こったとじゃなっか」と彼らは重い足を引きずって立ち上がったのであり、その連帯の印がこの兄弟地蔵なのである。

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 ここが「一番札所」となっているのは、「自主交渉派」のリーダー川本輝夫さんが水俣の八十八ヶ所にお地蔵様を建てようと目論んでいたからである。実際のところ二番以降は建てられていないのだが、現在ご子息の愛一郎さんが、なにやら企てておいでだという。

 その後私たちは相思社を訪問した。ここでは相思社職員たちが、訪れる人々の相談に乗っている。『みな、やっとの思いで坂をのぼる』という永野さんのご著書のタイトル通り、急な坂を登ったところに相思社はあって、集会・宿泊棟、宿泊棟、事務棟、資料室、第二資料室、考証館の六棟からなる。

 集会所は広い畳敷きの部屋で、その一隅に、ご位牌が何段にも並べられた仏壇がある。患者さんたちのほか「土本典昭」と書かれたご位牌もあって、聞けばこの映画監督は戒名でなく俗名で、とご本人が希望されたらしい。また小壁には遺影を抱えて俯きがちに行進する人々や、コートを羽織りめいめいに前を見据える人々の写真がかけられている。それぞれ第一次訴訟の口頭弁論後に熊本市のアーケードを行列する写真、熊本県議会議員の「ニセ患者」発言に対して抗議に向かう患者たちの写真である。それらの解説を伺いながら、私たちは冷たい緑茶をいただいた。水俣には在来茶があって、それをご用意いただいたのだった。「ここに遺影をもって写っていらっしゃるのが、さっきお会いした方のお母さんですよ」などと聞くにつけ、どこか「お話のなかの出来事」と思い、それゆえに無遠慮な共感もしてきたものが、不意に戸惑いに変わるように思える。「怨」と染め抜いた黒旗を掲げる行列は圧巻だが、そのようにして世間に現れねばならないことは、当然ながら当人たちにとっても異常事態であり、不本意なことに違いなかった。

 水俣訪問の主な目的であるトークイベントは、考証館に付属したミュージアムショップのスペースで行われた。その詳細は、別立ての記事で紹介されるはずである。私たちは現地で参加したが、事前に登録した方たちに向けてZoomで配信するものだったから、同じ内容のことは実際に集まらずとも、オンラインのみでできたのかもしれない。ただその場に居合わせた私たちの実感として、そこでの話は、それまでの時間とそれからの時間に密接に組み込まれていたし、また外の日差しや眼下に覗く不知火海、蟬の声といったものと響き合うものであった。「こえを聴く」というテーマでの伊藤さんと永野さんのお話は、「こえ」が決して人間、いわんや個人で完結するものなどではなく、語り合う私たちを受け止めるもののなかで聞き取られるものである、ということを、水俣の自然と一緒になって伝えるものであるように思われた。そのような時間を私たちは過ごした。

 相思社の裏手をさらに登っていくと、かつて畑だったという空地に、楠の大木が根を張っている。そこから振り返ると不知火海に夕日がさして、対岸の島まで刻々と移り変わるグラデーションになっているのだった。海の上ではもう天草の山並みに日が隠れただろうか、と想像しながら、私たちは沈みゆく太陽に別れを告げて坂を下った。

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 夕食は「アマンド」という喫茶店でいただいた。ここは石牟礼道子の夫、石牟礼弘さんの行きつけだったらしく、彼が書いたという「ブレンド」「ピザ」「カプチーノコーヒー」といった木の札が店内にかかっている。どれひとつとして同じ時刻を指していない骨董めいた時計がいくつもあり、文字通り時を忘れさせてくれる。実際のところ随分遅い時間だったが、それにもかかわらず豪華な喫茶店メニューを振る舞っていただいた。

*  *  *


 三日目は午前中に「水俣ダイビングサービス SEA HORSE」の森下誠さんにお話をうかがい、海中ライブ中継をしていただく予定になっている。この日も朝のうちに時間があったため、張先生が希望者(梶谷先生と私)をレンタカーに乗せて、何ヶ所か案内してくださった。今回が初訪問のはずだが、張先生はあたかも現地ガイドであるかのように各所を紹介される。実は二日目の朝に、資料館も含めてあちこち下見されていたのだという。

