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時の彩り(つれづれ、草) 087

2009.11.26 小林康夫

三分の一の縮減

昨日は、行政刷新会議の事業仕分けでグローバルCOEが取り上げられた日。「大学論」をひとつの軸にしているUTCPとしては無関心ではいられない。

西山さんには仕分けの会場に赴いて「現場」を体験してきてもらったが、わたし自身もオフィスでネット中継を「観戦」した。

わたしとしては、さまざまな政治的なプロジェクトが、もはや上からの一方的な「政策」という形では機能しなくなっている現実を目の当たりにするような思いでいた。もちろん、この事業仕分け、いろいろ乱暴なことはあるし、わたしとしても突然に、GCOEの予算がストップなぞされてはたいへん困る。だが、UTCPの当面の運命をわきにおいて考えるなら、最終的には、われわれが「田中角栄」的ではない新しい政策運用の方式をどのように生み出すのか、という問題に集約されると思う。

政策の決定者が誰かという問題だけではなく、政策の実行の現場がほんとうに現場として機能しているのかどうか、という責任の問題でもある。ドゥルーズではないが、ツリー状の政策権力構造ではない、それと重なりあうようなもうひとつの政策決定構造をどう生み出すのか。民主主義はいま、そのプラクシスを問われているといえかもしれない。


懐かしさ(現象学)

先週は、ヴァルデンフェルス先生のふたつの講演会に出席した。それぞれ《注意》と《声》というわたし自身にとってもかつてより興味のあるテーマ。現象学の現在がどういうものか興味津々。

でも、なぜか先生の講演内容がとってもよく理解できて、ほとんど違和がなかった。わたし自身も出発点はメルロ=ポンティだったし、その後、デリダ的な哲学へと転回はしたが、先生もドイツにおけるデリダの紹介者でもあって世界各地でデリダと同席したことがあると言っていた。個人的には、なんだか遠い昔の時間が戻ってきたような「懐かしい」感覚。

そういえば、第2回の講演の最後のトピックは、わたしもかつて取り上げて書いたことのあるマルセル・プルーストと母親との「電話の会話」だった。前世紀の初頭、機械を通してかすかに聞こえてくる《母の声》に、ふだんは感じ取れない、祖母を失った母の《魂》の悲嘆を、そのひび割れた《魂》そのものを感じ取る、という話だったはず。今日の勢いで言ってしまうと、これこそ真正のクリティカルなモメント。つまり「物言わぬ力」(ベンヤミン)が表象や意味を超えた《批評》を可能にするのだ、と夏のブログのひとつを書き継いでおこう。

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