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【報告】国際ワークショップ「批評と政治」@韓国・延世大学

2010.03.21 中島隆博, 平倉圭, 金杭, 高榮蘭, 西山雄二

2010年3月3日、韓国・延世大学にて国際ワークショップ「批評と政治」が実施された。これまでも延世大学韓国学術研究院とUTCPは、主に若手中心で共同主催でワークショップを2回実施しており、今回で3回目を数える。

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(中島隆博、白永瑞、金杭)

基調講演 中島隆博「批評と道徳」

冒頭で引用されたのは、レヴィ=ストロースが「マルクス主義の批判」と「仏教の批判」を重ね合わせ、双方を「人間の解放」とする一節である。「人間の条件の表面に現われた意味が消滅する」地点を見定めるため、この人類学者は「自然」との接近を通じて「当座のモラル」を見い出そうとする。レヴィ=ストロースが示すのは、マルクス主義とカント的なモラルの問題との格闘であり、中島は日本の文脈に関連づけ、戸坂潤と梅本克己の試みを参照する。梅本は倫理的主体性論争を通じて来たるべき人類の道徳を探究し、和辻の国家主義への批判を通じて自然との和解を見い出そうとする。レヴィ=ストロースと梅本はともに人間主義の限界を超えて、より根源的な自然との関係に向かうことで、マルクス主義の批判=モラルを探究したのである。(以上、文責・西山雄二)

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(パク・チンウ、高榮蘭)

高榮蘭「HIROSHIMA・光州をめぐる記憶と連帯の表象―」

9・11以後、「核」という言葉は、未来の「危機を取り締まる」ための「先制攻撃」を可能にする役割を担ってきた。日本においても、6者協議の問題が浮上し、「北朝鮮の核」の問題に注目が集まっている。これは、朝鮮半島の問題について、日本がようやく「当事者(・・・)」として名乗り出たことを意味する。このような状況だからこそ、1981年の小田実『HROSHIMA』(講談社)に注目する必要があるだろう。この作品は、被爆者として、朝鮮人・米国人・中国人など多様なアイデンティティを持っているものを設定することによって、「被爆国日本」という言葉を媒介に、ナショナルヒストリに還元されてきたいわゆる「原爆」物語を解体させたと言われている。小田実『HROSHIMA』には、1982年に、「文学者の反核声明」(中野孝次・大江健三郎・小田実など)メンバーと、吉本隆明、中上健次(「鴉」『群像』1982・3)らとの間で起きた論争などが接合されている。しかも、この論争には、当時の韓国の民主化運動への連帯(金大中の救出運動・光州民主化運動など)・ベトバム反戦運動への記憶などが附随している。本発表では、『HROSHIMA』を手がかりとしながら、1980年代初め、「日本語」という言語に刻まれていた東アジアをめぐる「連帯」と「暴力の記憶」の問題について分析し、「戦後」言説の遠近法について考えたものである。(以上、文責:高榮蘭)

朴ジンウ「批判と暴力ー現在における「政治の犯罪化」現象をめぐって」

本発表は、「暴力」というテーマをめぐる新たなパラダイムを模索するためのものである。1990年代以後、様々な学問領域において、政治や権力、法の背後に潜んでいる暴力に対する批判的論議が展開されてきている。とりわけ、21世紀に入ってから、暴力は、新しい政治的パラダイムとして再浮上しているが、その過程で、政治と暴力の境界、合法と非合法の境界の曖昧さが露呈された。例えば、昨今、政治活動が、不法と犯罪に同一化される傾向は、そのような流れのあらわれであると言えよう。本発表では、いま、「政治の犯罪化」という傾向がどのような形態で現前してきているのかについて問い、それを暴力に対する批判的な議論を進めるための手がかりにしたいと思っている。(Park Jinwoo、翻訳:高榮蘭)

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(Hui-Sok Yoo, Richard Reitan)

Richard Reitan (Franklin & Marshall College) “Satire and the Limits of Critical Practice”

Reitan approached “critique” not simply as an analysis of some other ideology or value system, but as a historically specific reflexive practice that seeks to gauge the historical contingency and epistemological limits of the position from which the critique itself is issued. Focusing on the satirical works of Kanagaki Robun and Kawanabe Kyosai from Japan’s early Meiji period (1868-1912) and of Kim Ji-Ha from South Korea’s Fourth Republic (1972-1979), Reitan considered the evocation of laughter as a means to open up a possibility for questioning and de-naturalizing the object of their critiques. Importantly, these authors (particularly Robun and Kyosai) self-reflexively directed their critical laughter at themselves as well, suggesting an awareness of the contingency of their own positions. Reitan stressed the need for such self-reflexivity today as we engage in our own critical practice.