 二日目に行くことのかなわなかった埋立地を私たちはまず訪れた。その外縁は恋路島に向けて開けており、美しい「親水護岸」になっている。石畳風の護岸は階段状になっていて、潮の満ち引きに応じて水面下に隠れたり、現れたりする。その階段にもところどころ傾斜がついていて、小さな渚になったところには、健気なビナ(小さな巻貝)がたくさんしがみついていた。

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 ここは本当に美しい。しかし美しいだけに、いたたまれない思いがする。私がいま立っているここは、本来海の上であった。

 そら海の上はよかもね。
 海の上におればわがひとりの天下じゃもね。
 〔…〕
 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。
 これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。
(石牟礼道子『苦海浄土』)


 水俣の「再生」を願う心を否定することはできない。しかし毒に汚染された魚たちの骸の上にきれいな公園をつくり、「恋人の聖地」と名付けてモニュメントをつくり、「認定」された患者のみを名簿に納めた「慰霊碑」をつくり、いったい再生とは何であろうか。そもそもの「生」はどれほどの深みを持っていたのだろうか。そのことを思うとき、失われたものの計り知れなさに、私は立ち尽くす。そして、抑圧され続け、忘れられまいとしてきた生の方に、わずかでも接近したいと思うのである。

 埋立地の北側は、もともと「明神崎」が恋路島に向けて西に突き出していたところである。その小高くなった、もとの岬の上に水俣市、熊本県、環境省がそれぞれ運営する資料館ないし研究センターが立地している。埋立地からその丘を北側へ越えると、そちらには自然の海岸が残されている。降りてみると、石牟礼がこの海を「椿の海」と呼んだわけが納得できる。ここらは黒っぽい岩石層が剝き出しになっていて、しぶとく根を張った照葉樹が海面にさしかからんばかりに枝を伸ばしているのである。大きな波の寄せない岩場では、カニに追われて舟虫が岩の割れ目に逃げ込んでおり、遠くでは漁船が不知火海を横切って、どうやら朝の漁から帰るところのようだった。

 「ダイビングサービス SEA HORSE」は、海岸線をさらに北側へ辿っていった湯の児と呼ばれるところでダイビングのガイドや、海中の様子のライブ中継を行っている。市街からは一山越えてゆかねばならないが、ここも古くからの温泉街である。白砂を敷いた海水浴場があり、干潮時に陸続きになる湯の児島へは吊り橋がかかっている。橋の上から海中を眺めると、なにかの稚魚が群れをなして光っていたり、フグらしき魚が一匹で泳いでいたりするのが見える。「サップ」と呼ばれる、サーフボードのような板に立ちオールを使って漕ぐというマリンスポーツの一団が、ちょうど背中を見せて海へ出てゆくところであった。この日も2台のレンタカーで移動していた我々は、指定の場所を行き過ぎてしばらく海を眺めていたが、やがて気づいて森下さんたちの準備してくれていた場所に辿りついた。護岸の上に、運動会で使うような白いテントを設営し、大きなモニターを用意してくれている。海中にカメラを持って潜り、そこからの映像を中継で、このモニターに映し出すのである。

 そこには既に二名の先客がいた。夜中のうちに潜っていて、「ヒメタツ」の繁殖行動を観察していたという。SEA HORSEが特に力を入れているのが、2017年に新種登録されたヒメタツという小さなタツノオトシゴの観察、撮影なのである。タツノオトシゴは独特の繁殖行動をとる。オスの腹部には育児嚢と呼ばれる袋があって、メスがそこに卵を産みつけるとオスは受精させて孵化まで抱え込み、60日ほどすると稚魚の状態で子どもたちを放出する。この放出行動を「ハッチ」ないし「ハッチアウト」と言い、メスからオスへの卵の受け渡しを、森下さんはその形状から「ハート」と呼んでいる。その夜はどちらも観察することができたという。

