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【報告】国際シンポジウム「『近代』に生きる『伝統』」(北京大学)

2010.09.09 └レポート, 津守陽, 近代東アジアのエクリチュールと思考

「近代東アジアのエクリチュールと思考」に所属するPD研究員の津守陽が中国・北京大学主催の若手研究者シンポジウムに参加しました。シンポジウムのタイトルは「『近代』に生きる『伝統』――博士課程学生および若手研究者による国際学会」(期間:8月23日~27日)です。

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今回のシンポジウムの開催形態は北京大学中文系における初の試みだそうで、当学部の中国古典文学・近現代文学・民間文学の各専攻に所属する博士課程の学生だけですべてのアレンジを行い、学内外の若手研究者を招聘してシンポジウムを行うというものです。主催者側の学生によると、今後年一回ほどの間隔で定期的に同様の試みを続け、関心を共有する国内外の若手研究者の間に一種のグループを形成したいという野心があるとのことでした。

発表者は25名、北京大学の学生や卒業生の他に台湾からの参加者が4名あり、日本からの参加者は3名でした。中国古典文学・近現代文学・民間文学の諸分野にまたがるシンポジウム自体、中国ではあまり見かけませんが、他学科との交流を深めるのも意図のうちだということで、各専攻をごちゃまぜにした形で小テーマが設定されました。津守が報告を行ったのは2日目の「郷土中国」と題した第6分科会です。

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タイトルは「中国知識階層の『郷土』認識を探る―沈従文の空白内面描写から」で、博士論文の一部を圧縮する形で報告を行いました。前半では「郷土(シャントゥ)」という概念について、これが「農村」「田舎」「地方」などの類似概念を巻き込みながら「原=中国」の近似値として用いられてゆく、近代以降の中国語文脈における包括的で曖昧な言説を挙げ、こうした認識の形成自体を批判的に考察しました。そのうえで、この「郷土」意識の形成に大きく関わったと考えられる1920~30年代の「郷土文学」について、沈従文(しんじゅうぶん)という作家の作品の精読を通して、ある作品が「郷土」を表象するその瞬間に立ち戻るという報告者の問題意識を説明しました。後半では近代小説の成立と同時に小説内容の主流を占めたはずの「内面描写」について、沈従文の作品に見られるアンチ「内面描写」的な要素を指摘し、沈従文作品が表面的にまとっている牧歌的な郷土像を逸脱していく要素であると主張しました。

コメンテーターの陳泳超教授や会場からは、精読を経たうえで、再度「郷土」とは何なのかを示して欲しい旨などのコメントをいただきました。ことに留学時代の友人で、現在シンガポールの南洋理工大学研究員である張麗華氏からは、描写や文中指示などの「文体」および短編小説などの「ジャンル」と、近代中国における文学という制度の成立との関わりに関心を持っている彼女ならではの有益なコメントをいただきました。留学中はお互い関心を共有しているようだと感じながらも、博士論文の執筆に忙しくなかなか交流の時間を持つことのできなかった彼女と、再会していくつかの問題について話すことができたのは、今回のシンポジウムの大きな収穫でした。張麗華氏については、冬学期のワークショップで招聘して討論を続行できればと考えています。

また3日目には円卓討論として、①東アジア学術共同体②近代に生きる伝統 の2テーマが設けられ、実際には円卓が準備できなかったとのことで順次挙手して演壇での発言となりました。会も3日目に入りさすがに疲弊した雰囲気ではありましたが、若手の集まりだけあって時間をオーバーする勢いで発言が続きました。津守も①東アジア学術共同体に絡めて、今回のシンポジウムに参加した感想を述べました。

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正式な場での中国語による発表自体初めてでしたので、スライドを使った見せ方や口頭発表での絞り込み作業など、いろいろと良い経験をさせてもらいました。中国の学会への参加は、以前はほとんど紹介によるものが多かったのですが、次第にこうした公募形式をとるようになってきているようです。若手の交流を促進するという試みが中国でも強く興っていることを実感できるシンポジウムでした。

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