Hui-Sok Yoo (Chonnam National University) “The Challenge of Rancièrian Aesthetics”

This presentation addressed the “malfunction” of critique among South Korean literary scholars today. In their enthusiastic reception and uncritical application of Western theory (that of Rancière, Zizek, etc.), these scholars, Yoo maintained, are contributing to the decline of indigenous forms of critique that are more explicitly political than the new forms of literary criticism for which “everything is political”. Yoo devoted particular attention to Rancière’s “The Politics of Aesthetics” which adopts a kind of postmodern axiology and thereby places analyses of artistic excellence off limits and functions to obstruct critique. Yoo argued against this axiology and the way Rancière’s aesthetics is uncritically applied to discredit the heroic phase of 1970s and 1980s Korean intellectual and literary life.(written by Richard Reitan)

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(チョン・チョンファン、西山雄二)

西山雄二(UTCP)「大学における評価と批判」

ここ20年来、進学率の向上と大学数の増加にともなって、大学の経済効率性や公益性がさまざまな視点から問われ、評価されるようになった。評価のアポリアは評価者と評価方法の二点、つまり、「誰が評価するのか、何を評価するのか」という問いに集約される。「誰かが何かを評価する」という専門家同士の評価方法があり、他方で、第三者による外部評価が推奨されるにつれて、「誰でもない誰かが何でもない何かを評価する」方法が洗練されていくのだ。評価の動力源をなすのが、パフォーマンス、エクセレンス、国際性である。とりわけパフォーマンスとエクセレンスという柔軟な尺度によって、その理念や目的、内実、構成員、歴史、予算などを異にする組織の評価が可能となる。では、大学、とりわけ人文学がこうした評価の体制に対して批判の余地を残しうる可能性はあるのか。それは、テクストの精緻な読解から生じる特異な複数的時間性、「できない」から「できる」への移行ではなく「しないことができる」という力――「非の潜勢力」(アガンベン)――の蓄積、生きることの臨場感や立体感に結びつく情動であるだろう。

チョン・チョンファン(成均館大学)「ネオリベ的な大学制度編制におけるライティングと「学振」システム」

韓国の人文学におけるライティングの問題は大学と学問制度の総体的な問題そのものである。企業国家―高等教育市場―大学という関係が、新自由主義的な競争を重層的に(大学間、研究者間、学生間で)加速させ、ライティングの様相を根本的に規定するのだ。さらに重要で厄介なことは、大学とライティングの桎梏を批判する「文章を書くこと」もまた、こうした関係のなかで内在的にしか実践しえないという点である。発表では、日本と比べてより深刻な韓国の大学事情、人文学の困難が浮き彫りになった。興味深かったのは、富裕層(大企業のCEO、高級官僚など)向けの人文学セミナーが人気を博する一方、ホームレス・性売春被害者・収監者などが人文学講座に耳を傾けている事実である。大学の研究教育はこうした人文学の資本主義的二極化の狭間で、統制された画一的な競争に駆り立てられており、そうした状況が研究教育の健全さを損ねているようである。(以上、文責:西山雄二)

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(蘇栄炫、平倉圭)

平倉圭(UTCP)「脱差異化機関――ジャン=リュック・ゴダールと批評の不能」

ゴダールは「反ユダヤ主義」者であるという疑念が、近年公に語られている。きっかけは、2004年の映画『アワーミュージック』において、ナチス・ドイツ/ユダヤの関係と、イスラエル/パレスチナの関係が「類似」した写真によって提示されたことである。本発表は、映画経験において「類似」と「同一性」の境界が認識依存的なものであることを示したうえで、異なるものの「脱差異化」によって駆動するゴダールの映画的思考をデジタル操作を駆使することで分析し、その思考が、「切り分けること」としての言語的「批評」の可能性そのものを危機にさらすことを明らかにした。

蘇栄炫(延世大学)「近代批評の終焉」

日本と同様、韓国の出版界は危機的な変動の時期に突入している。ウェブマガジン・ブログの隆盛、省察的態度の後退、グローバル経済に巻き込まれることによる安定した基準の消失といった状況のなかで、「批評」の場はいったいどこにいくのか。本発表は、柄谷行人『近代文学の終わり』を踏まえつつ、韓国近代史において「脱植民‐国家形成」の企画と連動しながら、来るべき個人と共同体の形成を意識して行われてきた「批評」が、いま一つの生涯を終えようとしていることを明らかにし、ジャンル変種的な文学生産物と直結した現在の文学と対応する、ポスト批評の必要性と可能性を示した。(以上、文責:平倉圭)

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概観
韓国側の配慮された人選のおかげで、各セッションの日韓ペアのマッチングは大変上手くいき、司会役のキム・ハン氏の巧みな采配によって会はスムーズに進行した。閉会の辞で中島氏が述べたように、「批評の必要性という点で、私たちはすでに問題の地平を共有している」ことを実感させる一日だった。日本と韓国とは、政治的・社会的背景の共通性、問題関心の共有、学問状況の類似、理論的の流行の同時性などから、学術交流がしやすい状況にあるのではないだろうか。延世大学との「批評」ワークショップは継続され、本年9月に続編の「批評と歴史」が東京大学にて開催される予定である。

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