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【報告】2013年度ハワイ大学―東京大学夏季比較哲学セミナー(6)

2013.09.28 梶谷真司, 中島隆博, 崎濱紗奈, 杉谷幸太, 東西哲学の対話的実践

いよいよサマーセミナー第2週の最後の報告となります。東京での講義はここまでで、残る一週間は金沢~福井~鳥取の研修旅行へ。今回は、8月15日(木曜)の講義のようすをUTCPの杉谷が、8月16日(金曜)を崎濱さんが、それぞれお届けします。

8月15日木曜日、いよいよ講義も残すところ2日となった。17日からは、金沢、福井、鳥取へ1週間の研修旅行となる。そこで午前の講義は、座禅体験の予習を兼ねて、福井・永平寺の宮川和尚にまつわる「公案」が中島先生から出された。

その「公案」とは、「放射能で汚染された瓦礫は仏性を持つか」である。これは道元の「仏とは墻壁瓦礫」のもじりで、アメリカのGraham Parkes教授が道元の「悉有仏性」について、「道元は放射性廃棄物に仏性を認めないだろう。仏性とは自己組織化する全体性であるが、放射能は諸物の無常impermanenceを過激化して、完全な絶滅に至らしめるからだ」と述べたことを踏まえている(スライドによれば2010年の著書だそうである)。Perks氏なら「公案」にNoと言うだろう。一方、東日本大震災を経たいま、永平寺の宮川和尚はこう答える。「墻壁瓦礫とは寺の廃墟、私たちが座禅を始める場所である。放射能で汚染された瓦礫に対してなすべきは、その瓦礫で寺を建て、そこに座ることなのだ」。学生からは、放射性物質は人類が自らのために生み出したもので、その意味で既に我々と共存してしまっているのでは、などの疑問が出された。ただ私がいつも気になるのは、こうした震災論とか放射能といった議論が、どれだけリアルな感覚を伴って語られているのかということである。

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Ames先生による午後の講義は、相反する儒教と老荘思想を、一つの共通性において理解する「哲学的ちゃんぽん」の試みであった。その共通性とは「関係と生成」の重視であり、そこに「個と存在」に基づくヨーロッパ哲学とは異なる、新たな哲学的可能性があるという。いわく、中国哲学の人間モデルはhuman beingではなくhuman becoming(人間への生成)である。聖人は外界、万物との関係のなかで共に生成変化し、内面の完成に応じて世界を完成させていく。『中庸』の「誠とは自ら成るなり」、『荘子』の「物化」、『老子』の「死して亡〔忘〕れられざるは壽(長命である)」など全ては、他者や万物との関係のなかで生成変化していく人間観の表現なのである。

この人間観のヨーロッパ哲学との差異を、Ames先生は「死」の問題から説明する。古代インド、愛児の死を受け入れられないキサー・ゴータミに、ブッダは「子供を治したければ、村の家から芥子粒を貰ってきなさい。ただし、その一家から未だ死者を出したことがない家から」と諭す。永い徒労の果てに、彼女は誰もが死の悲しみから逃れられないことを悟るのだが、Ames先生に言わせれば、「誰もが……である」という発想じたい、インド・ヨーロッパ的ロジックの典型に他ならない。それに対して、『荘子』に繰り返し語られるような、具体的な友人関係のなかで、死に対する認識を語らいつつ友の死、自らの死を「自然の変化」として受け入れていくあり方こそ、関係と生成(変化)に根差した中国的な死の理解なのだという。

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『荘子』の話が出たついでに、ハワイ大学生との読書会についても記しておきたい。今年度も、東大・ハワイ大の希望者によって3つの読書会が開かれた。私は『荘子』を英語で読む会に参加したのだが、そこで痛感したのは、日本では『荘子』が何か高尚な哲学的著作として読まれるのに対し、ハワイ大の学生はそこに戦国時代の社会的現実を、また現実と自己の哲学の矛盾に悩む荘子の姿を見る傾向があり、文学的な感性が強いという点であった。この印象は私だけでなく、もう一人の東大の学生も同感だったようで、私自身がどれだけ日本的な文脈に縛られながら中国古典を読んでいたのかを再認識させられた良い経験だった。

