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【報告】木村忠正講演会「集合知、あるいは、新自由主義の文化的論理~Wikipediaにみる社会知の変容とネットワーク社会としての日本社会~」

2008.12.15 石原孝二, 木村忠正, 村田純一, 吉田敬, UTCP

 12月2日、事業推進担当者の木村忠正氏による講演「集合知、あるいは、新自由主義の文化的論理~Wikipediaにみる社会知の変容とネットワーク社会としての日本社会~」が開催された。本講演会はUTCPの第一部門「技術・情報・脳」内での協働体制を整備し、今後の研究活動における相互の連携を促進するという趣旨のもとで開催されたものである。

 今回の講演は、ウィキペディア(Wikipedia)をはじめとするいわゆる「Web2.0」という社会潮流に見られる集合知の在り方を分析し、その可能性を特に日本社会の文脈に照らしつつ探求するものであった。

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 木村氏はウィキペディアを分析するにあたり、組織の構成原理として「ガバメント原理」と「ガバナンス原理」を区別する。ガバメント型の社会組織とは、法制度による拘束と中央政府によるその執行・強制を頂点として編成される中央集権的な組織である。これに対して、ガバナンス型の社会組織とは、命令や強制ではなく、主体性・自発性・公益性に基づき、情報公開、目的意識共有により柔軟に活動を行う開かれた組織である。

 百科全書を典型とする従来の知識編纂はガバメント原理に基づいて行われていたのに対し、ウェブ上の百科事典であるウィキペディアはガバナンス原理によって貫かれている。ウィキペディアでは、ネットにアクセスできる者であれば誰でも自身の意志に基づいて自由に記事編纂に参加でき、ひとつの記事をそうした個々人の編集作業の集積として構築してゆくことができる。また、その知の在り方は、百科全書のように相互排他的な階層的分類による系統樹をなすのではなく、関連性に基づいた相互参照的なカテゴリー生成を特徴とする動的なものである。

 木村氏によれば、ウェブに見られる様々な集合知は次の三つの要素に分解できるという。それは、「三人文殊知」、「フィードバック知」、「マイニング知」である。

 三人文殊知とは、多様な人々が自由にアクセスし、編集を積み重ねることにより、ある事柄に関する適切で十分な記述を集積し、共有するという知の形態である。ウィキペディアはその典型例であろう。こうした知は参加者の数に応じて強力な編集力を生み出しうる。次に、フィードバック知とは、不特定多数による集合的活動を、当事者にとって一定の意味をもつ数値情報に変換して提示し、それによって当該の集合的活動に対する評価を行うという知の形態である。ブロガーやレヴュアーに対する評価がこれにあたる。こうしたフィードバック知は、当該の集合的活動の参加者に対する心理的報酬となり、参加を促進するインセンティヴの創出につながる。最後に、マイニング知とは、不特定多数の集合的活動をデータ・マイニングすることにより、当事者たちは知らないがシステム運営者は知ることができる、あるネットワーク行動の集積がもつ特性や意味、法則性を発見するという知の形態である。ウェブにおけるマイニングはアマゾンやグーグルなどにおいて広く行われており、ビジネスにおける重要な富の源泉とみなされている。

 木村氏は、これら「三人文殊知-フィードバック知-マイニング知」の相互連関が21世紀の社会知を構成し、こうした社会知の動的な生成と変遷が人々の関心(attention)をめぐるゲームとして社会的現実を織り成してゆくと述べる。こうした状況下においては、価値や主体といったものは集合知をめぐって創出される関心の集積へと変容される。木村氏は、ポストモダニズムの言説が、逆説的に、こうした現象を必然的なものとみなす新自由主義の文化的論理に加担しているのではないかと指摘する。そして、自らの文化的状況に応じて集合知の在り方を熟慮的に選び直す必要性を強調する。では、日本の文脈においてわれわれはこうした集合知とどのように付き合い、どのような選択を行うべきなのだろうか。

 木村氏は、日本社会における情報ネットワークの利用様態には大きな課題があると指摘する。それは第一に、集合的活動を生み出す際に関心を集めるトピックが著しく偏っている点であり、第二に、こうした活動が高い匿名性のもとに行われている点である。木村氏はこれらの点について自らの調査結果を交えつつ分析を展開してゆく。

 ウィキペディアの国別の項目編集回数を統計的に解析すると、日本語版においてはアニメ、ゲーム、テレビ番組に関する項目が上位の大半を占める。こうした傾向に示されているように、日本のネットメディアにはマスメディアを情報源としつつ、それを基盤に活動を行うという強い「間メディア性」が見られる。こうした状況は、マスメディアに対して批判的な態度を示しつつも、結局のところそれに依存してゆくという、日本のネットメディアが抱えるある種の共依存関係へと結びつく。また、木村氏は、日本では社会的スキルに対する自己評価の低さ(自分は対人的なコミュニケーションが苦手であると考える、など)が際立っていると指摘する。こうした自己評価の低さは、一般的な社会的信頼感の低さから派生して、ネット社会に対する極度の不信感へと結びつく。そして、こうした不信感によって、実名での活動を抑制する空気がネット社会のなかに醸成されてゆくのである。

 以上の分析を踏まえ、木村氏は次のように現状の診断を行う。日本社会においては、現実社会そのものというよりは、メディアを通じて形成される現実社会の「イメージ」を主要な参照対象としてネット上での活動が展開されており、しかもこうした活動への参与は現実社会とは切り離された匿名性という様態において遂行されている。これらは相まって、ネット社会と現実社会との間におけるダイナミクスの不在という結果を招いている。したがって、われわれにとっての課題は、われわれが志向する集合知のかたちを描き出すとともに、ネット社会と現実社会との間にダイナミクスを生み出し、集合知を有益な仕方で生成・循環してゆく回路を整備することにあると言えるだろう。

 講演に続いて、石原孝二氏(事業推進担当者)、門林岳史氏、吉田敬氏による特定質問、および全体討論が行われた。そこでは、「フィードバック知はある種の迎合主義を醸成するのではないか」、「マイニング知はむしろ自律性を奪う知の形態ではないか」、「ウィキペディアは古典的主体を前提としているのではないか」、「ウィキペディアは日常知の単なる延長に留まるのではないか」など、多岐に渡る質問が展開された。

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 木村氏の応答のなかで特に印象深かったのが、日本社会は他国に比べ不確実なものを潜在的に抑圧する傾向にあるという指摘であった。そうした傾向は、不確実なリスクに対する見積もりを極端に押し上げ、そうしたリスクの伴う活動への積極的な参与を阻害し、ひいては知の条件である自発性を失わせるという結果を招く。それゆえ、集合知の可能性を現実化するためには、不確実性に対する適切な評価を行い、過剰反応を抑制するという知的風土を醸成してゆく必要がある。それはすぐれて科学技術倫理的な課題である。今回の講演を通じて見出されたこうした課題は、今後UTCP第一部門が全体としての知的連携を築いてゆく上で極めて重要なものとなるだろう。

【文責・小口峰樹】

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