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【報告】水俣訪問(前半)

2022.08.30 宮田晃碩

 UTCPではこの5年間、様々な分野で活動し思索する方々をゲストにお招きして、「共にいること、共に生きること、共に創ること」を追求する〈哲学×デザイン〉プロジェクトを続けてきた。その第35回となる「痛む人々のこえを聴く」は、大阪の伊藤悠子さんと水俣の永野三智さんをゲストにお迎えし、熊本県水俣市を訪問して行われた(イベントの案内はこちら)。実際には永野さんが現地を案内して下さったので、UTCPの方が迎えていただいた形になる。それに併せて私たちは、前後3日間にわたり水俣を巡ることとなった。その様子を記しておきたい。

 東京から参加したのはUTCPの梶谷真司先生、山田理絵さん、中里晋三さん、秋場智子さん、本報告を書いている宮田晃碩、そしてEAA(東アジア藝文書院)の張政遠先生、地域文化研究専攻の建部良平さんの7名。UTCPの〈哲学×デザイン〉プロジェクトとは別に、EAAでは2020-21年度にかけて「石牟礼道子を読む会」を開催しており、かねてより水俣訪問の念願があったのである。池島香輝さん(人文社会系研究科欧米文化研究専攻)も「石牟礼道子を読む会」のメンバーで参加予定だったのだが、当日体調不良で来られず、残念であった。しかしまた行く機会があればと心から思う。もとより2月に予定されていたイベントが、新型コロナウイルス感染症の流行状況を踏まえて6月に延期されたものであったが、それぞれに期待を膨らませて訪れた夏の水俣は、その美しさと、計り知れない思いの深さで我々を虜にしたのである。

 おおよその旅程は次のとおり。25日(土)、阿蘇くまもと空港にて伊藤さんと合流し、レンタカーで湯の鶴温泉へ。しばらく旅の疲れを(前もって?)癒し、周辺を散策したのち、水俣市街のホテルで永野さんと翌日の打ち合わせ。26日(日)は永野さんの案内により、乙女塚にお参りして塚守をされている砂田エミ子さんにご挨拶し、茂道および湯堂地区を見学。昼食ののち百間排水口を見てから水俣病センター相思社へ。オンライン配信のトークイベントの後、市街の喫茶店で夕食。27日(月)は湯の児にてダイビングサークルSEA HORSEの森下さんにお話を伺いながら、海中の様子を同時中継で見せていただき、昼食ののち再び相思社へ。あらためて考証館を見学ののち、数人は留まって山田さんのオンライン授業に同席してから、帰路に就いた。

*  *  *


 初日は空港からの出発早々、とんでもない土砂降りに見舞われた。遊園地のアトラクションさながらに水を撥ね上げる車内は、天井を叩く雨音で、声を張らねば互いの言葉も聞こえない。道路が通行止めになったりしないかと不安もよぎったが、後で伊藤さんは「あの雨も身を清められるようで、水俣へ向かうのに相応しいと思って」と語られていて、なるほどそういうことかと得心するような雨であった。

 湯の鶴温泉は水俣市内にあるが、港を中心に発展した市街からは、水俣川の支流である湯出川を15分ほど車で遡った山中にある。不知火海に山々がそのまま浸ったような水俣の地形は、それだけゆけばもう霧深い隠れ里のような趣で、鶴が湯あみに訪れたという伝説が残っていたりする。着くころには常識的な雨に落ち着いていた。

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※温泉宿の裏には湯出川が流れている


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※「ほたるはし」と名付けられた橋。湯出集落から湯出神社をつなぐ道になっている。


 そこを訪れたのは、永野さんから「いいお湯です」と勧められたことに加えて、もうひとつ理由があった。作家の石牟礼道子が、水俣の市街から湯の鶴温泉までをつなぐ道のことを語っているのである。

 「私の家は、道を作る家でした」。石牟礼は天草の生まれで幼い頃に水俣に移住しているが、天草には石工の伝統がある。石牟礼の祖父、吉田松太郎はチッソの築港も請け負っており、そのために一家で水俣に来たのである。どうやら湯の鶴温泉までの道もその松太郎が拓いたらしく、かつて「道を拓く」というのがどれほど華やぎに満ちたことであったかを、石牟礼は語っている。それを「花の道」と呼ぶのである(NHK「こころフォトに寄せて」)。

 道路は既にきれいに舗装されて、「花の道」は過去の話である。それでも川の向こう岸に黒っぽい石を積み上げて造られた棚田が現れたりすると、道が拓かれ人馬が行き交うようになるめでたさは感じられる気がする。

