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【報告】Hans Ruin, “Technology as Destiny in Cassirer and Heidegger: Continuing the Davos Debate”

2009.12.22 岩崎正太, 技術哲学セミナー

去る2009年11月16日、UTCP先端教育プログラム「技術哲学セミナー」の一環として、スウェーデンからHans Ruin教授(Södertörn University College, Stockholm)をお迎えし、“Technology as Destiny in Cassirer and Heidegger: Continuing the Davos Debate”と題された講演会が開催された。

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1929年の春、スイスのダヴォスにおいて新カント派のエルンスト・カッシーラーと現象学のマルティン・ハイデガーが、カント解釈をめぐり議論を展開させた。その後、両者は奇妙にも〈運命としての技術Technology as Destiny〉という問題圏にそれぞれの仕方で向かうことになる。Ruin教授の講演は、いかに技術にかんするハイデガーの思考がカッシーラーに対するダヴォス討論から続く応答であると同時にカッシーラーの議論をさらに深めたものであるのかを、両者の諸論考の検討を通じて探求するものであった。詳細な講演内容をここで再現することはできないが、その一部を報告したいとおもう。

Ruin教授によれは、カッシーラーの“Form and Technology (Form und Technik)[1930]”とハイデガーの“The Time of the World Picture (Die Zeit des Weltbildes)[1938]”において、近代の技術(technology)に対する両者の分析は驚くほどに一致しているという。両者とも、近代における技術を、自然を支配したいという人間の欲望の単なる延長としては考えておらず、自然を代理=表象させ、意識と自然との関係を組織化するシステムとしてとらえている。さらには自然と精神の理解に対する、技術がもたらす疎外を両者とも共有している。人間に深く浸透している近代の技術は、もはや〈運命〉といえるのだ。

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しかし、このような技術の挑戦にたいして、哲学がいかにして立ち向かうべきかという問いのまえで、両者は違った道を歩むというのである。カッシーラーの答えは、カント的な実践的-目的論的合理性へと舞い戻ることにより、文化的価値として技術それ自体のなかから自由を取り戻そうとするものであった。しかし、Ruin教授によれば、ハイデガーにはそのような解決方法は受け入れ難いという。なぜなら、ハイデガーにいわせれば、カッシーラーが主張するような合理性さえも技術によってすでに見越されているからである。
ハイデガーは“The Question Concerning Technology (Die Frage nach der Technik)[1953]”において、近代技術のなかに自然がそのなかに含まれるエネルギーを顕わにするよう強要され、取り出されたエネルギーが何かほかのもののために用立て(bestellen)られるという不断の連鎖の体制を見抜いた。そして、人間もまた例外なく用立ての巨大な連鎖に巻き込まれているのである。すべてを単なるエネルギー供給源として絶えざる用立てへと駆り立てるこの連鎖の体制こそが技術の本質であり、それをハイデガーは「立て-集め(Ge-stell)」と名づけたのだった。技術はすでに人間自身の一部となっており、けっして逃れることはできないのである。

Ruin教授は、このようなハイデガーの考えのポイントは、技術の本質との新しい関係をただ諦めるのではなく、むしろ積極的に探し求め開拓することであるという。そして、巨大な力をもつ現代の技術を前にして哲学にいま求められているのは、ハイデガーの指摘するように、技術はすでに人間自身の一部となっていることを前提とした議論であることが改めて指摘されるのだった。

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なお、当日は学内外から多くの方々にご参加をいただき活発な質疑応答が行われた。ひとつひとつを詳らかにすることはできないが、なかでも「科学技術による人間の疎外だけでなく、逆に科学技術に対する人間性の積極的な適応の可能性」や、「半世紀以上も前に発表されたハイデガー技術論の現代への参照可能性」、そして「(科学)技術と詩の問題」について議論が展開された。

(報告:岩崎正太)

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