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【報告】2023年度キックオフシンポジウム「共生の希望 Imagining New Subjectivities」(前半)

2023.08.06 梶谷真司, 堀越耀介, 宮田晃碩, ライラ・カセム, 山田理絵, 中里晋三

 2023年6月10日(土)13:00〜17:00、2023年度UTCP上廣共生哲学講座のキックオフシンポジウム「共生の希望 Imagining New Subjectivities」が開催された。対面とオンラインのハイブリット方式で開催され、駒場第一キャンパス内の会場では20名ほどの方にご参加いただいた。
 以下では、第一部の牧野智和氏(大妻女子大学教授)の講演について、山田理絵(UTCP上廣共生哲学講座特任助教)が、第二部のアーロン・ベナナフ氏(シラキュース大学助教)の講演と参加者とのディスカションについて、宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座特任研究員)がそれぞれ報告する。

 はじめに、第一部に牧野氏に登壇していただいた経緯に触れておきたい。UTCPでは、センター長の梶谷真司氏、特任研究員の堀越耀介氏を中心に、宮田晃碩氏、中里晋三氏、ライラ・カセム氏が、学校、企業、地域、子ども、アートや障害に関わるさまざまなコミュニティで「哲学対話」という実践を行っている。詳しくは梶谷氏や堀越氏の書籍をお読みいただいたり、あるいはUTCPの哲学対話のイベントに参加して体感したりしていただきたいのだが、ごく簡単にその概要を紹介すれば、参加者全員が円形に座って、扱う「問い」をひとつ決め、その問いに関連することをお互いに発言しながら、問いに対する応答を考えたり問い自体を問い直したりする実践である、と言えよう。
 私自身はファシリテーターの実践をした経験はない。ただ、センターのメンバーが主催する哲学対話や、その手法が織り込まれるWSなどに参加し、哲学対話を実践しているスタッフの話をしばしば耳にしてきた。そんな中で私は、哲学対話ではどのようなことが起こっているのか、それは、他のさまざまなヴァリエーションの対話、WSとどの部分が重なり、どのように異なるのかが気になり、いつかこうしたテーマを扱いたいと思っていた。そして、その際には、様々な思考の枠組み、ことば、モノや空間と「自己」との関係を、歴史的な部分とフィールドとを往復しながら分析されてきた牧野氏をお招きし、ぜひ知見をご提示いただきたいと考えていた。2023年度の当センターのキックオフに合わせた、かなりタイトなお願いとなってしまったが、こうした経緯で(無理を言って)牧野氏のご登壇が実現する運びとなった。

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 第一部では、社会学者の牧野氏が「ワークショップと哲学対話/哲学思考〜その共通性/相違性を考える」というタイトルで講演された。以下では牧野氏のスライドとご発言を引用しながら、ご講演を再構成する形で議論を紹介したい。
 牧野氏が研究の対象としてきたのは、一般に自己啓発書と呼ばれるようなジャンルの書籍、学校建築、そしてワークショップやファシリテーションの技法など幅広い。その関心を貫いているのは、近代から後期近代社会における「自己」のあり方だ。特にミッシェル・フーコーの「主体化のテクノロジー」をキーワードのひとつとし、多くの資料を集めて言説分析と呼ばれるような手法で研究をなさってきた。
 例えば、自己啓発について考えてみよう。最近の本屋さんにいけば、自己啓発書は、人々の目につきやすい場所に並んでおり、多くの人が一度はパラパラとめくってみたり購入したりしたことがあるかもしれない。牧野氏は、そこに書かれている内容について「一体どういうことが書いてあるのか」、「どのようにして編集されているのか」、そして「読み手はこうした本をいかにして読んでいるのか」といったことを分析する。この時に特に氏が焦点を当てるのは、自己啓発書が、読み手を「どのような『自己』にさせようとしているのか」という問いである。
 また、建築空間を対象とした研究では、こんにちの新しい学校建築や公共空間を対象とした分析を行っている。このような建物には、たまり場、コミュニケーションスペース、ワークプレイスがある。ではこうした場所は、利用する人々の行動や思考に、いかにして直接的・間接的に関与しうるのだろうか。2022年に牧野氏が発表した著書『創造性をデザインする』(勁草書房)では、このような建築や空間と「自己」との関係が論じられている。
 そして、自己啓発書と建築・空間についての研究の交錯点ともいえるのが、「ワークショップ(以下WS)」や「ファシリテーション(以下、FA)」についての研究である。牧野氏によれば、WSやFAは「『自己』ではなく『他者/人々』の心身の何かを促進する技法」であり、このような方法が、例えば、公共空間(まちづくり)を中心に学校建築などでも「合意形成」や「巻き込み」の技法として用いられているという。