 温泉に浸かりながら、話しかけてくれた地元の方に聞いてみると、未舗装だったときのことを覚えていらっしゃった。とはいえ特に「花の道」という意識はなく、砂利道で大変だったというお話。生活者の実感としては、舗装されて自動車が通れるようになることが、「道が拓ける」ということなのかもしれない。かつては各家庭に風呂などなく、共同管理のこの浴場に通っていたのである。どこから来たのかと問われて「東京から」と答えると、納得して「じゃあ、水俣病のことで」と尋ねられる。

 我々は「はい」と答えるほかないのだが、そう優しげな目尻をして尋ねる彼らとのあいだに、どれほどの距離があることだろう、と思わざるを得ない。それともこんなことは思い過ごしだろうか。半日にして飛び越えてきた東京からの距離を、私は未だ徒歩で渡りかねているように感じた。多少は熊本弁を聞きなれた耳も、さほど役には立たなかった。

 湯の鶴温泉からさらに上流へゆくと、頭石(かぐめいし)という変わった名前の地区がある。どうやら岩が重なって帽子を被った恰好のものが川の中にあり、それが由来になっているらしい。湯出川は大きな石がごろごろしていて、雨で濁った水をはげしく撥ね上げていた。またこの辺りには「山の神さん」を祀る祠があって、そこには昔から珊瑚や海の石など「海のモノ」を供えていたという(水俣市ホームページ「頭石地区紹介」)。

「川の神さんな、たしか、山にも登んなはっとじゃもん」
 囲炉裏に、手のひらや膝をくべるようにして集ってきて、川祭の頃、年寄たちがよく話す。
〔…〕
 川の神さま方は、山の神さまでもあって、海からそれぞれの川の筋をのぼり、村を区切って流れる小さな溝川に至りながら、田んぼの畔などを、ひゅんひゅんという声で鳴きながら、狭い谷の間をとおってにぎやかに、山にむかっておいでになるが、春の彼岸に川を下り、秋の彼岸になると山に登んなさるという。
(石牟礼道子『椿の海の記』)


 石牟礼が「海と山と川と暮らしが、不可分のものとしてそのように続いていた」と書いているのを私は思い出していた。特に探すでもなかったが、その祠は見つからなかった。しかし散策していると、小さな水路に幾重もの苔や草、花がさしかかり、カニが遊んでいるのに出会う。新しい道をそれてみると、人の生活とそうした動植物とがさりげなく交わり合っている。そういう暮らしの中に、祠もきっと佇んでいるのだと思われた。

 夕方にホテルで永野さんとお会いし、翌日の打ち合わせをする。永野さんはツアーのための解説資料まで作ってくださり、私たちは日曜日にそれを持って回った。といっても行く先々で人々のお話を聞いていたら、五か所予定してくださったうちの三か所を巡るに留まったのだが。しかしそれもフィールドワークの醍醐味であり、そのような時間が過ごせたことはなによりの幸福であったと思う。

 打ち合わせとは言いながら、私たちは気づくと相思社のお話を伺っていた。永野さんたち相思社職員は、水俣病の認定申請をはじめとする様々な相談に乗っている。そこに来る方のなかには、「自分も水俣病ではないか」と言い出せずにきた人も多い。ある女性は相思社に来るたび、亡くなった妹さんのことを語っていたという。永野さんはそれを繰り返し聞いていた。ところがある機会を境に――歌と踊りの好きだったその妹さんのために、大阪からチンドン屋まで呼んできて、皆で祈りを捧げてから――その女性は自分のことを語り出したのだという。まるでずっと背負ってきたものを降ろしたかのように。「相思社とはどういう場所なのだろうと考えたとき」と永野さんは言う。「安心して忘れられる、そのための場所になりえるかもしれない」。過去を忘れたい人、忘れたくない人、忘れさせたい人、忘れられない人……その解きほぐしがたい時間のなかを、私たちは差し覗いていた。

 夕食は「がんぞー」という居酒屋に行った。たまたま予約していたのが永野さん一押しのお店で、特に刺身がお勧めとのことだった。残念ながらその日は魚の仕入れが少なかったらしく「おさしみ大好きコース」はできなかったのだが、「おまかせコース」は刺身も含め、すべての料理が美味しかった。そこで伺った伊藤さんのお話は印象的だった。高校生のときの家出を「ありがちな話ですけど、ちっとも大事なことを教えてくれないので失望して」と事もなげに言いながら、それから展開されるエピソードは、なかなかありきたりではない。ただそのエピソードはひとつひとつが、生きようとする人間の本当のエネルギーを求める伊藤さんの、切実な思いを表していて、今に至る伊藤さんの活動の根底にあるものに触れる思いがした。その「放浪」とも言えるストーリーは、永野さんとの共通点の一つである。