 ダイビングスーツに身を包み、酸素ボンベを背負って大型の水中カメラを抱えた森下さんが、海中へ続く階段を下りてゆくと、モニターにはすぐに海藻やサンゴ、魚の群れが現れた。音声も繫いでくれていて、いろいろと質問に答えてくださる。まだ成魚になりきらないイワシの群れや、タイの稚魚。それらは陸の上からも、きらきら光って見えていた。「そのイソギンチャクは何ですか」と尋ねたのは、実はサンゴの一種で「エントウキサンゴ」というものだった。砂地の海底にはハゼの仲間もいて、エビの巣穴を借りている。「魚があまり逃げないみたいですね」と聞くと「もうずっと潜っているので信頼関係があるんです」とのこと。魚たちが本当に個人を見分けているかは定かでないが、おそらく海中での作法のようなものがあって、森下さんはそれを身に付けているに違いないと思われた。そしてそれは、幼い頃から水俣の海を泳いでいた森下さんの、一度は地元を離れて働いていたとはいえ、どのようにして海が自分を迎え入れてくれるのかを知っている、その信頼によるものではないかと思われた。

 ヒメタツはすぐには見つからなかった。昼間には海藻に隠れていてじっとしていて、なかなか姿を見せない。しばらく探して、海藻をそっとかき分けると、そこにオスのヒメタツがいた。育児嚢が膨らんでいて、稚魚の尻尾がわずかにのぞいているようである。帰ってくる間にもオコゼや小さなウミウシが見つかる。こんなに次々に出会えるものかと目を丸くしているあいだに、森下さんは上がってきた。

 「水俣」といえば暗いイメージも拭えないが、再生しつつある海の美しさを多くの人に知ってもらいたい。そういう思いで森下さんは潜り続けている。とはいえ海中の環境はひとえに良くなっているというわけでもない。温暖化の影響でかつては生息していなかったサンゴが定着していたり、ウニの一種ガンガゼが増えたことで「磯焼け」の被害が出ていたりする。また森下さんは海から上がってくるときに「エギ」と呼ばれるイカ釣りのルアーを拾っていたが、特にコロナ禍で釣り人が増え、こうしたものがサンゴを折ってしまったりするのだという。問題のスケールがあまりに大きいと手に負えないが、しかし地道な取り組みもなされている。例えばガンガゼによる被害については、その殻を肥料にしたり、またガンガゼ自体を魚に食べてもらったりといった取り組みが紹介された。

 なかでも興趣を誘ったのは、『風の谷のナウシカ』の話題であった。この作品に登場する「腐海」は、実は水俣の海に着想を得ているのだという。森下さんは、いずれあの「王蟲」が来訪者を歓迎するようなテーマパークが、水俣の名所にならないだろうかという希望を語った。

 私のなかに、戸惑いがないではなかった。失われた自然や生活は、元に戻るわけではない。それを「再生」と言ってよいものなのか。当然、部外者である私に容喙する資格などなく、きっと地元の人たちの、様々な立場において背負ってきた思いの方が、それについては語るべき物語がある。私はただ、それをもっと深く知りたいのかもしれなかった。「再生」という言葉が本当は何を意味しているのか、意味しうるのかを。失われたものは戻らない。それでも、生き続けているものに目を向けないわけにはいかない。海は繋がっているから、生きものたちは思い出したようにまたやってきて、そこで生きようとする。サンゴや海藻が根を下ろし、そこに隠れる魚たち、それを追う魚たち、藻を食べるウニやウミウシがやってくる。そこには「事件」など知らぬ生きものたちがいた。彼らはすべてを回復してくれるわけではない。彼らが乗ってくる海流は、その反面、汚染が広がっていった道でもある。しかし再生というものがあるならば、それは人間が作り上げるものではなく、そうした大きな流れにいまいちど繋がれ直すことでしかありえないのではないか。そこに本当の「和解」や「救済」の手がかりもあるのではないか。こうしたことは未だ夢物語のようで、私の言葉は熟さない。しかし水俣には「夢」と「現」とをつなぐ通路があって、そこかしこに顔を覗かせているようにも思われるのである。

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※海から上がってくる森下さん


 市街に戻り、昼食を「酔仙食堂」という昔ながらのちゃんぽん屋でいただいてから、私たちは再び相思社を訪れ、前日にゆっくり見ることのできなかった水俣病歴史考証館を見学させていただいた。ここには水俣の海の暮らしを伝える漁具が展示されていたり、チッソ工員の制服や「猫400号」の実験小屋、水俣湾の埋め立てに用いられたドラム缶が展示されていたりする。また「怨」の字を染め抜いた旗や患者たちの寄せ書き、石牟礼道子の自筆原稿などもある。患者に送り付けられた誹謗の葉書などもある。ここにはあらゆる「表現」が凝集していた。