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 ご講演の冒頭で、「WS・FAとどう重なり、どう重ならないのかを考え、哲学対話の特徴について考えてみる」、「WS・FAが求められる社会的文脈から哲学対話を考えてみる」という二つの方向性を示された。そのうえで、まずWSや、FAについての歴史的側面や、それらを対象とした先行研究、牧野氏の分析内容についてご紹介いただいた後、哲学対話の位置づけについて牧野氏のお考えをお話いただいた。

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 そもそも、WSやFAはどのように広がっていったのだろうか? 牧野氏は、井上義和氏との共編『ファシリテーションとは何か』(ナカニシヤ出版、2021年)で論じた内容をもとに、まず日本におけるWSの歴史を紹介された。第二次大戦後、占領下での教職員研修の中で、当時のアメリカの共同的な研修の方法というものが紹介された。日本語では「研究集会」と呼ばれたが、これがいわゆるワークショップのことをさしていた。日本教職員組合の大会では、現在も「研究集会」という語が使われているそうで、こうしたかたちで現在にもその言葉が引き継がれている。他方で、歴史的には、日本で占領期が終わると、共同的な学びというのは広がらなくなっていき、「研究集会」という言葉はみられなくなっていったという。
 しかし、1960年代になると、アメリカのカウンターカルチャーの流れもあって、身体や共同性に目を向けようという動きが様々な領域で起こっていった。さらにこの動きが、1970年代以降、個人のレベルでも広がっていった。WSという語が頻繁にみられるようになったのは、1990年代のことで、書籍や雑誌の中で、まちづくり、人権教育、環境教育、学校教育などの文脈で登場するようになったそうだ。
 ではFAはどうだろうか?「ファシリテーション」という語は、先の流れのなかにはほとんど登場しないという。1990年代にはWSのファシリテーター論が語られるようになったが、「ファシリテーション」という名詞が登場するのは、2000年代を待たなければならなかった。この時期に、WSがビジネス領域に進出し、コンサルティングの技法などと組み合わされることがあった。このように、ファシリテーターの知恵が企業でも活かせるという認識が高まり「ファシリテーション」という名詞が使われるようになっていったという。
 現代では、WSやFAという語が日常的に用いられるようになり、また実践も無数に行われている。実践の場として、ひとつの大きな領域は、大学を含む教育の現場であろう。牧野氏も、ご自身の授業の中でアクティブラーニングを取り入れた授業を行うことがあるという。その背景には、牧野氏ご自身が、目の前の学生に対してより良い学びを提供したいという動機もあるが、同時に大学全体で(牧野氏のご所属先の大学だけではなく)アクティブラーニングを取り入れた授業を推進する動きもあるという。つまり、従来一般的であった講義中心の授業だけでなく、WSやFAなどを使った多彩な教育的手法を授業に取り入れることができるようになった一方で、そのような状況に人々が「巻き込まれ」るような状況も生じているのだ、と牧野氏は示唆する。