*  *  *


 日曜日は午前10時の集合まで時間があったので、私はホテルから住宅街を通り抜け、水俣大橋を向こう岸へと歩いていった。橋の上から河口を望むと、その先に天草の島々が青く横たわっている。前日からは一転、晴れて暑い。石牟礼道子がこの辺りに住んでいたはずだと、「猿郷」とおぼしき地区を歩きながら、特に目的地もなく、草刈りに汗を流す人々に挨拶を返す。永野さんによれば、水俣には「水俣病」について語りたがらない人も多く(それはもっともなことだ)、石牟礼に対しても複雑な思いを抱く人が多いという(もちろん、相思社を訪れる人たちのように語りたい人、語ろうとしている人たちもいるし、永野さんをはじめとして、石牟礼の著作のみならず石牟礼さんその人を敬愛している人たちも少なくない)。私自身は街中で、石牟礼道子を記念するものは見つけられなかった。徳富蘇峰・蘆花の詩碑や記念碑はある(それはそもそも世代が古いからかもしれない)。ここにもありうべき断絶がある、と思われた。しかし石牟礼が描こうとしたもの、あるいは石牟礼の「創作」の原点は何かと考えるならば、ひょっとすると水俣そのものが、形を変え続ける生きた記念碑なのかもしれなかった。いまでは石牟礼邸を残そうという動きも始まっているらしい。水俣の「記憶」を綴った作家を、私たちはどう記憶していくのか。それは一面的な「評価」で片付けられない問いである。

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※水俣川河口を望む


 集合してから二台のレンタカーに分乗して、まず案内していただいたのは鹿児島県との県境を流れる「神の川」のすぐそば、「乙女塚」である。伊藤さんの提案で、出発してすぐ市街の花屋に立ち寄る。出来上がった花束には薄紫色のベロニカが添えられ、さわやかに優しく見えた。車でゆく道すがら永野さんが、ここは月の浦、ここは出月、ここはユージン・スミスとアイリーン・スミスの滞在していた患者宅、と案内してくださる。はじめのうちはこの贅沢なガイドを一方の車内で独占していたが、途中で気づいて、携帯電話での中継を行うことにした。県境を越える手前で左手の藪の中を登っていくと「乙女塚」はある。

 乙女塚とは、胎児性水俣病患者の上村智子さんをはじめとして、若くして亡くなった乙女たちを弔うための塚である。俳優の砂田明さんが建立したもので、智子さんの遺品が納められている。毎年5月1日にはここでささやかな慰霊祭が行われ、同日に水俣湾埋立地(エコパーク水俣)の「水俣病慰霊の碑」前で、水俣市長や熊本県知事、環境大臣、チッソ代表など錚々たる顔ぶれで開催される「水俣病犠牲者慰霊式」とはある種の対照をなしているのだという。一段高く設えられた「乙女塚」の手前には、沖縄出身の彫刻家、金城実氏による母子像と、水俣病市民会議会長の日吉フミコ氏の建立した「不知火海の水銀汚染を悼む」と刻まれた碑がある(日吉フミコ氏は『苦海浄土』にも登場し、石牟礼は彼女に「純情正義主義」という尊称を献じている)。いまは竹藪が繁っているが、かつては海を見晴らす場所であった。時折「肥薩おれんじ鉄道」の通る音が聞こえてくる。私たちは花を手向けて、思い思いの場所から手を合わせた。珍しい来客に色めき立ったか、ヤブ蚊が猛烈に私たちを襲った。

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※左に石碑、右に母子像。

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※乙女塚


 砂田エミ子さんのお宅は、乙女塚のすぐ下にひっそりと構えられている。砂田明さん亡き後は、奥さんのエミ子さんが塚守をされてきたのである。砂田明さんは『苦海浄土』に心を打たれて水俣に移住してきた人で、「天の魚」の章を一人芝居に仕立て、全国で500回以上巡行上演したという。「何でもできる人」とのことで、地元の人への聞き取りをもとに、昭和20年代の水俣の鳥観図も描いている。

 突然訪れた私たちを、エミ子さんは「わざわざ遠くから」とねぎらってくれた。仏壇にお参りさせていただき部屋を見回すと、70年代からの訪問者記録や、上村家とユージン・スミスの一緒に映った写真が置かれていたりして(写真に映っていないアイリーン・スミスが撮影したものである)、ここにゆっくりと積み重なった時間を感じさせる。床柱には短冊が懸かっていて、百人一首から次の一首が書かれていた。

  あまつかぜくものかよひじふきとぢよをとめのすがたしばしとどめむ

 胎児性患者には、もちろん女性もいれば男性もいる。現代風の感覚に「乙女塚」というのはすんなり馴染まないかもしれず、実際なにか民話的な情緒を感じさせる名でもある。しかしそこには、単に「生命の尊厳」といった概念語では把握できない、ひとりの乙女の華やぎを忘れまいとする意志があるように思える。「乙女の姿しばし留めむ」という句は、智子さんへの愛をそのようにひっそりと呟いたものであるように思われた。