 このとき案内してくださった相思社職員の葛西さんは、高校生の時に『苦海浄土』を読み、四十歳くらいの時に東京でサラリーマンを辞め、心のどこかに引っ掛かっていた水俣に移り住んだのだという。それ以上の個人史は伺わなかったが、ここにはたしかに、人のためというより、自分自身の存在の根を求めて辿り着くなにものかがある。葛西さんにとって、展示物の解説はもう慣れた何十回目、何百回目のことかもしれなかったが、東京から来た私たちがそこで出会ったことは、なにか不思議な再会のようにも思われた。

 相思社に戻ってきた理由のひとつは、山田さんが青山学院大学で担当されている「共生の社会学」の授業をここから遠隔で行うためであった。ちょうど「病」を扱う回にあたり、せっかくだから水俣病に関することを水俣から伝えようという趣旨である。受講生には永野さんの『みな、やっとの思いで坂をのぼる』を事前に読んでもらい、寄せられた質問にはゲストスピーカーとして授業に登壇された永野さんが答えてくださるという、贅沢な授業であった。もちろんそこには患者さんの現在が描かれているのだが、授業での報告は私たちの見た水俣の美しさに及び、また開け放った窓からは盛んに蟬の声が入ってくる。それはイメージのなかの「水俣」ではなく、現在の水俣を伝える時間であった。伊藤さんの飛行機の時間もあり、何人かは先に空港へ向かったのだが、私はただ講義を聴きたいと思って残っていたのである。

 最後に「折角だから」とコメントを求められると、私は思わず饒舌に話し出していた。「当事者でない身で、どのように患者の方々に向き合えば」といった質問があり、私はそれに共感したのだが、一方でその問いが水俣に身を置いた感覚とどこか食い違っているようにも思われたのである。概ね次のようなことを語ったように記憶している。

 ――水俣の町を歩けば、たしかに水俣病患者の方々とすれ違っているだろう。ただ当然、「この人は水俣病患者である」という印を掲げているわけではないから定かには分からないし、分かるべきでもないと思う。「患者」となった人は、なによりもまず自分と同じ一人の人間であって、その多層的・多面的な経歴のなかに、水俣病が侵入しているのだ。そこから出発すべきであるように思う。「患者」というラベルがなくとも、私たちは互いに「非当事者」であり、かつまた「当事者」である。公害に第三者はいない、とは宇井純の言だが、私たちはどうしても具体的な関係のなかで出会い、語り合う(あるいは黙し合う)ほかはない。それがいかなる関係であるのかを見定めねばならない。それが、実際に水俣に身を置いて私の思ったことであった。

 「いかなる関係なのか」を考え直す機会というのは、そうあるものではない。「水俣」と「東京」。「地方」と「都市」。その言葉が既に、暗黙の尺度を持ち込んでいる。それを問い直さねばならない。逆転のごときものを狙わねばならない。ある距離のもとで出会うことから、むしろ出会いによって尺度をはかりなおすことへと。私たちが相思社を去るとき、集会所では長崎から来たという大学生たちが、かつてチッソで働いていた工場技術者のお話を聞いていた。宿泊棟にはちょうど、「居候制度」で泊まりに来たという学生が到着したところだった。ここには、既成の尺度を攪乱する磁場のようなものが働いている。その磁場に後ろ髪を引かれながら、私たちは水俣を立ち去った。帰路にはもう雨が降らなかった。

*  *  *


 3日間の水俣訪問はかくして幕を閉じた。短い滞在ではあったものの、一時かぎりの経験というよりはむしろ水俣からの眺めに馴染んでゆく旅路であり、それは帰京後にも続いているような気がする。今後、個人的にもUTCPとしても、水俣との縁が深められればうれしく思う。このようなかけがえのない旅が実現したのは、何より現地を案内して下さった永野三智さん、大阪から来てくださった伊藤悠子さんのおかげである。記して感謝申し上げたい。

(報告:宮田晃碩)

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