 では、「巻き込まれ」た結果、人々はどのような方向に向かっていくのだろうか。これを問うことは、WSやFAをめぐる人々のいとなみについて少し距離を置いた場所から批評することを含むわけだが、牧野氏は、ご講演の中で、WSやFAを批評することの難しさを三つの理由をあげて論じられた。
 一つ目の理由は、ワークショップが多様な領域で展開しており、それぞれの領域で固有の導入理由や展開の仕方があるからである。したがって、例えば学校教育におけるWSなど、ある特定の領域・文脈におけるWSの展開を批評しても、それはあるひとつの文脈におけるWS批評となってしまい、必ずしもWS一般への批評となるわけではない。
 これに加えて、二つ目の理由は、WSのルーツも多様であるからである。色々なWSのルーツには、アメリカプラグマティズムを代表する一人である哲学者のジョン・デューイの教育論もあるが、それだけとは限らない。また、WSの実践者の方々はさまざまなルーツのWSを組み合わせたり、WSを行う過程で起こる課題に対処するかたちで実践的にWSを発展させたりすることもある。したがってここでも、WS一般を批評する難しさが現れる。
 最後は、良いWS論であるほど、その議論の中に既に想定される批判が織り込まれているから、であるという。WSの実践をしていない人々が、外側から言えそうな批判は、WS論の中でほぼ網羅されているというのだ。

 では、WSを社会現象として論じることは難しいのだろうか? 牧野氏は、さらにWS論を読み進めていく過程で、WSの現場での課題や、想定されるWS論に対する批判への「対応策」に注目したという。牧野氏は、ここで語られる内容は社会学者の赤川学先生が論じるところの、「誰が語っても、似たような語り」(赤川 2006)、つまり「言説」とみなすことができるのではないかと述べる。こうして、多くのWS論で似たような語りが登場する「対応策」に注目して、WSの本質的な要素の抽出や考察を進めていった。
 牧野氏は、WS論に織り込まれている自己批判や課題を次のように整理された。それは、「活動の自己目的化:WSをやりさえすればいいと思っていないか」、「単純化の戒め:〇〇するためだけの方法と思っていないか(ex. 会議円滑化など)」、「マニュアル依存批判:各種刊行物が提示する技法に依存しすぎてはいけない」、「権力性批判:ファシリテーターは場を動かす力を持つことに自覚的であれ」、「主体性の逆説:巧みなFAはかえって参加者の主体性を損ねる」である。
このような、WS論に織り込まれた批判や課題は、「ファシリテーターの資質・行動」の問題として扱われる傾向にある。特に、ファシリテーターとして参加している人の「自己」をめぐる管理や統制の議論の中に組み込まれていくという。つまり、先にあげたような事態を避けるためには、ファシリテーターが、自分の感情や行動などを常に「モニタリング」すること、「ふりかえり」をすることなどが重要であると語られるのだ。このことは、「リフレクション」という概念に通じるような問題として語られる、あるいは「リフレクション」という概念の周辺で対応されることが促されていることを意味する。
 「リフレクション」は、ファシリテーターが期待される役割のみならず、WS全体に求められる機能や、参加者に求められる態度を理解するうえでも鍵となる概念だ。WSは学びの場ともなるので、WSに関連する「学習理論」も蓄積されてきた。デューイの学習における省察に代表されるように、このような学習理論で焦点が当てられてきたのも「リフレクション」なのだ。WSを活用してより良い学びの場を作り出そうとする時、既存の学びの方法が乗り越えられなければならない。それは特に、既存の学びの方法における「没反省的なモード」を脱したうえで、WSの活動の中で「反省的なモード」を体得し、新しい考え方や気づきを得なければならない。その時にキーワードになるのが「リフレクション」である。