(文責:杉谷)

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8月16日、猛暑の中二週間続いた東京でのセミナーも、とうとう最終日を迎えた。翌日から始まる一週間の大旅行(金沢・福井・鳥取をめぐる旅)を前に、石田先生、梶谷先生の講義で東京パートは締めくくられた。

石田先生は、西田幾多郎の「場所の論理」について講義された。導入部で道元の「経歴(きょうりゃく)」と「有時(うじ)」という概念を確認したのち、西田幾多郎の時間概念へと話は進められた。前回の授業で石田先生は、西田の時間概念を表す座標軸を示された。それを踏まえて今回の授業では、ガウス平面や電磁力学等、当時の科学的知識からインスピレーションを受けた西田が「場所の論理」と呼ばれる独特な概念を発明する過程をたどっていった。時間軸と「生命線」が交差するところに「時間面」が生じる。交差点では、「時間」と「場所」という全く異なるものが同時に存在する。このことは、西田の「絶対矛盾的自己同一」という考え方にも繋がる。西田哲学は非常に難解で、その足跡をたどることは骨の折れる仕事であるが、石田先生の明晰な解説や、参加者同士の議論の中で少しずつ理解度が深まる。昨夏『善の研究』を読んだ経験が大きく活かされていると感じた参加者も少なくない。皆と共にテクストと格闘することで、徐々にその内容が腑に落ちてくる経験ができるのはこのセミナーの醍醐味である、と改めて感じた。

午後は梶谷先生の講義が行われた。今までの講義では「自然とは何か」という問いについて、「母乳」「死」という具体的なテーマを手がかりに考察してきた。最終回のタイトルは” Natural Relationship with Nature?”(「自然」との自然な関わり?) であった。21世紀を生きる我々にとって、「環境問題」は重要課題の一つである。しかし梶谷先生はここで、問題の解決方法について議論するより前に「環境問題」という言葉によって何が語られているのか、あるいは語られていないのかを再検討する必要性を説く。我々は普段「自然」「自然と人間の共存」と言うときに、何を意味しているのか?この問いから出発するとき、「環境問題」という言葉の影に、様々な言説がよく吟味されないまま放置されていることに気付く。例えば、「環境問題」が議論される際、前近代社会における人間と自然の関係が、西洋近代社会に比べて調和的であった、という言説にしばしば出くわす。しかし、黄河の砂漠化、イースター島の文明滅亡に見られるように、近代以前にも深刻な「環境問題」の例を見付けることができる。「環境問題」を前近代的な「自然」との「自然な」関わり方を取り戻すことによって克服する、という考え方は、「環境問題」を引き起こしている構造そのものを隠蔽する。ここで梶谷先生は「環境問題」の不平等性を指摘する。先進国は技術発展によって自国の問題を克服してきた経緯を持つ。対して、現在最も深刻な「環境問題」を抱えている国の多くは発展途上国だ。こうした問題構造を作って来た責任を先進国は持っている。「環境問題」はこの意味で、実は「人権問題」だと言うことができる。今求められているのは「自然に対する自然な関わり」よりもむしろ、「人間に対する人間的なアプローチ」である。「近代」が作り出した問題を乗り越えるべく「近代の向こう側」を模索するより前に、「近代」内部において解決するべき問題があるのではないか、という先生からの提言で講義は終了した。

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先生方が講義で語られたことは、決して簡単に答えが出る問題ではない。投げかけられた問いが、参加者各人の中に波紋を起こす。そして、ディスカッションを通して、それぞれの波紋がまた新たな反応を呼び起こす。そんな刺激的な相互反応が、一週間の旅行の間も各地で発生するだろう。

(文責:崎濱)

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