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時の彩り(ラスト・ラン) 177

2015.02.13 小林康夫

★松浦茂長さんは、「1945年生まれ。東大文学部卒。フジテレビ報道局に勤務し、ロンドンのBBC国際放送へ出向、モスクワ特派員、パリ支局長などおもに海外ニュースを担当。定年退職後、パリと東京半年ずつの渡り鳥生活している」筋金入りのジャーナリストです。レポート・エッセイは以下の通りです。


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★涙を流したムハンマド 新聞社襲撃事件後のパリから 

松浦茂長

 昼食の前に近所のプールで泳ぐのが日課になっているので、その日もいつもの調子で泳いでいると、なぜか視界から人が消え、泳ぎやすくなった。良い気分でスピードを上げたがプールサイドに着くと肩を叩く男がいる。何も言わず、唇に人差し指をあてて「しー」のジェスチャーをする。そうだ、黙祷の時刻だった。笛が鳴るわけでもない、アナウンスもない、誰も合図しないのに12時になると、全員がプールサイドに寄って黙祷した。日本人としては、こういう行事の始まりには合図があるものと思い込んでいたものだから、ただ一人泳ぎ続ける失態を演じてしまった。風刺新聞「シャルリーエブド」襲撃の翌日正午、全フランスは会社も商店も自発的に1分間の黙祷を守り、地下鉄、空港も止まった。
 自発的といえば、事件当日の夜のデモは、指示も組織もない自然発生の集まりだった。7日は水銀柱がほとんど0に張り付いた寒い日だったのに、レピュブリック広場に1万5000人が集まった。友人のジャーナリストに言わせると、あれは動物的直感のようなもので、「自由を守るための市民の義務」などと頭で考えるより前に、胸がうずいて飛び出してしまう。同じ気持ちの大勢と一緒になることによって、昂揚した一種のエクスタシーに入るのだ。これほどの大事件でなくとも、フランス人はことがあると集まって行進する。たとえば、村で少女が暴行され殺されると、村人全員が黙々と行進する。葬儀ではない。少女への哀悼と犯人への怒りを行動で表さないかぎり収まらない何かがあるのだ。
 国を挙げての追悼行事が11日の日曜に予定されたが、その前日の土曜日に全国で70万人が街に出た。本番が待ちきれない70万人だ。同じアパートの隣人の女性医師は旅先のカンボジアから、「パリにいないのが残念。私の友人はみんな行進に参加するのに。」とメールしてきた。フランス人には魂の根底からわき上がってくる一つの衝動がある。それは人と人の差異、隔たりが消え、一つに溶け合う恍惚感、同じ胸のときめきに突き動かされる神秘的一体感だ。コレージュ・ド・フランスのロザンバロン教授は、フランス革命によって生まれた新しい精神を象徴する標語として「我らにはただ一つの願い、偉大なる全体の中に自己を失うという願いしかない」を挙げて、この衝動の起源を解き明かしている。
 フランス人は個性を大事にするので個人主義者と思われがちだが、彼らの至福の境地は個を忘れた合一であり、11日にはその理想を象徴する二つのシーンがあった。一つは、一人の男が隊列から飛び出し、制服警官にキスする場面。もう一つはユダヤ教の聖職者ラビがイスラムの指導者と抱き合う場面。この日ほとんどの警官はジャンパーなど目立たない私服にポリスと書いた赤い腕章を巻いていたが、なにしろ200万の行進だから、日本で言えば機動隊のような屈強の制服警官も配置されていた。いつもなら戦闘態勢の警官が前面に出ればデモ隊の敵意の的になるし、フランスの警察は荒っぽくてデモ参加者を身障者にしてしまうこともまれではない。しかしこの日ばかりは、あちこちで警官に感謝の言葉をかけるシーンが見られた。7日と8日に警官がテロの犠牲になったこともあり、また今はテロを防ぐために大いに警察にがんばって貰わなければならない時でもあり、史上初めてデモ隊が警官にメルシと微笑むほどの親密な空気ができたのだ。
 警官へのキスシーンは、何度もためらいながら群衆の声援に励まされてキスしたパン屋の動きがユーモラスだったし、キスされた黒人警官の照れ笑いが実に自然だった。それにくらべ、ユダヤ教とイスラム指導者の抱擁が芝居がかって見えたのはなぜだろう。抱き合った3人の気持ちに嘘はない。しかしすでにイスラムへの憎悪がここまでつのり、ユダヤ人の迫害恐怖がここまで強まり、社会の亀裂がここまで深まった現実を前に、3人の抱擁はいかにも弱々しいジェスチャーにしか映らなかったのだ。
 フランス中が止まったように見えた8日の黙祷にしても、郊外の移民の多い地区の学校では、生徒の反発が強く取りやめになったところがあった。「ムハンマドのカリカチュアを描き、イスラムを馬鹿にした連中が罰を受けるのは当然ではないか。なぜ彼らのために黙祷する必要がある?ジハディストは正義をもたらす英雄だ。」ラジオのマイクの前で堂々とこう主張する生徒もいた。彼らの住む郊外団地には「私もシャルリー」のポスターは見られない。荒れすさんだこれらの団地は若者の失業率40パーセントなどという所も多く、「国に見捨てられた」「差別だ」という重苦しい空気が漂っている。プライドを持つことが出来るとすれば、それはイスラムの信仰しかないという住民も少なくない。その唯一の生きる支えを侮辱され続けたらどうだろう。彼らにとって「シャルリー」の風刺は権力批判どころか、権力と一つになった都市エリートの傲慢としか映らない。
 しかし、郊外団地住民の中で勇ましくジハディストを讃えるのはごく少数で、ほとんどはイスラムに敵意が向けられるのを直感し、街に出るのをひかえた。パリ中心部で200万人が行進したとき、郊外団地の住民たちは恐怖したのだ。住民たちが自嘲的にゲットーと呼び、ヴァルス首相が「アパルトヘイト」と強烈な言葉を使って指摘したような「二級市民」の密集地域が存在し、そこでは別の価値、別の文化が支配している。

