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【報告】シンポジウム「哲学対話を通じたセクシュアリティ教育の試み」

2022.04.18 堀越耀介, 柏木睦月

2022年2月27日(土)、UTCPシンポジウム「哲学対話を通じたセクシュアリティ教育の試み」がオンライン形式で開催されました。

本シンポジウムでは、西宮市立上甲子園中学校で2021年度の一年を通して行われたセクシュアリティ教育の実践について「セクシュアリティ教育としての授業実践」「哲学対話としての授業実践」の二つの側面から、当校の養護教諭の井倉さんと教諭の大矢さんが報告しました。
 前提として今回の実践で大事にしていた考え方は「性(セクシュアリティ)は基本的人権そのものである」というものです。これは2009年にUNESCOがWHOと共同採択した「国際セクシュアリティ教育ガイダンス」の根底にもある考え方であり、いわゆる学校教育で行われがちな「性教育(=妊娠や出産、性感染症などを中心に取り扱う内容)」の範囲を超え、「自らの人生の中で賢明で責任ある行動をするために必要な科学的な知識とスキルを保障する」ことが重要視されています。
 上記の考えを受け、当校では、性についての科学的知識を伝えるだけではなく、ジェンダー平等やパートナーシップについての知識やスキル、そしてその時に主体的にどう行動していくのかについて自分事として一人ひとりが考える授業を実践することに重点を置くことにしました。また、そのような実践を通して生徒と教師の関係性も今までとは異なった形で組み替えられる可能性があるのではないか、という意図も含んでいたそうです。その際、普段の授業のように「(一つの)答えがある」ものではないセクシュアリティにかんする一人ひとりの考えを大事にしたい、という想いから、哲学対話を取り入れた授業を計画したということでした。
 「セクシュアリティ教育」と「哲学対話」、2つの新しい実践を同時に行おうとしていたため、大事にしたのは「教員に対する土台作り」でした。具体的には、前年度の終わりから同僚の教師たちに自分たちが来年度取り組みたいと思っているセクシュアリティ教育のことや哲学対話について話をして仲間を増やしたこと、自分たちでも資料や文献を集め知識を深めていき、それを基に教育委員会の研修担当にも相談に行ったこと、職員会議で実践に向けての要望を出した際には年間の授業計画の骨子も提案したことなどが挙げられました。
 次に、実際に行った教員研修とそれを受けて行われた授業実践について紹介してもらいました。授業を行うにあたって、教員向けに行われた研修は計3回(①性の多様性について②(教員自身の)哲学対話体験③哲学対話の実践に向けたファシリテーター体験)、それに加えて有志で実践前の質問会や実践後の検討会(座談会)なども行い、教員に対するアプローチを意識的に多く行っていたのが印象的でした。前述したように、教員に対する土台作りに丁寧に取り組むことが、結果として生徒たちへ一番還元される授業実践につながるという想いからでした。
 実践前は「本当に生徒がこのような内容を理解できるだろうか」「行き過ぎた内容になっていないか」「結論をまとめないなんてちゃんと生徒に伝わるのか」といった不安も教員から多く聞かれたようでした。しかし、実際に研修を経て授業を行ってみると、想像以上に生徒の方が柔軟な考えを持っていただけでなく、教員側が「失敗」だと思っていた部分を好意的に受け取っていたり、生徒には難しくて無理だろうと教員が思い込んでいた部分が実際は深いところまで考えていたりといった発見があったようで、苦戦しながらも哲学対話に挑戦した先生たちからは次年度に向け継続していきたいという声が複数挙がったということでした。

【フロアも含めたディスカッション】
 上記の報告を受け、後半のフロアも含めたディスカッションではいくつかのテーマが話題となりましたが、今回は以下の二点を紹介します。
 一点目に「セクシュアリティ(性)教育を人権教育に位置づけたこと」に対する意義についてです。大矢さんからは、子どもたちにとってより身近な人権としてのセクシュアリティ(性)を自分事として考えることが、難しいように思える「人権」について考えるきっかけになるのではないか、例えばこれまでは「自分には遠いな」とされてしまいがちな海外での貧困や戦争問題、ひいては同和問題や差別にかんするテーマについても子どもたちが自分たちと関係のあることとしてつなげて考えられるようになるのではないか、というお話がありました。
 二点目に「教員に対するフィードバック」の大切さについてです。今回、哲学対話の授業実践を終えた後に有志ではありましたが事後検討会の時間を持つことにしました。普段の授業とは異なり、「まとめなくていいと言われていたけれど不安でつい、まとめようとしてしまった」「沈黙の時間につい話してしまった」「自分はうまくできると思っていたのに実際にやってみると全然うまくできなくてあの授業は失敗だった」などの率直な感想を教員たちが吐露していくと、年度を通じて哲学対話にかんする研修の講師を引き受けてくれた堀越さんをはじめ、その他の参加者から「○○な部分がとてもよかった」「それは~な側面もあるから決して失敗ではない」「(生徒の)誰それがこのような発言をしていたのが印象的だった」などの声が挙がり、当事者(である教員)では中々見えにくい良かった点が全体で共有されていきました。そのようなリフレクションを行う中で、参加した教員一人ひとりが自分の中で何らかの「手応え」を感じていたようで、教員に対する事後検討の場がいかに大事な時間であるかを実感しました。

