【報告】2016年度キックオフシンポジウム「For Dialogue in Crisis 共生の転回」
2016年4月30日、東京大学駒場キャンパスにおいて、2016年度UTCP上廣共生哲学寄附研究部門のキックオフシンポジウムが開催されました。今年のキックオフシンポジウムは、用意していた座席が足りなくなるほどの、例年に見ない大変な盛況ぶりで、UTCPの活動が広く浸透してきていることを実感するものでした。まずはじめにセンター長の梶谷真司氏からの挨拶があった後、各Lプロジェクト(L1東西哲学の対話的実践、L2共生のための障がいの哲学、L3 Philsoophy for Everyone)の発表がありました。発表の順番が変則的となったため、以下の各プロジェクトからの発表の概要についても、発表の順番に報告いたします。
第1部:L2 共生のための障がいの哲学
第1セッションは、「障害の哲学とジェンダー論」と題した若手研究者によるパネル発表であった。参加者は、岩川ありさ氏(東京大学LAP)、井芹真紀子氏(東京大学大学院)、石田柊氏(東京大学大学院)の三人であり、UTCPの筒井晴香氏が司会を務めた。
岩川ありさ氏は谷崎潤一郎の未完の長編小説『鮫人』を題材として、浅草の劇場で美少年の役を演じる人物「林真珠」にまつわるジェンダー問題を論じた。林真珠は作中の登場人物たちの間で男性であるとも女性であるとも言われ、最後まではっきりと明かされることはない。竹内瑞穂の分析によれば、『鮫人』の中で問題となっているのは林真珠のジェンダーを身体的・生物学的特徴から識別しようとする「実体的決定」であるという。しかし一方では、登場人物たちの語りは林真珠を(性別上)何者として捉えているかという点において一致しない。これは生物学的なレベルでの性別(sex)と、林真珠が何者として他者から理解されているかという「認識的決定」とは別であり、前者のレベルで一義的に性を決定することが不可能であることを示している。と岩川氏は述べた。
井芹真紀子氏は「スペクタクル化される身体」と題し、障害を能力として捉える際に生じる問題を論じた。近年、障害研究の分野では障害を「正常」に対立するものとしてではなく、むしろ一種の能力として捉える視点が生じている。このことは同時に政治的、社会的、経済的あるいは進化論的な文脈で「有用で生き残れる障害」とそうでない障害とを区別する傾向も生んでいる。高度なテクノロジーによって「人間を超えた」と喧伝される義肢のアスリートなどはその典型例である。井芹氏は、LGBTや身体障害者のイメージを向上させて「有効活用」することを目指す渋谷区区長・長谷部健の「ダイバーシティ」推進政策を例として挙げ、障害者の身体とのかかわりの変化が一方では表面的にのみ理解され、他方では国家的、経済的な文脈で利用されるという危険を孕んでいることを指摘した。
三人目の発表者、石田柊氏は、障害学がフェミニズムから受けてきた影響関係を歴史的な文脈で論じた。障害学においては身体的な意味での障害をimpairment、社会的に構成されたものとしての障害をdisabilityと区別するが、この区分はフェミニズムにおけるセックスとジェンダーの区別に影響されたものである。しかしフェミニズムにおいてセックスとジェンダーの厳密な区別が不可能であると認識されるようになったことに引きずられる形で、障害学でもimpairmentとdisabilityの境界に疑問が投げかけられるようになった。その流れから生まれたのが社会モデルと呼ばれる、あらゆる障害は社会的に構成されたものとみなす立場である。しかしジェンダー論と障害学とで決定的に異なるのは、障害者はimpairmentの水準において実際的な不便や苦痛を抱えているという点である。つまり、社会モデルは実践的な有効性に乏しいのである。同様の理由で、ジェンダー、あるいは人種差別の文脈でしばしば行われる積極的差別是正措置(affirmative action)も、障害から生じる困難に対しては不十分である。障害学において「合理的配慮」(配慮によって障害者が健常者と同じ能力を発揮できる場合には、そうすべきだとする考え)の概念が必要となるのはこれが理由である。石田氏は発表の最後に、合理的配慮の発想をジェンダーの領域に適用する可能性について言及した。
質疑応答では合理的配慮の考え方をジェンダーの領域に適用する際に生じる「コスト」という問題をどうするのか、という問いが提出され、三人の間でしばらく議論が交わされた。また会場からもいくつか発表の内容を確認する質問が出された。
