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【UTCP Juventus】石垣勝

2011.09.11 石垣勝, UTCP Juventus

2011年度【UTCP Juventus】最終回は、「科学技術と社会」プログラムRA研究員の石垣勝が担当する。

昨年度の【UTCP Juventus】担当回で、既に私の現行研究の概要について報告させていただいている。以来、研究テーマに変更はない。したがって以下では、先回触れなかった、私の「研究方法」についての考えを述べさせていただくことにする。

ただし、現行研究の方法について直接話し始める前に、まず、私の学部時代からこれまでの研究経歴と、その過程でかかわってきた複数の専門分野について触れておきたい。なぜなら、それらの分野とかかわることで、私が現在採用している研究方法が形成されてきのであり、また、それを特徴づけていると考えるからだ。

私は、学部からマスター課程までをフランスのパリ第10大学で過ごしている。入学時は、その人文-社会科学学部に在籍していた。当初専攻したかったのは文化人類学であったが、DEUG(日本の大学の教養部に相当)には文化人類学科がなかったため、それに隣接していると思われた社会学科にひとまず登録することにした。ただし、必修講座が2~3あった以外は、単位取得の形式はほぼ無いに等しいくらい自由度が高かったため、文学、言語学、哲学、社会思想史、歴史学、社会学、文化人類学、考古学、政治学、経済学、メディア論・・・等々、とにかく自分が興味を持てそうな講座を見つけては手当たり次第に出席していた。

3年次からマスターまでは、念願の文化人類学-比較社会学科に籍を置くことができた、が、社会学科と史学科のいくつかの講義にも出席しつづけた。[ちなみに、文化人類学と比較社会学との相違を大雑把に説明すると、前者がいわゆる「他者」の住まう異郷の地に出向いて「参与観察」をおこなう学問的伝統があるのに対し、後者は、生活空間が異なる他者社会だけではなく、より幅広く、歴史的(=時間的)に異なる他者社会、つまり過去に存在していた社会のなかの比較的小さな集団をも対象として研究をおこなう分野といえようか。フランスでは、アナール派第3世代と呼ばれる人たちを中心に「歴史人類学」なるものも確立されているし、近年の日本においても「歴史社会学」という言葉がよく使われるようになっているが、それらはすべて比較社会学のサブ・ディシプリンと考えてよいのではなかろうか(ただし、専門分野間の境界についての認識の仕方は、それぞれの研究者によって多少違うので、異論を唱えられるかもしれない。が、この境界の明確化は、私にとって本質的な問題ではない。)他方、歴史人類学や歴史社会学が対象とするような我々と同時代ではない社会の場合、文化人類学的な参与観察が不可能なのは言うまでもない。時代がそれほど古くなければ、ある固有の歴史的な経験をした「生存者」に面会し、聞き取り調査をおこなうことは可能だが、それは、調査者と被調査者とによる同じ時間と空間の共有を前提とした参与観察とは似て非なるものである。]

ともあれ、学士課程(licence)では、6カ月の間、「フランス手話(Langue des Signes Française:LSF)」を修得しつつ、パリとその周辺の手話コミュニティで参与観察をおこない、そこで得られたデータをもとに学士論文を書いた。出自も帰属も同様の人びとによって形成されている(と思われている)コミュニティにおける「内生的な他者(autrui endogène)(?)」としての聾唖者たちの「エートス」や「心性」と呼ばれるもの、更には、彼ら/彼女らの「認識の仕方」がどのようなものであるのかについて興味をもっていたからである。[この認識の問題に関して私のなかで未だ解決していないのは、先天的な聾唖者(あるいは発話言語習得以前の乳幼児期に耳が聞こえなくなった人びと)が、どのようにモノローグしているのかということである。音声センセーション(=発話言語の音声としての記憶)なしに、どのように・・・?]

その翌年度は、大噴火や地震、津波といった「リスク(あるいはディザスター)」をどのようにマネージメントしてきたか(しているか)をテーマに、伊豆大島でおこなった9カ月間にわたるフィールド・ワークで集めたデータをもとに論文を執筆した。そこからリスク社会論に興味を持つこととなり、マスター過程では、よりグローバルな環境リスクをテーマに論文を書き上げた。その中で、はじめて原子力を「科学、技術と社会」の問題として触れることになる。そして、これが原子力をテーマに更に掘り下げて考察するきっかけとなった。

帰国後は、『原子力の社会史』を脱原発の立場から研究されていた吉岡斉先生に師事しようと、九州大学大学院比較社会文化学府の修士課程に再入学した。ここで、科学社会学、科学史、それに科学哲学に接触することになる。しかも九大では、科学社会学・科学史・科学哲学を専攻している院生は私ひとりであるのに対し、これらの分野で開講されている教授は、吉岡先生以外にも、コペルニクス、ガリレオなどの研究で著名な高橋憲一先生もいらっしゃった。つまり、2名の優れた先生方をほぼ私ひとりで独占するという、とても贅沢な学習環境で学ぶことができたのである。[もちろん、日常は優しくても、研究内容については厳しく吟味される先生方とのマン・ツー・マン・ゼミの毎週の準備は、大変な労力を要するもので、常に悲鳴をあげていたことは言うまでもない。] ともあれ、このお2人の先生方との出会いが、私の博士課程の進路を決定づけたことは間違いない。まるでそうすることが当然ででもあるかのように、その後、総合文化研究科の「科学史・科学哲学研究室」の門を叩いていたからである。

以上述べてきたように、これまで私はさまざまな専門分野と接触する機会を得てきた。が、なかでも、社会学、文化人類学、それに歴史学の手法が、私の現在の科学史・科学社会学の研究のなかに、特にそれと意図することなしに摂取されていると思っている。つまり、これらの専門分野の方法のうちから、私がそれぞれにおいて優れている、あるいは私のテーマ研究を進めるのに適している、と私なりに思っている部分を、あらゆる形で自然に取り込んでいるのだろう。自分の研究対象の特性をもっとも引き出せそうな方法を、その時々に臨機応変に適用しようというわけである。さらに簡単に言い換えると、「いいとこ取り」による複合的な方法を採用しているというわけだ。そして、これが私の研究スタイルを特徴づけていると言えよう。

こうした複合的な方法は、専門分野の枠組みをあくまで固守しようとするような、ある種保守的な研究者たちにとって、時に抵抗感や違和感があるらしい。が、さまざまな分野に特有の方法の複合化は、私という1人の人格をとおして整合性が保たれている(はず)、と私は考えている。逆に、従来からの専門分野の縦割り的な枠組みに固執する研究者たちを見るにつけ、彼ら/彼女らが自らの可能性を狭めているような気がしてとても残念に思っている。(とはいえ、ここで私のやり方が「正しい」とか「上手くいっている」などと主張したいわけではない。)

では、私が主張するところの、専門分野の「壁」に囚われない「複合的な方法」とは、具体的にどのようなものか?であるが、これについては、紙幅の関係上、ここでの詳述は避け、他の何らかの機会に述べることにしたい。

ともあれ私は、博士論文執筆のため、日本帰国後も2008年以来、年に1度以上は渡欧し、現行研究の中心に据えている欧州共同による科学技術開発計画の政策決定過程に関する文献史料の収集をおこなっているのはもとより、そうした計画にこれまでかかわってきた(あるいは現在もかかわっている)専門家(科学者、技術者)、科学技術政策担当官僚らにたいする聞き取り調査を実施している。また、来年秋頃からを目途に、6~9カ月程度ヨーロッパに滞在し、データの収集に努めようと考えており、現在、そのための準備に勤しんでいるところである。

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