 いまフランスではミシェル・ウエルベックの「服従」という小説がベストセラーになっている。2022年にチュニジア出身のイスラム教徒がフランス大統領に選ばれ、政教分離は廃止されてイスラム法が施行され、一夫多妻、女性が外出するときはすっぽり体を隠す服を着なければならないし、家庭を守り子育ての義務を負うという物語だ。ウエルベックは2001年にイスラムを「一番馬鹿げた宗教」と呼んだため、中傷の罪で訴えられたほどのイスラム嫌い。それにしても、こんな荒唐無稽なフィクションに飛びつくほど、いまのフランス人はおびえているのだろうか。イスラムが目立つとは言え、信者の数は人口の7-10パーセント、しかも大部分は貧しく、社会への影響力の弱い人たちだ。恐れる必要があるだろうか。たしかに治安への不安は無視できない。刑務所の囚人の半分はイスラム教徒だし、「シャルリーエブド」を襲ったジハディストをはじめ、多くの若者が刑務所で過激なイスラムに「回心」したのは事実だ。しかし、治安への不安が強いとしても、そこから一足飛びにイスラム教徒が大統領になり、フランスがイスラム国家になると心配するのは妄想に近い。
 この不条理な不安を醸し出す原因は、フランス人自身のアイデンティティ危機である。フランスの未来への漠然とした不安感は、政治、経済の指導力低下、思想、文化面でのフランスの地盤沈下など、様々の原因が指摘されるが、一般のフランス人にとって、その不安は毎日の生活の中で皮膚感覚としてひしひしと迫ってくるもののようだ。友人の一人は、偏見の少ない左翼だが、「自分がどこの国に暮らしているのか分からなくなるよ。以前はクリスマスとか復活祭とか子供の頃から親しんだ行事でもって一年のリズムが刻まれた。いまは春節やラマダンやハローウィンやごちゃごちゃだ。日本に行ったとき、神社のお祭りに大変な数の人が集まっているのにびっくりしたし、うらやましかった。」と嘆く。哲学者フィンケルクロートに言わせると、フランス人は「自分の国でホームシック」にかかっているのだ。
 「シャルリーエブド」襲撃は、自分の国を見失いかけたフランス人の心の空洞に衝撃を与えた。事件のあとフランス国民が何かに憑かれたかのように街に繰り出したのは、「表現の自由」こそフランスのアイデンティティではなかったか、と歓喜のうちに再確認したからであり、言い換えれば「ホームシック」から回復するチャンスが到来したからだ。11日の行進を中継したテレビのキャスターは、「今日パリは世界の首都になった」と感動をこめて描写した。たしかに「シャルリーエブド」襲撃と同じようなテロがフランス以外の国で起こったとしたら、世界の首脳がずらっと並ぶ200万人の行進は実現しないだろう。フランス革命の国、自由の祖国のような国で血なまぐさい言論へのテロが起こったことに、世界の人々は特別なショックを受けたのだ。だから「パリは世界の首都になった」といっても、政治的威信が上がったというつもりはない。大げさに言えば、人類に自由をもたらし、世界各国で自由のために迫害された人々の亡命先となってきたフランスの特別な思想的役割が再確認されたと言いたいのだ。

