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【報告】第10会BESETO哲学会議

2016.04.08 石原孝二, 川村覚文, 井出健太郎, 井芹真紀子

去る3月19日と20日の2日にかけて、第10回BESETO哲学会議がソウル大学にて開かれました。この会議は、北京大学(Beijing)、ソウル大学(Seoul)、東京大学(Tokyo)の三大学が持ち回りで、毎年開催されています。その目的は、若手哲学研究者を対象に、日頃の成果を発表する国際的な場を提供する、というものです。今回、UTCPよりは5名の参加者が発表しました。以下にその発表に関する報告をいたします。

石原孝二(UTCP)「心の復興」と「身体化された心」

阪神淡路大震災以降、「心の復興」という言葉が広く使われるようになった。この言葉の明確な定義は無いように思われるが、災害によって負った心の傷からの回復と、社会的なネットワークの再建による日常生活の回復の2つの意味をカバーしているように思われる。本発表では、心の哲学における「身体化された心」のアプローチがこの二つの意味の架橋に寄与できるのではないかという考え方を提示した。また、西田の「行為的直観」に依拠しながら、離人症の症状を「現在」や「場所」の拡がりの喪失として捉えようとした木村敏の考え方が「心の復興」の概念を理解する上で示唆的なのではないかということを論じた。

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井出健太郎(東京大学大学院)「起源を探究する――東アジアにおける解釈学と詩学」

私井出は、「起源を探究する――東アジアにおける解釈学と詩学」と題して、近世日本の思想家、荻生徂徠と本居宣長が、「道」の伝達を可能にする言語の「起源」を思考した方法を批判的に論じようと試みた。特に問われたのは、中国の聖王の権威によって、言語の「起源」の創設を正当化しようとした荻生を、本居がいかに批判し、「日本」の歴史性を基礎づけようとしたか、である。これについて本居が言語の「起源」を解体し、起源/本質を欠く修辞=「文」の絶えざる運動を見出すに至ったこと、そしてこの運動に、「日本」の歴史性の表現を重ねようとしたことを強調した。こうして、本居的な「日本」の根源を照射し、批判を加えることが企てられたのであった。最後になりますが、今回の会議を主催されたソウル大学の皆様、参加者の皆様、そして私たちを引率してくださった川村覚文先生に感謝いたします。

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宇佐美こすも(東京大学大学院)「日本刀と近代的主体の全近代に関するナラティブへの影響」

P4Eがあるとおり、他分野にも哲学的思考を取り入れることで思索が深まることは往々にして存在する。たとえば日本刀について、昨今「イケメン」という視点から日本刀が解釈されるようになっている。これを「怪しからん」と思う人は少なからず存在するだろうが、そのような人々が心に抱いている「日本刀像」もまた、実は社会の必要に伴い生成されたイメージである点で同類であり、歴史的根拠を持っている刀剣像よりステレオタイプが社会を動かしていたりする。今回はそのような観点を歴史学専攻の者として簡単にまとめさせてもらったが、社会と歴史とのスリリングな関係を考察するきっかけを与えてくれたBESETOと、門外漢の言にも関わらず熱心に耳を傾けてくれた参加者・関係者の皆様に感謝したい。
また、今回の10th BESETO哲学会議において初めてround tableが組まれ、そこのテーマの一つとしてphilosophy and publicが議論された。私自身、日本中世史を主に学んでいるため、むしろpublicに属する側である。だがUTCPのP4Eなどに携わるにつれて、いずれの学問でも、現代を生きる人間が思考しているという点でpublicとの関係は無ではないと考えるようになった。今回の会議でも同趣旨の発言がある一方で、主題に意識を向けるがゆえに、研究者が社会と無縁の存在であるとしているような意見も見られ、逆説的に研究対象・研究者・研究者が生きる社会、という三者の相互関係を意識するようになった。学問の有用性を社会から求められている昨今だが、そもそも学問と社会は別個のものだろうか?有用性とは何だろうか?など、問わねばならない課題は多いが、同世代の研究者と問題意識をシェアし、視点を提示しあえたのは今後の思索の上でも有益なことだったと思う。

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島田貴史(東京大学大学院)「力の/としての差異」

拙発表は、カント、ニーチェ、ドゥルーズ、デリダら四人の哲学者が共有するテーマを明らかにするものであった。それは「力の差異」というテーマである。
まず、ニーチェの「力への意志」を論じるドゥルーズとデリダの一節を検討した。両者ともこのモチーフにおける力の差異の問題を重視しており、ここから両者は各々の差異概念を練り上げる。つまり差異化=微分化と、差延である。次に、両者が力の差異の観点から、どのようにカントの諸能力の理説を再解釈するのかを検討した。この理説は、諸能力を各々の領域内に限界づける彼の建築術によって組み立てられる。このような建築術は、ある種の力の差異の思考と見なすことができる一方、そこでは結局、「共通感覚」の議論が示すように、諸力がある一致へと統一化される。これに対してドゥルーズは、「互いに切り離された諸能力」の連絡を規定する「逆感覚」を提起する。他方デリダは、力の差異を諸力の交換、可能性と不可能性の交換の議論へと発展させることで、可能的経験の条件を提示するカントの建築術を掘り崩す。以上の議論により、上記の哲学者が共有するテーマが力の差異のテーマであることを論証した。会場から提起された質疑によって、議論をいっそう深めることができたのは幸いであった。

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井芹真紀子(UTCP・東京大学大学院)「義肢、スーパーヒューマン、身体的柔軟性をめぐるポリティクス」

本報告では、ネオリベラリズム体制におけるマイノリティ身体の主流社会への「包摂」とその中で再強化される健常主義/能力主義について、義肢の身体表象の分析を通じてクィア理論と障害学が現在共通して直面する課題を提起した。クィア理論や障害学の領域において、身体境界の恣意性や不安定性を暴き出すことが、支配的な規範の変容を目指す中で重要な位置を占めてきた。一方で、近年の「多様性」をめぐる言説におけるマイノリティの選別的取り込みや、義肢の身体をテーマとした文化表象が急増する現在の状況とは、境界横断的な身体がネオリベラリズム的な〈柔軟性〉の論理に取り込まれつつあることを示している。本報告では、境界横断と変容可能性を論じる議論において生じる特定の身体性の搾取と排除を問題化すると同時に、〈柔軟性〉を望ましい「適応能力」や「強靱性」として寿ぐ現代社会において、境界横断的な身体の攪乱性が〈柔軟性〉の要請の下に再-再領有されてしまう構造を指摘した。ケースワークとして近年の渋谷区の「多様性条例」、元パラリンピック選手のスピーチ、および映画『マッド・マックス』における義肢の身体表象の分析を行った。

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