今回の発表では全体的に時間が足りず、駆け足の発表になってしまったことが残念だが、発表者は三人共、障害の経験から生じる哲学的な問いを提出しており、大変興味深い内容だった。
文責:石渡崇文(東京大学大学院・UTCP)
第2部:Philosophy for Everyone
第2部のL3プロジェクトのセッションでは、京都造形芸術大学/F. PLUSの早川克美氏とUTCPの梶谷真司氏がデザインと哲学について対話を行った。生活の中から出てくる問いから哲学が生まれ、その問いから実際に形を作り出すのがデザインであるという点で、デザインと哲学は問題を共有している。
早川氏によれば、「デザイン」とは「生活に秩序や価値を提案し実現するもの、物に意味を与えること」である。人間を中心にすえたデザインの考え方において、アイデアを生み出す思考のプロセスの一般化を「デザイン思考」と呼ぶ。デザイン思考のプロセスは、1)観察・共感・洞察、2)問題定義、3)創造、視覚化、4)プロトタイプ、5)テスト、評価と改良、の五段階があり、この繰り返しによってデザインを精緻化していく。大勢の知恵を結集して問題解決に当たることが必要になっている現代において、デザイン思考は有効に働く。デザイン思考と哲学対話のプロセスは非常に類似しており、哲学対話を取り入れることでデザインの可能性が広がることが期待される。続いて梶谷氏は、哲学対話において大事なのは自分で考えること、問いを見つけ、自分の持っている前提に気付くことだと説明した。参加者自身が何かを話さなければならないような場を作ることが、デザインの哲学/哲学のデザインに繋がる。
フロアを交えた全体の議論では、デザインにおいてクライアント本人が気づいていない要望や問題を問うことと、哲学対話において参加者自身が考えることとの共通点が確認された。他にも、他者の要望に共感できるか、人生のデザイン、オリンピックの競技場やエンブレムのデザイン決定など、様々な問題について活発な議論が繰り広げられた。さらに、デザインを生み出す際の創造的飛躍のプロセスが、哲学対話においては何に相当するのかが議論になり、梶谷氏が、対話中に参加者から出てくる思いがけない意見がそれにあたるのではないかと指摘した。全体の議論を通して哲学とデザインの問題の共有可能性を見出すことができ、今後のプロジェクトの展開にとって非常に有意義な対話になった。
文責:八幡さくら(UTCP)
第3部:L1 東西哲学の対話的実践
第3部のL1プログラムのセッションでは、昨年「聖なる神学のマギステル」となられた宮本久雄氏をお呼びし、UTCPの中島隆博氏を対談相手にした、対談形式の講演を行っていただいた。
宮本久雄氏の講演テーマは、「キリスト教とアジア的共生」であった。宮本先生は、まず2007年5月の読売新聞に掲載された日本人の「利他心」に関する記事を紹介するところから始められた。ゲームに勝ってチップをもらった子供たちがどのくらいの割合で負けた子供たちにチップを分け与えるかをみることを調査の目的としたものだった。それによると、1980年代半ばまではその割合は80%にのぼっていたが、その後突如として40%台にまで低下してしまったという。
講演の主題は「他者との関係に焦点を当てながら、いかに共生を再構築できるか」であったと思われる。日本人は近代になってアニミズムを殺し、自然や他者との共生を考えることを放棄するようになった。石牟礼道子が描いたような水俣病との闘いは、経済活動と科学技術が生み出した近代社会とそれ以前に存在した麗しい世界との闘争を表現したものではなかったか。そして、3.11 以後の日本社会は、もう一度自然も含めて世界とどう調和しながら生きるべきかを問われているのではないか。
もし近代が西欧の圧倒的な影響力の下で誕生したのなら、アジアからはどのような発想を持って近代が生み出した「罪悪」に対抗することができるだろうか。アジアにあるアニミズム、仏教が問う「縁」、そして典礼の実践。宮本先生は、自らの哲学の中心にあるという「物語論」(ナラトロジー)についても述べられた。それは、他者の人生の中で生成された物語に耳を傾けながら、他者、そして世界全体との関係性を紡ぎ出していこうとするものであると報告者には思われた。そして、それは他者の「物語」と共生し共鳴する中で、自分自身の本性をも変えていこうとする試みではないだろうか。宮本先生のお話からは、現代の「傷」を近代の延長線上に捉えながら、たとえ完全な解決はありえなくとも、その「治癒」の可能性を見出そうとする前向きな姿勢を看取することができた。
文責:佐藤空(UTCP)