 牧野氏は、反省性、再帰性などと訳される reflexivity が、現代社会学における主要な概念であると述べた。<近代社会はそれ以前と比べて人々の「反省性」が大きく変わる>という議論は、社会学の立論のひとつだ。前近代的な社会では、人々が何か反省したとしても、反省して自分を組み替えることができる程度がかなり抑えられていた。しかし、近代に学校制度が成立したり、社会の流動性が高まったりすると、それぞれの村のしきたりなど個々のコミュニティに共有されていた規範や価値観が相対化されるようになる。
 こうした状況が徐々に進行し、後期近代には価値観の相対化が一層徹底されると、「それって本当なの?」、「それって本当に信じていいの?」というように、反省性の度合いが際限なく大きくなる。つまり、個々人や共同体の価値観の基礎づけがどんどんと削られていき、心理学者のケネス・ガーゲンが「反省性のエコー」(Gergen 1991)と呼ぶように、人々は何を正しいと信じて良いのか分からなくなっていくという指摘がなされてきた。
 その一方で、反省性の浸透、価値や規範の相対化に対応する枠組みも登場してきた。つまり、どの程度反省したら良いのだろうということに対して、何らかの指針を与えてくれるような反省の形式も台頭してきたのである。例えば、牧野氏の専門である「社会学」という営みも、近代におけるある種の反省の一形式として出現してきたと言われる。そのほかに、例えば自己啓発も、人々が「どのようにどれくらい反省したら良いのか」「どうしたら本当の自分になれるのか」について一定の指針を与えてくれるような、適切な反省の一形式であると言えるのである。
 牧野氏は、WSやFAもまた、適切なリフレクションの形式を習得させる一形式であると言えるのではないかと論じたうえで、さらに次の二点を指摘した。一つは、WS におけるファシリテーターと参加者の反省性の非対称性だ。ファシリテーターに求める反省性は非常に包括的である一方で、参加者は、そこまでの反省性を求められていない。このようにファシリテーターと参加者に求められる反省性には差があるという点である。
 もう一つは、WSやFAで求められる、ファシリテーターと参加者の関係性とはどのようなものかということだ。WSやFAでは、二者の関係性が固定化してもいけないが、その一方で不安定化してもいけない。WSやFAの進行において、ある種のトラブルを入れてもいいが、あまりに即興的になるとワークショップが壊れてしまう、ということをふまえて、全体をデザインすることが求められているという。
 以上の議論を総括して、牧野氏は、WSで起こっていることは「役割レベルでの反省性の配分・統制と、学習活動レベルでのリフレクションの促進・調整の導き」のコントロールではないかと指摘した。一言でいえば「反省性を統制する」ことであるということだ。氏が調査した自己啓発書に見られるような自助マニュアルだけでなく、WS やFAにおいても、リフレクションを形式化することによって「反省性の打ち止め」(牧野 2012)がもたらされているというのである。

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 ご講演の後半で牧野氏は、次の三点の著作に依拠して、哲学対話とWS・FAとの共通点、相違点についての議論を展開された。梶谷真司著『考えるとはどういうことか:0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬社、2018年)、堀越耀介著『哲学はこう使う:哲学思考「超」入門』(実業之日本社、2020年)、河野哲也編、得居千照、永井玲衣編集協力『ゼロからはじめる哲学対話』(ひつじ書房、2020年)である。
 はじめに哲学対話とWS・FAには、場の雰囲気、実践される領域、効用などの点において共通する部分が多々あるのではないかと指摘した。まず哲学対話の場の雰囲気について、対話の場が風通しの良い場所であること、参加者の多様性を重視すること、結論を急ぎすぎないこと、そしてファシリテーターが権威にならないこと、が語られるという点を挙げた。また、哲学対話は、教育、企業、地域などで実施されているが、これらはWSが展開する領域と多分に重複している。最後に効用について、哲学対話を実践している人によって、それぞれのスタイルやスタンスの違いはあるはずであるが、「批判的/自立的/共同的/創造的思考」や、「批判的思考とリフレクション」、「解体(批判)し、再構築(創造)する」、「集合知」などが、効用として提示される傾向にあるのではないかという。
 では、哲学対話が一般的なWSやFAと異なる点はどこか。前者は「哲学」が軸であるため、自分自身の考えを掘り下げていくというところにより重点が置かれているのではないか、と牧野氏は示唆した。もちろん、自分自身を掘り下げていくという方向性を持つWSがないというわけではなく、例えば、身体的な体験や自然な体験の中でそのような試みが行われることがある。しかし哲学対話の場合は、言語を通じて自分自身を掘り下げていくという点において特徴的だといえるという。さらに、一般的なWSと比較して、哲学対話は結論を重視する程度が弱く、問いを重視する程度が強いという点、またメタ・ダイアローグ(そもそもそれはどういうことだろう)を多用する点があり、それらも特徴ではないかと投げかけた。