【上甲子園中学校の実践から示唆されること】
 今回、上甲子園中学校の一年を通した実践から提起された「哲学対話とセクシュアリティ教育の可能性と課題」は以下のようなことが挙げられるのではないでしょうか。

(1)「教師」であることの問い直し
①セクシュアリティ教育の観点から
 今回、哲学対話のテーマでもあった「セクシュアリティ(性)」は、生徒だけでなく教師自身も自らのこれまでの生き方や在り方から創り上げてきた考えや価値観と向き合うことを余儀なくされました。教科書等にある「正しい」知識を教授していくものとは異なり、教師としてではなく一人の人間として自分自身の「価値観」をも揺さぶられる体験をしたことによって、いわば「教師」という肩書から(半ば強制的な形で)解放されることになった人も多かったようです。そのことに対する葛藤が時折垣間見えた実践だったような気がします。

②哲学対話の観点から
 教師という職業は(どの職業でもいえることかもしれませんが)「教師の役割」を果たしていくことで「教師」になっていく部分もあると思います。他方で「(生徒の前では)正しいことを言わなければならない」「間違ってはいけない」「「答え」を知っていなければならない」といった思いに駆られてしまうこともあるかもしれません。 しかし、哲学対話の場では教師が生徒と「ともに」、答えの分からない、答えの知らない問いについて考えることになります。それはすなわち、これまでの「教え(知っている・知らなければならない者)=教師」と「教えられる(知らない者=生徒)」という関係性に揺らぎが生じるだけでなく、組み換えが起こる可能性があることでもあり、これまで教師自身が抱いてきた「教育観」や「教師観」の変容が求められるということでもあるかと思います。

(2)「保健室」「養護教諭」を超えて
 今回の発表において、養護教諭である井倉さんが「保健室では生徒の声を待って聴こうと心掛けて対応していますが、この姿勢は保健室以外でも必要な視点だと思います。「生徒の声を聴く」姿勢は保健室だけでなく、全ての教師が学校全体として持っておくことが、生徒がより過ごしやすい場所となれると考えます。」と発言しました。
 「哲学対話がおこなわれている教室は保健室に似ている」「保健室は学校的な秩序にうまく順応できない生徒たちが時々逃げ込める「隠れ家」となりうるし、学校的なものからしばし離れて安心して休める「休息所」となりうる」(土屋2019)というように表現されることがありますが、実際に多くの人が抱く「養護教諭」や「保健室」のイメージもおそらく似たようなものかと思います。学校においても、心や体のことについては(主として)養護教諭の職務とされ、「養護の先生に聴いてもらっといで」という教師の発言や「何かあれば保健室に相談においでね」という養護教諭自身の発信が、保健室という空間や養護教諭の存在意義を創り出しているともいえるでしょう。
 しかし他方で、上記の現状はこのような側面から考えることはできないでしょうか。それはすなわち、「学校としての「枠」そのものへの懐疑」です。保健室が「隠れ家」「休息所」とならざるを得ない状況とは、どのような「学校」「教室」であるのか。「安心して休める」という事実をどのようにとらえる必要があるのか。そのような場所や職務は「保健室」や「養護教諭」に限局されても良いのだろうか、ということです。

 従来の「「性」教育」は「子どもたちに何を教えるか、何をすべきか」といった視点に偏りがちでした。子どもたちの発達や思春期の心身の成熟に合わせて必要な正しい「知識」を教授すること、その一方で「寝た子は起こさない」指導に配慮すること。教師自身も大事なことだとは認識しつつも「どう教えたら良いのか分からない」「何となく恥ずかしい」と忌避しがちなテーマであったように思います。今回、上甲子園中学校の実践でも大事にしていたUNESCOの「性(セクシュアリティ)は基本的人権そのものである」という考え方は、前述の「何を教えるか、何をすべきか」(≒TO DO)の視点に加え、「一人ひとりがどう在るのか」(≒TO BE)という視点が大事にされています。
 本実践の最大の特長は、従来の「「性」教育」の範囲を超え、一人ひとりの生き方、在り方(=性(セクシュアリティ))を「人権」としてとらえ、人権教育に位置づけたことそのものだと思います。加えて、哲学対話の手法を取り入れ、まさに一人ひとり(教師も含め)が自分事として、かつ答えのない問いに向き合う実践に昇華させたということです。(人権教育としての)セクシュアリティ教育を「学校」という空間で「教師」が行うことがもたらすものの可能性を垣間見るとともに、一年間を通して向き合ってきたプロセスそのものが「TO BE」の視点をより色濃くしたのではないかと思います。

(柏木睦月)

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