梶谷真司「邂逅の記録43:人文学と制度 ~ 危機への応答」
《人文学と制度 ~ 危機への応答》
人文学の危機が叫ばれてかなり久しい。その課題と可能性を制度との関連で考察したのが、西山雄二さんの編による『人文学と制度』である。今回のワークショップは、この本の出版記念イベントで、西山さんのほか、執筆者の大河内泰樹さん、藤田尚志さん、宮崎裕助さんを迎えて行われた。UTCPからは、執筆者の一人でもある星野太さんと私が出た。
内容的な報告については、星野さんがしているので、ここでは参加した私の所感を述べるとしよう。西山さんの言によると、このような企画、研究に対して、人文学の危機は、制度の問題ではなく、いい論文さえ書いていれば、おのずと乗り越えられるから無駄だというような批判があったらしい。おそらくは「古き良き時代」の既得権益を当たり前のように享受している世代の意見だと思われるが、研究というのは、制度そのものである。論文を書くのも、授業をするのも、学会で発表するのも、すべては教育と研究を支える制度によって初めて可能になっている。当然のことながら、そういう高尚なことを言う先生の給料も制度によって支払われている。だから、人文学に限らず、学問や研究、教育にとって制度は決定的なのだ。このような俗っぽいことは、特に人文学の世界の人間は、まじめに論じたくないのだろう。その言わばタブーの領域に正面から取り組んだ西山さんとその他のメンバーに、まずは敬意を表したい。
さて、このような危機は、そもそも日本と欧米諸国ではどう違うのだろうか。西山さんによると、先進資本主義諸国全般が似たような状況にあるらしい。もちろん本の各論を読めば分かるように、国ごとの違いはある。しかし、根本的には日本特有の制度的ないし文化的問題というより、やはり資本主義の論理による効率化というグローバルな現象であろう。人文学のような実用性が明確ではない知は、そうした論理と折り合いが悪いのだ。
他方で、これは私の問題提起だったのだが、そもそも人文学が安泰でいられる社会とは、どのようなものなのか。一つの極端な例は、中国における大規模な文化事業である。清朝の時らしいが、学者たちは皇帝からふんだんな時間とお金を与えられ、古典の大編纂事業を任された。人文学者にとっては夢のような話に思えるかもしれないが、皇帝からすれば、たっぷり仕事とお金を与え、学者が余計なことを考えないようにして飼いならすという意味があったらしい。また近代で人文学が優遇された例としては、社会主義国におけるマルクス主義や、体制派の保守的学問であろう。つまり、人文学というのは、体制を支持するものとして制度的に方向づけられていれば、安泰でいられるのだ。
だがそれは、人文学にとって別の意味で危機ではないだろうか。人文学が教養主義や伝統と結びつく時、それはしばしば保守的で体制寄りのものになりやすい。もし「批判」という側面が人文学にとって本質的なのだとすれば、体制からある程度は距離を取らねばならず、場合によっては不遇であるくらいが健全なのかもしれない。提題者の一人、大河内さんが書いておられることだが、今から振り返れば、哲学の黄金期のように見えるヘーゲルの時代、彼自身はベルリン大学総長就任時、人文学は危機にあると考えていた、というのも示唆的である。
さらにまた、資本主義との関係も、それほど単純ではない。確かに効率性を重視されると、文系の学問は、理系に比べると分が悪い。けれども、大学への予算を削減し、その代わりに科学研究費を申請させて審査の結果に従って配分するのは、大学で大した仕事もしていないのに自動的に給料と研究費が降ってきていたかつての制度を、きちんと成果の上がる研究にお金を出すようになったという点では、紛れもなく効率化である。だが同時にそれによって、研究がより推進された面があったことも事実であろう。とりわけ若手が自らの研究をデザインして進めていくというのは、それ以前にはありえなかったことであり、その意味で効率化は人文学のみならず学問全体にとってプラスになったと思われる。
そのことと、大学において人文学のポストが削減されるのは、同じ現象の異なる側面にすぎないのかもしれない。もちろんバランスは重要だ。しかし、一方は善で他方は悪だと決めつけることもできない。それに私たちがどうあがこうと、資本主義から離れて生きられるわけではない。だとすれば、人文学の側も、資本主義の論理に翻弄され、犠牲になるのではなく、どうやってそこに自ら積極的に関わっていくのかをスタンスをとるのかというとどのように関わるかを考えていくべきだろう。そこでUTCPの石井さんが「お金を使い倒すしかない」と言っていたのが印象的だ。どうやって有効に使うかに制度的な条件付けはあるが、その制度を使ってこちらがイニシアティヴをとれる部分もある。
また、ポストとの関係で言えば、人文学で大学院に行ったら研究者になるしかない、という発想は、今の制度に合わなくなっているのに、それでも減り続けるパイをめぐって争うところにも問題が深刻化する原因がある。だとすれば、人文学の知を社会の中でどう生かすか、それをどうやって資本の論理に乗せていくか、しかもそれが保守的な体制支持に加担するのではないやり方はどういうものか・・・。私たちは、制度の中で制度を批判しつつ、その中でそれを乗り越える術を模索しなければならないだろう。そうした制度との屈折した戦いこそが、人文学の本質なのではないだろうか。そのためにもまずは、制度の何たるかを知らねばならないのだ。