 ここで、社会学における近代社会論に立ち返ろう。当日の牧野氏の言葉を借りれば、現代のような後期近代社会において、人々は「自分のことをどうしても気にせざるを得ない」という大きな時代状況、社会のメカニズムの中で生きている。
 これはつまり、「長男である」とか「有名企業の社員である」とか、そのような属性で自己を定義したとしても、真に自分を語ったことには、なかなかならないということだ。「私とはなんなのか」、「どういう自分になるべきなのか」、「本当の自分はどこにいるのか」という問いに様々な場所で直面する状況、向き合わされるような時代なのである。牧野氏が様々な社会学者の議論を援用しながら説明されたように、「自己」、つまり「わたし」は、絶え間ないリフレクションの中で構築される対象なのだ。言い換えれば、社会学者のアンソニー・ギデンズの議論に代表されるように、「自己」とは「プロジェクト」の対象であるということだ。このような状況の中で、どの程度リフレクションをすれば良いのか、という方向性を人々に指し示す「反省性の形式」が、自己啓発書やWS・FAなのであった。
 最後に、牧野氏は、哲学対話について、自己啓発書や一般的なWS・FAとは同じではないが、こうした実践と「機能的に等価」な面を有するのではないかと指摘した。ここには二つの論点が含まれる。一つは、牧野氏が先に論じたような、一般的なWS・FA、哲学対話といった、それぞれについての言説に共通する部分や似たような部分が内在しているということだ。もう一つは、これらの実践が異なる側面や固有性を持っていたとしても「機能的に等価」なものとしてはたらくことを可能にするような社会に、現代のわたしたちは生きているのではないか、ということである。
 自己啓発書、一般的なWS・FA、哲学対話も、広く見れば一つの社会的な文脈を共有している。それは、reflexivity や、そのプロジェクトの対象として「自己」が位置付けられるような後期近代の社会的な文脈である。こうした社会の中で、自己のあり方や様々な「問い」について考えるとき、自己啓発書を経由する人もいれば、哲学的な知識や手法を経由する人もいるし、みんなで考える人もいれば一人で考える人もいる。自己啓発書や一般的なWS・FA、そして哲学対話に限らず、どんなに洗練されたものでも、どんなに些細なものであっても機能的に等価になりうる社会的な土壌が生成されているということだ。またこのような現代の社会では、人々の本の読み方が自己啓発的になったり、何が自己啓発的になるのかが読み手に委ねられたりするという側面もあるのではないか。牧野氏は、「何か取り組もうとすると、WS・FA的あるいは自己啓発的になってしまう社会」であるとも言えるのではないか?と問いかけた。

