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【報告】2023年度キックオフシンポジウム「共生の希望 Imagining New Subjectivities」(後半)

2023.08.06 梶谷真司, 堀越耀介, 宮田晃碩, ライラ・カセム, 山田理絵, 中里晋三

 2023年6月10日(土)13:00〜17:00、2023年度UTCP上廣共生哲学講座のキックオフシンポジウム「共生の希望 Imagining New Subjectivities」が開催された。対面とオンラインのハイブリット方式で開催され、駒場第一キャンパス内の会場では20名ほどの方にご参加いただいた。
 以下では、第一部の牧野智和氏(大妻女子大学教授)の講演について、山田理絵(UTCP上廣共生哲学講座特任助教)が、第二部のアーロン・ベナナフ氏(シラキュース大学助教)の講演と参加者とのディスカションについて、宮田晃碩(UTCP上廣共生哲学講座特任研究員)がそれぞれ報告する。

 第一部の報告はこちらからご覧ください。

 キックオフイベントの第二部では、『オートメーションと労働の未来』の著者アーロン・ベナナフ氏(シラキュース大学社会学部助教)による講演と議論を行った。最近ではChatGPTをはじめとする生成AIの普及も注目されているが、こうした技術の発展が雇用を減らすのではないか、現にそうした問題が進行しているのではないかという危惧も表明されている。ベナナフ氏はこうした状況に対して、経済思想の歴史も参照しながら、実際のデータの分析に基づき、批判的な議論を展開する。「オートメーション(自動化)は仕事をなくす」というのは間違いだ、というのがベナナフ氏の提示する議論である。
 講演は同著の訳者のひとり、岩橋誠氏による通訳を伴って行われた。技術の発展による生産性の変化など、データを示しながらの議論であったが、シンプルに凝縮された表現のおかげで、その内容は非専門家にとっても明確に理解できるものになっていた。

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 ベナナフ氏が批判する「オートメーション理論」の信奉者たちは、労働の自動化によって人間はもはや仕事から解放されると考える。そうした事態をどう受け止めてどう対応すべきだと考えるかは、論者によって様々である。しかし興味深いことに、右派の論者も左派の論者も共通した見解を示す点がある。それはベーシックインカムの導入である。ベーシックインカム、とりわけ「ユニバーサル・ベーシックインカム」とは生活に必要な金額をすべての人に定期的に支給するという制度だが、労働が自動化された社会では労働に対する給与がもらえないから、その分をこうした制度によって補填する必要があるというわけである。
このような議論が焦点を当てているのは、要するに分配の問題である。労働・生産については大部分が自動化されてゆくから、そこは技術の発展に任せて、財の分配について議論しようというわけである。
 ベナナフ氏はまさにこのような視点の移動に警鐘を鳴らす。その批判の眼目は二点にわたると言える。ひとつは、労働や生産のあり方を自分たちの手に取り戻そうという呼びかけであり、もうひとつは、そもそも事実認識のレベルでオートメーション論者たちは間違っているのではないかという指摘である。
 技術の発展は本当に労働を不要にするのかという点に関しては、実際のデータを参照して確かめることができる。ベナナフ氏によれば、統計的に見た場合、オートメーション論者の主張に反して、技術の発展が雇用を奪ってきたと言うことはできない。オートメーション論者の議論に従うなら、一人当たりの生産性は機械の助けによって上がり続けている(言い換えれば、一定の生産に必要とされる人数が減り続けている)はずだが、実際には生産性の上昇率は停滞傾向にある。これはひとつには、そもそも市場規模が限られており「過剰生産」に陥っていることによる。限られた市場をめぐって競争が起きているのである。それと同時に、製造業に代わってサービス業が台頭することで、生産性の向上は比較的難しくなっている。こうした状況を見るに、オートメーション論者の前提は間違っており、つまるところ技術の発展が人間から労働を奪うとは言えないとベナナフ氏は結論づける。もちろん現実に、雇用の不安定化という問題は拡大している。日本でも非正規雇用の増加は深刻な問題である。しかしこれは技術の発展によって労働が代替されるようになったという新奇な問題ではなく、あくまで社会制度の問題として捉えねばならない、つまり雇用創出などの従来からある課題として捉えねばならないというのである。

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 これがベナナフ氏の提言につながる。たしかに技術は必要な労働力を充足してくれるから、市場において労働力の希少性はほとんど意味を持たなくなるだろう。つまり(日本の戦後の「金の卵」の時代のように)より多く生産するためにより多くの人がより多くの時間、より高い効率性を目指してあくせく働くといった働き方は無くなっていくだろう。その意味での「ポスト希少性」の社会はたしかに到来する。しかしそれは、労働が全く無くなるということを意味するわけではない。「ポスト希少性」の社会に向けてベナナフ氏が提言するのは、次の四つのことである。第一に、ベーシックインカムや財、サービスの提供を拡大すること。第二に、週当たりの労働時間を減らして、仕事を再分配すること。第三に、投資を(新自由主義的な競争原理に任せるのではなく)社会化すること。第四に、様々な機関・施設を民主化すること。特に第二の点に、オートメーション論者に対するベナナフ氏の批判的な態度が表れている。これらはいずれも、仕事をめぐる社会のあり方を私たちの手に取り戻すという方向を示しているだろう。今回の講演では提言がさらに具体的に展開されたわけではないが、オートメーション論者への批判を通じてベナナフ氏が示したのは、技術の発展を盾に思考停止することへの抵抗であったと思う。
 講演を受けて、参加者との議論が為された。挙げられた質問のひとつは、ベナナフ氏自身の議論がどのような社会を視野に入れたものかを問うものもあった。実はベナナフ氏の議論は、決して欧米のみを念頭に置いたものではない。むしろインドなどグローバル・サウスの現状を見てきたことが、オートメーション論者への疑いに繫がっているのだと言う。これと関連して、ベナナフ氏自身の初心がどう展開してきたのかを問う質問もあった。ベナナフ氏は著作のなかで、幼い頃からテクノロジーやSFに強く惹かれてきたと述べている。そこからオートメーション論者への批判に繫がっていくのはどういう経緯かという質問である。ベナナフ氏は、必ずしもテクノロジーそのものに反感を抱いているわけではない。テクノロジーもそれによって変わっていく社会も魅力的である。しかしその一方で、テクノロジーが一部の人にのみ恩恵をもたらしているという現状がある。テクノロジーを愛しているからこそ、それをどう使うかを慎重に考えたいのだとベナナフ氏は語った。またキックオフイベント前半の内容とも関わる質問も挙げられた。それは、世にあふれる「生産性を上げよう」といった自己啓発的な呼びかけをどう理解すればよいのかというものであった。個々人の生産性の向上がもはやさほど意味を持たないのだとすれば、こうした言説からは早晩自由になれるのだろうか。この問いに対しては、まさに仕事の分配が重要なのだと言える。おそらくそのための言葉や考え方を、私たちは育てねばならないのである。

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 ファシリテーションとワークショップに関する牧野氏の講演と、「オートメーションと労働の未来」を論ずるベナナフ氏の講演は、テーマにおいてかなり離れているようにも思われよう。しかしいずれも、私たちがどのように「主体」として形作られていくのか、また私たち自身を形づくっていきたいと望むのかを問うものであったと思う。そして、社会学的な分析や経済学的な分析が、いかに批判的な思考に資するものかを示していると言える。私たちが自由であるために、学問はどのように役立ちうるのか。今回のキックオフイベントは、それを開いていく機会ともなったのではないか。(報告:宮田)

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