【報告】養護教諭が哲学するということ:セクシュアリティと哲学対話の可能性
2023年11月12日(日)、「養護教諭が哲学するということ:セクシュアリティと哲学対話の可能性」を開催しました。当日は、東京都立足立東高等学校の養護教諭2名(関本さん・伊丹さん)、西宮市立上甲子園中学校の養護教諭(井倉さん)と教諭(大矢さん)、オーガナイザーとして堀越さん(2校の哲学対話研修やファシリテーターを担当)と梶谷先生、そして元養護教諭で現在は十文字学園女子大学にて養護教諭養成に携わっている柏木(報告者)が主なメンバーとして登壇しました。
今回のサブタイトルにもある「セクシュアリティ」ですが、多くの人がこの言葉を聴くと「性」にかんすることを思い浮かべるのではないかと思います。それは養護教諭の多くも同様の感覚を抱いているかもしれません。実際に登壇した(現・元)養護教諭たちも当初は「性教育」を切り口に実践を積み重ねてきました(上甲子園中学校の実践については2022年2月27日のシンポジウムの報告をご覧ください https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2022/04/sexuality-education-through-ph/ )。しかしながら、「セクシュアリティ」とは必ずしも限局された「性(SEX)」の内容にとどまっているのではなく「一人ひとりの生き方や在り方」をも包括している意味を持っています。そう考えるのであれば、本シンポジウムの案内の際にも書いたような( https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/events/2023/11/post_283/ )保健室で繰り返される子どもたちとの対話の中には、少なからず一人ひとりのセクシュアリティにかんするものが含まれている、ということになります。
今回のシンポジウムでは、プライバシーにかんする内容は伏せながらも、学校での具体的なエピソードを交えて、どのような場面において/どのようにして養護教諭が哲学しているのか、について話を深めていきました。シンポジウム内では、不登校の事例や性に関する指導、日常の保健室対応の話題を中心として様々な例が出ました。それらを大きく分けると「養護教諭が哲学する」ということは以下の2つの視点に分けられるのではないかと思います。
①子どもたちと「哲学する」
(案内でも書いたような)たとえば、「生きているってどういうこと?」「「好き」の気持ちってどんな感じ?」「自分のことを大事にするって?」「生理って恥ずかしいものなの?」といった一見素朴な問いだけではなく、友人関係のトラブルや家庭の問題、心身の不調を話に来室してきた生徒との対話の中にある様々な問いを通して哲学する機会は多いのではないかと思います。
登壇者の一人である伊丹さんは、足立東高校に異動してきたことがきっかけで「哲学対話」と出会うことになりました。伊丹さんは「(養護教諭の職務としての)健康相談」に苦手意識を抱いていたそうです。それは、養護教諭に相談したくて来室する生徒たちは「何らかの答えを求めている」にも関わらず、自らの力量不足により生徒の求めている答えを提示できない対応/状況があり得ることに強いプレッシャーを抱いていたから、ということでした。答えを提示できない、それでは相談に来た生徒にとって問題の「解決」にはつながらない/それは生徒たちから求められている対応ではない、という考えが根底にあったからゆえのことでした。「生徒の話を聴き、共感し、受容し、最終的には問題を解決し、きちんと指導ができる養護教諭」が自らの存在意義として周りの教員や保護者からも期待されていると感じ、それが養護教諭としての専門性を遺憾なく発揮するために必要なことだと信じて疑わなかったことから、そのように対応できない自分自身の力量に葛藤していたそうです。それゆえ、初めて「哲学対話」を体験した時には、今まで自分が保健室対応において大事にしてきた対応とまるで真逆の在り方(問いに対して自由に考えを伝え合い、互いに聴き合い、「結論/正解」を出さずにまとめないで終わっていく)に一種の怖れのようなものを感じたとのことでした。しかしながら、哲学対話実践を生徒達と重ねるにつれ、「健康相談」でもその在り方を大事にしながら対応することが一つの「正解」なのでは、と思い至り、自らの中にポジティブな変容が生まれたと話してくださいました。「生徒たちに対して、解決策となるような「答え(のようなもの)」を一方的に与えるのではなく、目の前の生徒と共に考え、互いの気持ちを話し、そして生徒が心を整理しながら保健室を後にする。このプロセスこそが、その生徒にとっての「答え」に近づく一歩になっているのではないか。その子の抱えているであろう問題の背景を一緒になって考えていくこと、これも一つの健康相談の在り方なのではないか、と思うことができるようになった。」伊丹さんのこの言葉からは、「養護教諭が哲学する」という行為が、新たな職務として(また在り方として)付与されるべきものではなく、むしろ日々の職務において既に当たり前のように行われていたこと(それは時に自らの力量不足として自分を責めてしまっていた対応の中に「既に在った」ということ)を示唆しているのではないでしょうか。