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 最後に、牧野氏は、UTCPの梶谷センター長をはじめ哲学対話を実施してきた会場の方々に向けて、つぎの二つの質問を挙げた。一つは、哲学対話に参加する人々の属性などによって、場のあり方は変化するのか?ということであり、もう一つは、この社会における哲学対話の位置付けとその変化についてであり、(ルーツや広がりは本で言及されているが)哲学対話を続けてきた方がその変化をどのように実感しているか、ということである。
 これについて梶谷氏はまず、対話に参加した人それぞれに何が起きているのかは全くバラバラでよいというのが哲学対話の特徴だと思う、と述べた。対話の中で何かを深められた人もいれば、つまらなかったと思う人もいるかもしれない。このように参加者それぞれに起きていることは、その個人がそのことをどう思うか、どう受け止めるかの問題であり、それをファシリテーターが関知する必要はないという。
 また、哲学対話の広がりについて、梶谷氏自身は当初から、哲学対話が固有のおもしろさを持っているため広めるための活動をしなくても自然と広まっていくのではないかと感じていたそうだ。こうして広がっていく中で、制度的な変化の影響も受けている側面もあると示唆された。具体的には、新学習指導要領が始まり、「主体的で対話的で深い学び」ということが提示されるようになって以来、梶谷氏のもとに哲学対話の依頼などがくることが急速に増えたという印象もあるという。

 梶谷氏が哲学対話を実施しはじめた当初から「WSと似ている」、「WSとは違うんだ」といったことを、他者から指摘されることがあったという。日本の哲学対話の先駆者としては、大阪の Cafe Philo の方々などがいらっしゃるが、梶谷氏は自分で実践を重ねていく過程で、WSとの差異はどういった点だろうかということを考えたり、どうしたら良いかと迷ったりすることもあったそうだ。つまり、講演で牧野氏が論じられたことは、梶谷氏にとっても関心を寄せてきた部分であり、考えていたことが整理され言語による輪郭が与えられたようだ、とおっしゃった。牧野氏のお話では近代の「再帰性」という概念が議論の中心にあったが、たとえばハイデッガーも「本来性」について論じている。20世紀の哲学のみならず、<本物をどこかに探していく>ということは、様々な人々が繰り返し行なっている。それが、自己啓発のようなかたちで大衆化し、社会に浸透してきた様相を知り、世界史的な流れを身近なところに感じる思いであったという。
 さらに梶谷氏は、牧野氏の講演の中で、自己啓発的なものに「巻き込まれ」るという表現を取り上げ、哲学対話の実践を通じた経験もふりかえりつつ、次のように述べた。何かを説明しようとする時に、説明しようとする枠組みのようなものが、自己啓発的なニュアンスを含んでしまうように感じることがあるという。このような時「どうかな」と思いながらも、そのような説明を続けてきたという部分もあったそうだ。
 その一方で、哲学対話を続ける過程で、哲学対話特有のおもしろさを確かに実感してきたという。こうした実感は、なんらかのWSを実践してきた方々で、新しく哲学対話をはじめた人にもおそらく共有されてきたのであり、だからこそ、哲学対話がひとつの新しいヴァリエーションとして受けいれられてきたのではないか、と梶谷氏は述べた。
 ここで注意したいのは、哲学対話を実践している人の中にもいろいろな考え方があるということだ。例えば、哲学対話では結論を重視しない傾向があるが、しかし対話が「哲学的」に深まることが大事だと考えている人は、そうした方向に向かうようなファシリテーションをすることがあるという。具体的には、参加者の発言を聞きながら発言のバランスをとる、議論を整理する、タイミングを見計らいファシリテーター自らが全体に問いかけをする、などである。ただし、梶谷氏の場合はこうした介入をすることはほとんどなく、また対話の後の「ふりかえり」も決してしないと強調した。また、哲学対話によって「成長」という態度からも、梶谷氏はやや距離をとるという。もちろん、哲学対話というツールを用いて成長を促す人がいることを否定はしないが、梶谷氏自身は、哲学対話を「成長」するために用いるというという立場を取らないのだ。「ふりかえり」をしないこと、「成長」という発想から距離を取った場所で哲学対話を実践するということが、近代を抜け出すということに通じるのではないかと、梶谷氏は問いかけた。

 以上が、前半の牧野智和氏のご講演、およびそれに対する梶谷真司氏のリプライの内容である。登壇者の牧野氏には、哲学対話に関する議論について、大変に丁寧にご準備くださりご講演をいただきましたことを改めて厚くお礼申し上げます。(報告:山田)

第二部の報告はこちらからご覧ください。

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