 再び二台の車に乗って、私たちは茂道集落、湯堂集落を案内していただいた。両地区はそれぞれ茂道湾、袋湾(湯堂湾)に面していて、その間を海に突き出て二股に広がった形の岬が隔てている。自動車で峠を越えればあっという間だが、漁船でゆけばこの岬をぐるっと回らねばならない。そんなこともあってか、両集落は互いにライバル心のようなものを持っており、永野さんやお子さんの小学校時代には運動会の地区対抗綱引きで、大人も総出で競い合っていたという。

 このあたりは発生初期からの水俣病多発地帯であり、『苦海浄土』はその情景から書き起こされている。

 年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、湯堂部落がある。
 湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。
 夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨の木や、石垣の間をのぼって、家々にきこえてくるのである。
 村のいちばん低いところ、舟からあがればとっつきの段丘の根に、古い、大きな共同井戸――洗場がある。四角い広々とした井戸の、石の壁面には苔の蔭に小さなゾナ魚や、赤く可憐なカニが遊んでいた。このようなカニの棲む井戸は、やわらかな味の岩清水が湧くにちがいなかった。
 ここらあたりは、海の底にも、泉が湧くのである。
(石牟礼道子『苦海浄土』)


 天草の島々に守られた不知火海の、さらに内側に水俣湾があり、湯堂湾(袋湾)はそのさらに奥にあるいわば三重の内海である。釣り人のいる堤防を歩いてゆくと、湖のような水面には、円形に大きく湧き出すような影が見え、それが「ゆうひら」と呼ばれる海底の泉であった。水俣湾の広範囲が浚渫(底の泥を浚うこと)され、チッソの排水口のあった百間港が埋め立てられた一方で、この袋湾は浚渫すらされていない。それゆえに海は「庭んごたる」と言われたかつての親しさを残しているとも言えるが、袋湾の海底は未だに水銀濃度が高いらしく、そのような続きの時間を人々は生きている。たまたま港に出て来ていた二人の男性と、私たちは立ち話をした。永野さんは行き交うすべての人と顔なじみになっていて、彼女を見れば人々は「みっちゃんの来らした」「誰かまた連れてきなったばい」と受け止めるのである。そんな人々と私たちを、永野さんは会わせてくれる。

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※堤防の先に波紋のように広がっているのが「ゆうひら」。

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※湯堂漁港


 ひとりは漁から帰ってきたところで、「今朝はべたなぎだったけん、そこまで行ってきたったい」と語った。「べたなぎ」とは、波ひとつない凪のことを言う。不知火海は「魚(いお)わく海」とも、「米びつ」とも呼ばれるらしい。すこし舟を出して釣り糸を垂らせば、その日の魚くらいはすぐ手に入ってしまう。それは生活の糧を得る手段というより、生きるということそのものであったろう。永野さんによれば、湯堂のある漁師は「俺がここの魚ば食って、水銀ば減らす」と語っているのだという。魚への愛着の深さは、ほとんど家族への切ない愛に等しい。「魚の汚染が疑われた時点で、漁獲を禁止していれば」といった議論もあるが(そして禁止しなかった背景には実際、補償をしぶり、工場排水が原因であることを認めようとしなかった行政の怠慢があるわけだが)、しかしそんな単純な問題ではないのだ、ということに気づかされる。海はここの人々の存在の一部なのだ。

 またひとりは、藪のかげに井戸があるというので一緒に覗きにいくと、「マムシの出るばい」「こぎゃんして跳びかかっとたい」と身振り付きで、かつてマムシを獲っていた話をしてくれた。なんでも薬だか精力剤だかにするために行商人が買っていくので、何匹も軒先に吊るしておいたのだそうである。小学生の頃には「山学校」に通っていたという。なんのことはない、学校をさぼって山に遊びに行くのをそうおどけて言うのだが、それはたしかに学校の教師などからは学びえないことを学ぶ場であったろう。石牟礼道子は、水俣の漁師たちが自らを「トウダイ(灯台)組」と、冗談の中に誇りを込めて呼んでいるのを伝えている。彼らにとって「東大組」と言えばおそらくチッソの幹部や官庁のお偉いさん、つまりは患者たちを見捨てて顧みなかった人々ではないかと思うと悄然とするが、私たちの存在は彼らのやさしさによって、そしてそのやさしさを培った海によって、許されているように思われた。去り際には、見たこともないほど大きなアジを10尾ばかり入れたクーラーボックスを、私たちは見せてもらった。そのうちの1尾は後で永野さんの食卓に上がったはずである。

 昼食は「おるがんと商店」というカフェで、各々ホットサンドやハンバーガーをいただいた。2年前にここを開いた伊藤さんは水俣出身で、大学から沖縄に出たのちアメリカやカナダへの留学を経て、水俣にUターンしてこられた方である。開放的でありながら落ち着く空間に、気づくと1時間半くらいいたのではないかと思う。

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