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【報告】「現代フランス小説における消失の形象」

2010.06.17 原和之, 数森寛子, 精神分析と欲望のエステティクス

ドミニク・ラバテ氏(ボルドー第3大学教授)による講演会「現代フランス小説における消失の形象」が5月31日(月)、東京大学駒場キャンパス101号館2階セミナールームで開催されました。

ドミニク・ラバテ氏は、ボルドー第3大学の文学部で研究グループ「モデルニテ」を指導する、現代フランス文学の専門家です。日本では著書『二十世紀フランス小説』(三ツ堀広一郎訳、白水社、クセジュ文庫、2008)を読まれた方も多いかも知れません。ラバテ氏は、近年とりわけ、文学における「声」の問題に関心を向け、モーリス・ブランショやルイ=ルネ・デフォレ、パスカル・キニャール、マリー・ンディアイ等の作家の作品を論じた研究を発表しています。近著『小説と生の意味』(Le roman et le sens de la vie, J.Corti, 2010)では、古来より繰り返されてきた問いである「人間の生の意味」が、最も精緻な方法で思考される特権的な場として小説があることを論じています。

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今回のUTCPレクチャーでは、山田広昭教授(UTCP事業推進担当者)の司会のもと、ラバテ氏が目下構想中の研究である、現代フランス小説における消失の形象(Figures de la disparition dans le roman contemporain)についてお話しいただきました。痕跡を残すこととは逆の、消滅するという欲望。社会に対して個人の抵抗を示す最後の手段が消滅なのではないか。第二次世界大戦中の集団殺戮の記憶と抗いがたく結びつきながらも、作家と読者、双方を魅了しつづけるパラドクサルな形象として、現代における消滅の形象の特徴が指摘されました。

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パトリック・モディアノの作品 Dans le café de la jeunesse perdue(2007)に見られる、消滅の決定的な手段としての自殺。計画された消滅の物語としての、パスカル・キニャール『アマリアの別荘』Villa Amalia(2006)。エマニュエル・カレールの諸作品に見られる、証言者、証人の不在というオブセッション。ジャン・エシュノーズ『ぼくは行くよ』Je m’en vais(1999)というタイトルにも明らかな、消滅の欲望の主題化。ラバテ氏は、マリー・ンディアイやダニエル・メンデルソンなど、他にも様々な例を挙げながら、現代フランス文学における消滅という主題の重要性を指摘しました。
繰り返し現れる消滅というモチーフは何を含意しているのか。この主題をもつ現代小説とジョルジュ・ペレックの諸作品、とりわけ文学の可能性を再構成した『人生使用法』との関連が指摘されました。

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ラバテ氏は、社会による管理を逃れるための消失点としての消滅という視点から、ジョルジョ・アガンベンの「装置[ディスポジティフ]とは何か ?」の議論に付け足すべき点として、すべての主体化のプロセスには、脱主体化が内包されていることを論じました。また、それゆえに消滅とは、現代小説最大の魅力でありながらも、それは誤った不完全な解決策でしかないこと、現代社会は新たな主体化の方法を見出さなくてはならないことが強調されました。


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