 フランス人自身にとって11日の行進はうれしい驚きだったようで、世論調査によると、89パーセントが「フランス人は思ったより国への愛着が強い」、81パーセントが「思ったより一つに団結している」と、考えを改めた。市民連帯の意外な強さに感動したフランス人の気持ちは分かるのだが、ひっかかるものがある。それは「シャルリーエブド」のくだらなさだ。200万の人が思い詰めたように押し黙り、自発的な秩序のうちに行進する、あのぴーんと張り詰めた内的高揚と、わいせつで近視眼的な「シャルリーエブド」の卑小さがどこで結びつくだろうか。「ニューヨークタイムズ」のコラムニスト、デービッド・ブルックスは、もし「シャルリーエブド」のような新聞をアメリカの大学で発行しようとしたら、「30秒ももたないだろう」と書いている。学生は「ヘイトスピーチ」だと非難するし、大学は発行を禁止するというのだ。親しいフランス人に聞いても、「シャルリーエブド」は嫌いだというのがほとんどだった。教会をからかうカリカチュアをよく載せるけれど、教会の現状とはほど遠い何十年か前の教会像を想定しているそうだ。現代の問題を新鮮な独自の視点で捉えるというより、世間の通念・偏見に調子を合わせて下品な罵声をあげる風刺だった。テレビのインタビューを受けたキオスクの店主は「週に6部ぐらいしか売れなかった」と言っていたし、いまのフランス人には受けない時代遅れの破産寸前の新聞だった。
 殺されたエロティック漫画のジョルジュ・ヴォリンスキー氏は80歳、有名なジャン・カビュ氏は76歳、1968年の5月革命の世代である。僕は67年秋から「革命」直前までパリ大学に留学していたので当時を思い返してみると、先生は絶対的権威を持っていて、アメリカ人学生が授業中に質問するとこっぴどく叱られたし、学生はネクタイを締めていたし、コメディーフランセーズ劇場にセーターで行ったら、上着なしは入れないと注意された。「さすがヨーロッパだ。古い伝統が生きている」と感心したものだが、フランス人学生にとっては不毛な伝統墨守に過ぎなかったから、中国の文化大革命のまねをして、教授をつるし上げたり、あらゆる権威の破壊に乗り出した。
 しかし、5月革命は陽気な破壊だった。数年前、僕と同い年の建築家ジャン・ヌヴェル氏に「5月革命の精神は?」と聞いてみたら、「限りないオプティミズムと気前の良さ」という答えが返ってきた。たしかに当時のフランスにはわき上がる創造力があった。オデオン劇場ではジャンルイ・バローがフロベールの「聖アントワーヌの誘惑」を演じ、ベジャールの振り付けで、テヤールド・シャルダンの壮大な神秘的進化論の表現を企てていたし、教会の説教では構造主義を論じていたし、ラジオをつけると、ロラン・バルトが「女性のスカートの短さ」について哲学していたし、サルトルも健在だった。こうした活気に満ち自信にあふれる国だったから、学生たちは安心して破壊に専念できたのだ。今のように、フランスがイスラム国家になるのではと杞憂し、伝統喪失を嘆く時代とは対照的な、自分たちの理想は世界に通用すると信じ、西欧の価値体系の普遍性を素直に受け入れていた時代だった。だから若者たちは古いものを徹底的に破壊すれば、もっともっと素晴らしい世界になると考え、大学、教会、性の規範を一切ぶち壊そうとしたのである。
 友人の作家は「シャルリーエブド」は5月革命の最後の生き残りだった、と評したが、殺された風刺画家たちは、時代が変わり、攻撃の相手が変わっても相変わらず陽気な破壊精神を持ち続けた。かつて教会をさんざん馬鹿にしてやったおかげで教会は良くなったのだから、ムハンマドを馬鹿にしてやればイスラムも少しは近代化するだろう、と脳天気な使命感をもっていたに違いない。1968年と違って、西欧の理念が普遍的に通用する時代は終わり、異質の文明と、それらの価値体系を尊重しながら共存するほかない時代になったことが、彼らには分からなかった。