伊丹さんの言葉を受けて、「共感を超える」という話題にも拡がりました。子どもたちの悩みや不安などに対して、「そうだね、辛かったね」「それは大変だったね」と共感することは当然ながらいわゆるカウンセリングマインド(スキル)として重要な一方で、共感で止まってしまう/共感の先に進めないことが時として歯がゆい、ということに登壇した養護教諭たちは悩んでいました。そんな時、「哲学的な対応(問いを中心とした対応)」は一見、共感のような形で寄り添っているようには受け取られないかもしれないけれど、他方でその子にとっての「真理」に向かって一緒に考えていく姿勢そのものが、「共感を超える」一助になるのではないか、という展開になったのが印象的でした。
②養護教諭として自分自身と「哲学する」
関本さんや井倉さんからは、子どもたちと「哲学する」ことを通して、自らの養護教諭としての在り方についても考える(哲学する)機会が多くなった、という話が出てきました。「なぜ、子どもたちの心身の悩みが養護教諭に集中するのか」「保健室だけが居場所、ということは、その子にとって教室や学校がどのような場所であるのか」「養護教諭として存在することは、本来どのような意味を持ちうるのか」。そのような視点から養護教諭の置かれている状況や、学校保健として位置づけられる課題について考えた時、それが本来は学校全体で引き受けなければならない(養護教諭/学校保健の課題として矮小化してはならない)課題であることに気づく、というわけです。それはおそらく、これまで自明のものとして引き受けてきた(養護教諭の)職務を改めて捉え直すことで、養護教諭として握りしめていた「養護」をより柔軟な形で引き受けられる、ということでもあるかもしれません。
また、今回の登壇者の中には教諭として大矢さんが参加してくださいました。大矢さんは養護教諭ではありませんが、だからこそ今回のシンポジウムのテーマにおいて必要不可欠な存在でもありました。多くの学校において、養護教諭と教諭は「専門性の異なった職種」としてお互いを認識しています。それは学校現場に限らず、文部科学省のスタンスとしても同様です(「教育をつかさどる」教諭と、「養護をつかさどる」養護教諭として法律にも規定されています)。多くの学校では、教諭と養護教諭は互いの立場を尊重し合い連携し合いながら、子どもたちの課題に向き合っていくことが大事なこととされています。一方で、そのような認識が、時に子どもを理解する際の齟齬や軋轢を生じさせ、協働を妨げる要因になってしまうことも否めません。
大矢さんは確かに職種で区別するのであれば教諭であり「教育をつかさどる」人です。しかしながら、大矢さんのこれまで抱いてきた悩みや迷いの多くは、養護教諭のそれと何ら変わりなく、むしろ普段の教科指導等において、正解というゴールありきのスタンスが養護教諭以上に求められることに葛藤していました。(教諭としての)大矢さんが「哲学する」ということは、もしかしたら、「教育(をつかさどる教諭)」と「養護(をつかさどる養護教諭)」のあいだにある「専門性の違い」という前提それ自体を問い直す契機になるのではないか、そして大矢さんの(ような)存在によって、養護教諭たちもまた、自らの在り方を対象化することが可能なのではないか、と感じました。
本シンポジウムの構想自体は、確かに3年前に始まった上甲子園中学校での実践にあるのだと思います。そして上甲子園中学校での実践に影響を受け、足立東高等学校での実践も始まりました。他方で上甲子園中学校での実践の契機となったのは、関本さんの前任校である都立大山高等学校での(今回のオーガナイザーである)堀越さんとの哲学対話実践です。このように振り返ると、単なる実践としての影響それだけでなく、実践に至る背景、すなわち日々の職務を通して彼女たちが抱いていた想いをカタチとして共有してきたその過程にこそ、「(前述した2つの視点を含めた)養護教諭が哲学すること」の意義が多分に含まれていたのだろうと思います。
最後に余談にはなりますが、シンポジウムの構想をさらにさかのぼれば、報告者(柏木)が養護教諭として勤務していた10年程前に行きつきます。「自分は「養護」教諭なのか、それとも養護「教諭」なのか」「養護と教育の関係性を一体どのように捉えれば良いのか」、今となってはそのような問いに応答する言葉を多少は持ち合わせているものの、当時は漠然とした葛藤を抱きつつ、自らの(そして養護教諭の)存在に意義を見出せない状況でした。その頃、試行錯誤しながら積み重ねてきた実践(詳細は紙幅の都合上割愛しますが)や当時の自分の置かれていた状況に対し、もしも今、名前を付けるのであれば、私はおそらく「哲学していた」のだろうと思います。今回、このようなテーマのもとでシンポジウムが開催されたことを当時の私が知ったらさぞや驚くことでしょう。
生徒に対して適切な「正解」を提示できないことは決してダメな養護教諭ではないということ、答えが出ずに悶々としている悩みの中に、自分の行動を/養護教諭の在り方を/学校という組織を変えることのできる大きな力が秘められていること。「哲学する」という言葉を知らなかった過去の私のような養護教諭に、少しでも私たちの想いを届けられたら幸せです。