 さてそこで理解に苦しむのは、時代に取り残されたやっかいな骨董品のような「シャルリーエブド」に対し、なぜフランス人があれほど寛大だったかである。なぜ全国で400万人もが「私もシャルリ-」と標語をつけて行進したのか。世論調査によると、フランス人の53パーセントが「民主主義では人は言いたいことを言えるのが当然だから、これらの風刺画の掲載に賛成」と、全面的に「シャルリーエブド」を支持し、38パーセントは「個人的にはこの種の風刺画を認めないが、民主主義では言いたいことを言え、公表できなければならない」と内容を問わず「表現の自由」を支持、「宗教を馬鹿にする風刺画を新聞に載せるのは反対」と答えた人は9パーセントしかいなかった。事件の後、「シャルリーエブド」が涙を流すムハンマド(性器のほのめかしが隠れている)を表紙にしたとき、日本では朝・毎・読の三紙が風刺画を転載しなかったし、ニューヨークタイムズも載せなかった。してみると、きわどい宗教風刺画に寛容なのはフランスあるいはヨーロッパ特有の歴史・伝統から来る特殊性ではないかと考えたくなる。
 ヴェルディの「リゴレット」を思い出してみよう。宮廷の道化師リゴレットは、殺人請負のスパラフチーレと自分を引き比べ「私らは似たもの同士だ。私は舌で刺し、彼は短刀で刺す、私は人をあざ笑う者、彼は人を殺す者。」と歌う。道化には誰彼かまわず嘲笑できる特権があった。リゴレットはご主人の気に入らない貴族を愚弄して、ご機嫌取りに努める一方だったが、本来の道化はご主人の間違いをとがめる役でもあった。道化のフランス語は「こっけい」を意味するbouffonのほかに「気違い・狂」のfouがある。「狂」をさかのぼると、「王の狂」の前に「神の狂」が存在し、こちらはムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」の世界。皇帝ボリスが乞食姿の聖なる狂者に「私のために祈ってくれ」と頼むと「だめだ。ヘロデ王(妃と実子3人を処刑したユダヤ王、ボリスの世継ぎ殺しを示唆)のために祈ることはできない。神の母が許さない」とつっぱねる。専制君主に向かって平然と罪を糾弾し、おとがめなし。身分・法律・慣習など一切を超越し、いわば世の外にいて、世の悪を糺すのが「神の狂」である。子供にまで石を投げられ、からかわれる屈辱的存在であり、同時に国王に畏れられる存在。世間の貴賎の秩序に当てはまらない逸脱者。
 身分・法律・慣習を超越するこうした特権は「王の狂」=道化にも受け継がれ、時代を下って風刺画に引き継がれたと考えるのは短絡的だろうか。「世間」の人には許されない非礼・侮辱・非難が彼らにだけは許される。風刺画家は現代の「狂」なのだ。ベルクソンが、「笑い」には人のこわばった言動を罰し、生命のしなやかな動きを回復させる社会的機能があると、「笑い」の偉大な役割を認めているのも、この道化→風刺画の伝統と無関係ではないだろう。ヨーロッパは、社会の健康を保つために例外者としての「狂」の存在が不可欠だと考えてきたのである。実際、フランスのカトリック教会はルネッサンスの昔からからかわれ、馬鹿にされることで鍛えられてきたから、実にスマートだ。しかし、風刺が役立ったのは、風刺の対象もそのルールを理解する同じ文明に属していたからであって、別のルールを持つ他の文明に「風刺」の効用を理解しろというのは無理な注文ではないか。
 「コーラン」はさすがに多文化共生のコツを上手に説いている。「彼らがアッラーをさし措いて崇拝している邪神どもを罵倒してはいけない。そのようなことをすると、彼らの方でも、何も知りもしないでやたらに、アッラーを罵倒してかかってくる。我らは(=アッラーは)どの民族にも、それぞれ自分のしていることが一番立派に見えるようにはからっておいたのじゃ。」(6章108節)


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